第3話 諸葛瞻

 徐覇が馬から飛び下りて剣を拾う。ひらりとまた鞍に座って、おれと曹青に言った。

「また渭水を渡れば帰れるのでは」

 おれたちの周りにはもう、蜀の兵たちはいない。遠くで入り乱れて戦っているのが見える。

 おれは徐覇に、首を横に振って見せた。

「渭水のどこを渡るんだよ。長いぞ。渡る場所によっては本陣より遠くなる」

 曹青は徐覇に、ごった返す兵たちを指で示す。

「見ろよ。君はおれたちに、あの中を突破しようって言うのかい。君のじい様が関羽の囲いに長駆直入したことがあるからって、その時と今とでは状況が違う。直入はできるかもしれないが長駆は無理だぜ」

「確かに……」

 肩を落とした徐覇は、すぐに顔を上げた。

「ここで立ち止まっていても本隊に合流はできません。動いた方がいいと拙者は考えます」

 おれは徐覇に笑いかけた。

「なあ。おれ、おまえで話さないか。おれたちはきょうだいであり、友だちじゃないか」

 徐覇ははたと目を見開いたまま固まった。しかしすぐに目尻を下げ、口角を引き上げる。

「うん! そうする!」

 目が鋭いのに、笑うとかわいげがある。おれたちは少しだけ元気を取り戻した。

 でも、どこへ向かうか?

 そこへ騎兵の一団が駆け込んだ。旗には「魏」と刺繍されている。

「よし、やったぞ。本隊だ」

 拳を握るおれに曹青が厳しい顔を向けた。

「待てよ。あったか? あんな旗」

「でも、『魏』って書いてあるぜ」

 徐覇がつぶやく。

「魏は、姓でもある。魏の姓をもつ将軍はこちらにはおられなかったはず」

 話していると、「魏」の旗を持つ騎兵の一人がおれたちに駆けてきた。

「どうした、おまえたち」

 おれは背筋を伸ばして答えた。

「本隊とはぐれ、 難儀しております!」

 曹青がおれをつつく。

「蜀軍だったとしたらどうするんだ」

 おれは目だけで振り返り、小声で言う。

「忍び込んで内情を探れる」

 さっきの騎兵が眉をしかめる。

「いかがいたした。何をひそひそ話しておる」

 徐覇が大きな声を出した。

「本陣への帰り道がわかりませぬ!」

 騎兵はおれたちを少しの間にらんだが、すぐに言った。

「では、ついて参れ」

 おれたち三人は大きな声で答える。

「はッ!」

 おれたちはその騎兵に従い、おれたちの本隊かどうかもわからないその「魏」の旗を追った。



「やっぱり……」

 曹青がおれをにらむ。おれは曹青に素直にあやまった。

「ごめん……」

 徐覇は前を向いたまま、表情も動きもぴたりと止めてしまっている。

 なぜならおれたちの目の前にはためくのは十本より多い「諸葛」の旗だからだ。つまりここは、本陣は本陣でも、おれたちの敵である蜀軍の本陣なのである。

 さきほどの「魏」の旗に囲まれ、一人の将軍が大股でずかずかと歩いて来た。

 大柄で派手な目鼻立ちをしていて、甲冑をつけていても筋骨たくましいことが見て取れる。年齢は仲達どのと同じくらいだろう。

 その将軍はおれたち三人をちらりと見て、足を止めた。

「本隊からはぐれたと言うのはおまえたちか」

 芯のある大きな声だ。耳にびりびり響く。もう、仕方がない。おれは直立不動で大声を出す。

「はい、さようでございます!」

「誰の部隊にいた」

 またおれが目の前に立つ将軍に負けないくらい大きな声で答える。

「『魏』の旗の部隊であります!」

 すると将軍は口角を下に曲げた。

「なんだ、わしの隊ではないか」

「魏将軍、申し訳ございません!」

 おれが勢いよく腰を折って頭を下げると、曹青と徐覇も頭を下げ、大声で言った。

「申し訳ございません!」

 魏将軍はおれたちに頭を上げさせた。

「まだ経験も少ない孺子どもだ。今日のところは許してやる」

「ありがたき幸せ!」

 またおれたちは喉が嗄れるほど声を張り上げる。

 魏将軍は腕組みをした。

「覚えておけ。わしの名は魏延あざな文長。血を落として飯を食ってこい」

「はっ!」

 おれたちはようやく解放された。おれたちに「ついて参れ」と言った騎兵が幕舎へ案内してくれた。おれたちより四、五歳年上に見える。おれたちを見上げて、ほっとしたように言った。

「おれは任政。おまえたち、あのくらいで済んでよかったな。魏将軍は厳しいことで有名なのだぜ」

「任政どののおかげで命拾いをいたしました!」

 おれがまた大声で言うと、曹青と徐覇も続く。

「命拾いをいたしました!」

 声がもうがらがらだ。これ以上しゃべったら声が出なくなる。任政どのは照れ笑いを浮かべた。

「よせよ。お互い様だ。ところでおまえたちの名前は?」

 どうする。本名なんか、名乗れないぞ。すると曹青が大きな声で名乗った。

「王と申します! それがしらは兄弟です!」

 王は曹青の母上の姓だ。

「へえ、一番上は誰だい」

 曹青がおれの脇腹をひじで押す。おれは叫んだ。

「それがしです! 王竜と申します!」

 曹青が間、髪を容れずに腹の底から声を出す。

「二番目はそれがしです!名は王青!」

 徐覇がおれたちよりも大声で名乗る。

「末がそれがしです! 王覇であります!」

 任政どのが笑った。

「はいはい、わかったわかった。もうそんなにでかい声を出さなくてもいいよ。そうだ、おれ、飯の当番なんだ。王、一緒にやってくれないか」

 喉が痛い。それは曹青も徐覇も同じらしい。もう腹からじゃないと声が出ない。ええい、これが最後の大声だ! 三人で叫ぶ。

「やります!」


 夕食の準備が始まった。実はおれと曹青は飯を作れる。そのわけは、先帝が子廉どのを獄にくだした時に財産を取り上げ、それをおれたちが使えなくなったからだ。おれたちは子廉どのの屋敷に住んでいた。おれたちが財産を使えないので、今まで働いてくれていた人たちに給金を払えなくなった。だからその人たちにはやめてもらった。それからは飯を作ることだけじゃなくて洗濯や身の回りのことはすべて母上とおれたちですることになったというわけだ。おれの父上や飛将のおじ上が持っていた財産もあったけれども、それはだいじにとっておこうと、母上と、曹青の母上である王玲どのが決めた。それに母上は間者だったし、王玲どのは父一人娘一人で暮らしてきたので、家の仕事はほとんどこなせる。だから、おれたちの暮らしに変わりはなかった。

 徐覇は飯の支度をしたことはない。でもおれの隣で鍋をかき混ぜたり、お玉でおかゆをよそったりするのを教えたら、すぐにできるようになった。

 兵たちにおかゆを配り終えて、おれたちも食べようとした時、男の子が一人、鍋の前に立った。

 七、八歳くらいに見える。その年頃にしては体が小さい方だろう。目が大きくて、きれいだ。両手に、器が二つ乗ったお盆を持っている。その子が口を動かした。

 おれは母上から、口の動きから何を言っているのかを読み取る方法を教わった。だからその子に聞く。

「片方は半分、もう片方はいっぱい、盛ればいいんだな?」

 その子は目を見開いてびくりと体を揺らした。

 おれはその子が求める通りによそってやる。

 その子はおれをじいっと見て、頭を下げた。こぼさないように、一足、一足、ゆっくりと歩く。

 おれはその子が心配になり、追いかけて並んだ。

「おれも行くよ」

 その子はおれをあおぎ見る。

 月も星もない。照らすのはかがり火だけだ。

 その子が向かう幕舎を見て、おれは足を止める。

 兵たちの幕舎よりもひときわ大きい。その左右に立つ旗には「諸葛」の字が大きく縫ってある。

 蜀の丞相、諸葛孔明が、あの中にいるのだ。

 入り口に立つ兵の一人が布を持ち上げてその子を通す。もう一人の兵が中へ呼びかける。

「食事をお持ちしました」

 その子が入っていくのを見届けて、おれもきびすを返す。歩き出そうとした時、後ろから呼び止められた。

「ありがとう」

 振り返ると、背の高い人がいる。

 ――まさかこの人が、孔明?

 拱手の礼を返したおれに、その人は歩み寄った。

「瞻が世話になった。一緒に食事をしていきなさい」

 すぐれた容貌をおれは見上げ、嗄れた声で尋ねた。

「諸葛丞相でいらっしゃいますか」

「いかにも。私は諸葛孔明である」

 おれの足は根をはったように動かなくなった。


 孔明はおれに、自分の器をよこした。

「瞻、おまえの分を少し入れなさい」

 瞻と呼ばれた子がまだ箸をつけていない器からおかゆを注ぐ。孔明が静かな笑顔でおれに勧めた。

「さあ、食べなさい。私も瞻も食が細い。平らげてくれれば却ってありがたい」

「お言葉を返すようですが、丞相はそれでよろしいのですか」

「心配ない。私は瞻と分ける」

 静かに食事が始まった。

 瞻と呼ばれたこの子は、孔明の何なのだろう。

「読唇術を使えるのか」

 おれはおかゆを吹きそうになった。あわてて頭を横に振る。

「ただ、そんな気がいたしただけでございます」

「そうか? 唇の動きだけで読み取れる者はそうはおらぬはずだが」

「口の聞けない友がおりましたので」

 嘘をついた。おれの両親が間者だったなんて、口が裂けても言えない。

「そうか。それなら得心がいく」

 瞻は行儀よく食べ、残りを孔明に渡した。孔明もきれいな仕草で食べ終わる。おれは思い切って口を開いた。

「恐れながら、おうかがいしてもよろしいでしょうか」

 孔明が整った顔をほころばせる。

「恐れる必要がどこにある。何かね」

「その方は、丞相のお子様であられますか」

「そうだ。諸葛瞻という」

 諸葛瞻がおれに、ぺこりと頭を下げた。小さな唇の山のてっぺんがとがっていて、頬がふっくらしている。澄んだ目がおれをとらえた。

 孔明が一人言のように続けた。

「誰もが知っていることだが、私とは血がつながっていない。二年前の曹魏とのいくさから帰る折り、民家に一人でいるところを兵が見つけ、私が引き取った。口を動かせるものの声は出せないところから考えるに、以前は話すことができたのであろう。何らかの原因で声を発することができなくなったようだ。それが何かはわからない」

 諸葛瞻がおれに向かって口を動かす。おれはその声のない言葉に、声を失った。

『おれ、ほんとうは、声、出るよ』

 諸葛瞻の大きな目に、おれは自分の顔を見た。

 孔明のすっと伸びた眉と眉の間に深い縦じわが寄る。

「いかがいたした。瞻が何か」

 諸葛瞻はまた口を動かす。

『詳しいことはあとで』

 諸葛瞻が孔明を振り返った。

 孔明が諸葛瞻をひと呼吸見たあとで一度うなずき、おれに顔を向ける。

「そなたとまた会いたいそうだ。誰の隊に属しているのか」

「魏文長将軍の部隊でございます」

「文長の?」

 孔明がすごく嫌そうな顔をした。仲がよくないのか? おれは諸葛瞻にちらりと目を移す。瞻はまた口だけ動かした。

『魏将軍は父上の悪口ばかり言ってる』

 おれは考える。また諸葛瞻に会いに来るとしても、今はいくさの真っ最中だ。落ち着いて話せるひまがあるだろうか。

 それなら戦況を聞いてみよう。父上たちの様子もわかるかもしれない。わかれば曹青や徐覇にも伝えることができる。

「丞相。我が軍は勝利いたしましたか」

「調べたのち、そなたたちに知らせよう」

 勝ったのなら、素直にそう言うはずだ。つまり、蜀軍は立ち直るのに日数を要するわけだ。将兵の欠けが少なく武器や馬の数が減っていないのなら、日をおかずに反撃できる。反撃せよとすぐにおれたちに命じないということは、曹魏が勝ったと見て間違いないだろう。

 外から兵が声をかけた。

「申し上げます。ご典医、お着きになりました」

 孔明が眉目をもとに戻す。

「あいすまぬ、そなたは隊に戻ってくれ。追って知らせを入れよう」

 おれは身を乗り出し、すかさず言った。

「丞相、それがしには弟が二人おります。彼らもご子息様のよきお相手となるはずです」

 孔明が嬉しそうに笑う。

「さようであるか。さすれば、伴って参れ。そなたの弟たちならば、瞻とも、よき友になれるだろう」

 孔明の笑顔に見送られ、おれは幕舎を出た。すれ違ったご典医が持つ木の手提げ箱からにおいがする。

 曹祥さまが薬湯を飲む姿がおれの頭の中に浮かんだ。

 ――ああ……っ。にっがぁい!

 その薬湯によく似たにおいが、手提げ箱から漂い出ている。

 おれや曹青と一緒に暮らしていた曹祥どの。飛将のおじ上の妹御。病がちで、お美しくて、荀家に嫁いでからもちょくちょく訪れて、おれや曹青、おれたちの弟たちとよく遊んでくれた。おれたちはいつも曹祥どのに続けて物真似をしていた。

 ――にっがぁい!

 ――まあ、竜も青も、わたくしの物真似が上手になったこと! そんなにうまく物真似をする口はどこにあるの?

 曹祥どのはにやにやしながら両手をかまえて俺たちに近づく。

 ――覚悟はよくって?

 おれと曹青はほっぺたをつねられる。

 ――いってえ!

 ――急に引っ張らないでください!

 ――口が減らないこと! けれども子供は、その方が、かわいげがあってよ!

 荀節を産んだあと体を壊したのに、練兵場まで足を運んでくれた。

 ――竜、騎射の稽古は進んでいる?

 ――はい!

 ――青は?

 ――今、お目にかけます!

 おれたちの騎射を見ると目を輝かせて、まるで俺たちと同じ年頃の女の子みたいにとびはねた。

 ―― 素晴らしい! 父上や飛将兄さま、暁雲兄さまがそこにいるみたい!

 曹祥どのの臨終には父上や飛将のおじ上、子廉どのも間に合い、みんなで見送ることができたんだ。曹祥どのは最後まで美しかった。

 ご典医が幕舎に入り、においは途切れた。

 三つ、わかったことがある。

 孔明は魏延をよく思っていない。

 孔明は病気だ。

 そして――諸葛瞻はわざと声を出さずにいる。


 それから魏軍も蜀軍も何一つ動かずに日が過ぎた。孔明はおれに何も言ってこない。おれたちの消息が父上たちに伝わっているかどうかもわからない。

 魏延は毎日、他の者にも聞こえるようなびりびりくる大声で愚痴を言う。

「だからわしが言う通りにすればよかったのだ」

 おれは耳を澄ます。

 ここは魏延の本陣。兵たちが馬の世話をしている。具足を修理している。調練しているやつは一人もいない。

「これが魏軍なら、調練は当たり前だ」

 おれの隣で曹青が冷え冷えした声で言う。

「魏軍と比べて、ゆるい」

 徐覇が信じられないと言った顔つきでつぶやく。

 魏延は腕組みをして足を広げて立ち、将校相手に大声で一席ぶっている。

「わしは丞相に何度も進言している。わしに一万の兵さえ預けてくださればその足で長安を落としてご覧にいれまするとな。ところがあのお方は首を縦には振らなんだ。それだからこうして無駄に日々を費やしておる。魏軍などあそこにああして、さあ攻撃してくだされとでも言わぬばかりに布陣しておると言うのに。まったく、先帝は何ゆえあのような田舎書生をお手元に置かれたのか」

 魏軍でこんなことをのたまうやからがいれば、即刻連行されて打ち首だ。それなのに誰一人として魏延をしょっぴいていくやつはいない。

 それにしても暇だ。

 魏延は幕舎に引っ込んだ。将校たちもついていく。あとから取っ手つきの水差しを持った兵が一人、杯を人数分両手に持った兵が一人入った。どうせ酒盛りでも始めるつもりだろう。まだお天道様が空の真上に来たばかりだぜ?

 徐覇が突然、ぽんと拳で手のひらを打った。

「物見になればいいんだ」

 おれは徐覇に問いかける。

「いくさもしてないのにか?」

「ここにいても何も進まないだろ。それなら魏軍の様子を見てくればいい。うまくすればそのまま帰れる」

 曹青が徐覇の肩をつかむ。

「勝手に動けばそれこそ軍令違反で身動きが取れなくなる。戻らなければ怪しまれるしね。それならおれに考えがある」

 おれたちは曹青の次の言葉を待った。曹青はにやりと笑う。

「孔明のところへ行くんだ」


 諸葛瞻が孔明の幕舎の前にいた。馬にまぐさを食べさせている。

「よう、瞻」

 おれが明るく声をかけると、諸葛瞻が体を起こした。とっとっとっと駆けてくる。

『そういえば、きみの名前は?』

 口だけ動かして聞くので、おれは笑いながらにらんでやる。

「声、出るんだろ」

 諸葛瞻は口をとがらせ、ほっぺたをぶうとふくらませた。また口だけ動かす。

『うしろにいる二人はだれ』

「おれの弟たち」

『信じていいの』

「ああ」

『そのまえに、きみの名前をおしえて』

「王竜」

『弟たちは何ていうの』

 おれは後ろを向いて二人を促した。

「王青という。竜の弟だ。よろしくな」

「おれの名は王覇。青の弟だよ」

 徐覇がにこにこしながら優しい声で名乗る。そういえば初めて会った時、十にならない弟たちがいると話していたっけ。

 諸葛瞻がついに声を発した。

「諸葛瞻だよ」

 高くて、かわいらしい声だ。

 曹青の目玉が飛び出そうになる。

「しょ、諸葛だって?」

 徐覇の唇が震える。

「こ、孔明……じゃない丞相の血縁?」

 諸葛瞻は事も無げに答えた。

「血のつながりはない。おれは拾われたんだ」

 おれは諸葛瞻に尋ねる。

「丞相に申し上げたいことがあって来たんだ。取り次いでもらえるかな」

「何を話すの」

 曹青が気を取り直して切り出す。

「丞相の悪口を言っているやつがいるんだ。そいつが何を言ったのかをお伝えしたい」

 諸葛瞻がかわいい声でさえぎる。

「どうせあいつでしょ。魏延」

 徐覇が膝をつき、諸葛瞻と目の高さを同じにする。

「丞相もご存じということかい」

「うん」

「いつもどうなさっているんだい」

「放っておいてる」

「それだと、他の将軍たちも、丞相の命令を聞かなくなるのじゃないか?」

「魏延だけなんだって。魏軍とやりあえるのは」

 曹青も膝をついた。

「そういえば、蜀軍にも魏から降った武将がいると聞いたことがあるけど、彼はどうなの?」

「姜将軍のこと?」

 そいつのことはおれも父上から聞いたことがある。その時に曹青もおれの隣にいたから知っているんだ。

 姜維あざな伯約。孔明が初めて北伐をおこなった際に投降した天水の武将。頭がよくて武芸も仕事もできるそうだ。

 諸葛瞻は考え込む。

「よくわからない。いつもいっしょうけんめいだけど、てがら話はおれはきいたことない」

 つまり、いくさは下手なのかもしれない。武芸にすぐれていることと、兵たちをやる気にさせてうまく動かすことは、また別の話だ。

「父上にとりついでくる」

 諸葛瞻はとっとっとっと幕舎に向かった。


 待ちくたびれて草むらに座り込んだおれたちの前には、兵や将軍たちが列を作っていた。二人、三人と孔明の幕舎に入る。出てこない。

「何だよ、この列」

 曹青はいらいらしている。

「もうお天道様があんなに下がってる」

 徐覇が空を見上げて目を細める。

 おれは立ち上がった。こういう時こそ出番だ。

「のぞいてくる」

 間者の技を活かす必要なんかなかった。並んでいる連中はおれなんかに目もくれない。おれは幕舎の裏にしゃがむと、耳を天幕に近づけた。

 孔明の声がする。聞いていると落ち着く。この声で進言されたら、誰だって聞き入れるだろう。

「胡はそう言っておるが、魯、間違いないか」

「はい。間違いございません」

「これからは帳簿を一人がつけたら、もう一人が確かめよ。金を自分たちの目で見て、残りを確かめることも忘れるな。さすればつけ忘れも減る」

「そのようにいたします」

 胡と魯が声を合わせた。

「次」

 孔明が呼ぶ。

「丞相。魏将軍のことなのですが」

「文長がまた、私を誹謗しておるか」

「はい。この耳で今日の昼、じかに聞きました」

「そなたは文長の隊にいたな」

「昼日中、酒につき合わされまして……」

「断るとあとが厄介というわけか。共に酒を飲むことでそなたはおのれ自身を守ったのだな」

「面目ないのですが……」

「断れないのはそなたの弱気であろう。それはこの孔明でも直せない。それで文長は何と申していたのだ」

「わしに一万の兵さえ預けてくださればその足で長安を落とすのにと。先帝は何ゆえあのような田舎書生をお手元に置かれたのかと」

「相変わらず同じことばかり申しておるな。それでそなたはいかに考えるか。このまま文長の策の通りにいたすか」

 話が止まった。

 孔明は律儀に待つ。

 その将校はぽつりと言った。

「いたしません」

「その理由は?」

「長安を落としても、そこから洛陽へ攻めのぼるには、一万では少なすぎます」

「それで?」

「洛陽へ攻めのぼれば、魏軍にこっぱみじんにやられます。戦ってわかりました。魏軍は強い」

「つまり洛陽の奪還は難しいと」

「それがしはそのように考えます」

「私もそなたと同じ考えだ。そなたの意見を聞いて安堵した。これからも文長の酒につき合ってやれ。そしてその考えを大事に持っていてほしい。私亡きあとの蜀はそなたたちにかかっておるのだからな」

「不吉なことをおっしゃいますな」

「人は皆いつかは死ぬ」

「……丞相。今日魏将軍がおっしゃったことは、まだございます」

「どのようなことを申したのだ」

「魏に、降らないかと」

 どちらも、それきり何も言わなくなった。

「真に文長はさようにそなたたちを誘ったのか」

「お止めしました。しかし、本気だと。魏に召しかかえられたほうが、この先安泰だと」

「いつ降ると申しておった」

「次に魏がしかけてきた時にそうすると。しかけてこなければ丞相に進言し、出撃命令を出させると。もし丞相が取り上げなければ、自らそれがしらを率いて打って出ると申しておりました」

「ありがとう。よくぞ知らせてくれた。この件は他言無用である」

「心得ました」

 少しして、また、「次」と孔明は言った。

 おれは曹青と徐覇のもとへ急いで戻った。列はだいぶ短くなっている。

「魏」

 徐覇が大きな声で言うものだから、おれと曹青で口を押さえた。

 おれたちは列から離れた。

 徐覇が小さい声で言う。

「魏延が魏に降るだって?」

 曹青が顔をしかめる。

「ばかばかしい。あんなやつ、魏の将軍には向いていないよ」

 おれは二人に話した。

「でもうまくすれば、おれたちも戻れるぜ。これはまたとない機会だ。なんとかものにしようぜ」

「どうやって?」

 徐覇が眉を下げる。

 おれが言おうとした、その時だった。

「王竜、王青、王覇」

 かわいらしい声に振り返る。諸葛瞻がにこにこしながら立っていた。

「入ってだって」

 おれたちが幕舎に入ると、孔明だけがいた。彼は立ち上がり、震える声でおれたちに言った。

「瞻が、瞻が、声を発した! そなたたちと話して声を出せたと。王竜、王青、王覇、礼を申す」

 そう言って深々と頭を下げたので、おれたちも同じようにした。諸葛瞻は唇をくちばしみたいに突き出して、すまし顔で両の目玉をななめ上に向けている。

 孔明は腰かけ、口調を改めた。

「さて、文長のことを話したいそうだな」

 曹青が答える。

「はい。昼日中、酒盛りをして、丞相を誹謗しております」

「知っている。して、そなたは、私に、文長を処罰してもらいたいのか」

「処罰していただきたいとは思いませぬ」

「何ゆえそう思う」

「魏軍を破るために魏将軍が必要だと考えるからです」

 孔明の目つきが鋭くなった。

「それは真にそなた自身の考えか」

「はい。先のいくさを見て、実感いたしました。魏将軍の陣は将兵や馬が多く残っており、怪我人も少のうございました」

 孔明が口元をぐっと引き結び、黙り込んだ。

 諸葛瞻が神妙な顔つきをしている。

 おれたちも口をぴたっと閉じて次の言葉を待つ。

「そなたたちを見込んで頼みがある」

 その言葉は矢のようにおれたちに突き刺さった。

「その前に私の考えを話そう」

 孔明は袖を払った。

「私とてこのまま事を構えずに静観しているつもりはない。しかし司馬懿は用心深い男だ。確かに我が方と同じく、出撃させよと詰め寄る将兵らに突き上げられて難儀していよう。それでもやみくもには打って出ないはずだ。先ほどそなたたちは文長の話をしたな。確かにそのように、私のやり方を公然と批判する将軍を放置しておくことは適切ではない。逆に文長のような将がいなくなれば、私の考えも実行に移しやすいということも事実だ。現在ここは魏の領土、すなわち私たちにとっては敵国だ。しかし魏軍を破り洛陽を奪還し、漢室を復興したならば、ここも我らの領土となる。そのためには少しでも土地を損なうことなく領有し、屯田を進めたい。私としては早くこの事業に着手したい。ゆえに、司馬懿とはすみやかに雌雄を決する心づもりでいる。そこでそなたたちに命ずる」

 呼吸を整え、孔明は言った。

「そなたたちの中で、手先が器用なのは誰か」

 曹青が進み出た。

「それがしでございます」

「私の衣服から薄い布を取り外してくれ。それから私の佩玉をいくつか外してつなげ、首飾りを作ってくれ」

「何ゆえでございますか」

「司馬懿を挑発するのだ。打って出ないとは、そなたは女々しいやつだと。女ものの服を着て首飾りをつける方がお似合いだと。司馬懿は何としても私を討ち取りたい。憤激するはずだ。次、そなたたちの中で、弁が立つ者は誰か」

 おれも一歩前に出る。

「それがしでございます」

「魏軍に使者として赴いてもらいたい。口上は私がしたためるからそれを読み上げればよい。また司馬懿のことだ、特に私についてこまごまと問いただすであろう。それについても想定される問答を私がしたためるゆえ、その通り答えてくれ」

「それがしだけがゆくのですか」

「確かそなたたちは兄弟であったな。三人でゆけ。最後に王覇。そなたは馬が得意か」

「はい! 我ら兄弟は皆、得意でございます」

「それならばなおのこと良い。瞻。聞いていたな。王青を案内しなさい」

「はい、父上」

 諸葛瞻と曹青がつれだって奥へ向かう。

 孔明はおれたちの前で地図を広げた。

「魏軍へ行く際、この谷を通ってほしい」

 その谷は入り口は広いけど、出口に行くに従って道が狭くなっている。

「そなたたちが通り抜けたあと、文長を進発させる」

 徐覇が尋ねた。

「何ゆえこのような狭い谷を通るのですか」

「馬岱に道を整備させるゆえ通りやすくなるはずだ」

「馬岱とは」

 徐覇におれは耳打ちする。

「馬超の従弟だ。孔明の信頼が厚い」

 父上から聞いたことをそのまま伝えると、徐覇はおれにうなずいて見せた。

 曹青と諸葛瞻が戻ってきた。服と首飾りを孔明に差し出し、曹青がにこっと笑った。

「ご子息も手伝ってくださいました」

「おお、うまくできているな」

 孔明が顔をほころばせる。その顔のまま、孔明はおれに言った。

「馬岱を呼んできてくれ。すぐそこの、『馬』の旗が立っている陣屋だ」

「今すぐに」

 おれは走った。

 馬岱にはすぐに会えた。真面目を絵に描いたような武人だ。馬岱を招き入れると、孔明はおれたちと諸葛瞻を幕舎から出した。

「夕食を共にしないか。馬岱との話が済めばすぐに私も加わる」

 孔明は丞相というよりも、諸葛瞻の父上の顔になっていた。


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