第2話 司馬懿と出会う

 おれたちはすぐに洛陽へ出発した。

 詳しいことは母上や弟にも話さなかった。秘密が漏れるのを防ぐためだ。

 当然、楊紅にも別れを告げていない。おれに彼女が言った言葉だって、彼女の本心かどうかなんておれにはわからない。商売だから言った言葉かもしれない。

 新たにおれたち一行に加わった人がいる。

 顧という。上品な顔立ちをしていて、官服を着て役所にいれば誰もが彼を文官だと思うだろう。父上より七、八歳年上だろうか。父上によると、蘇や彼女のお母さんと同じく、武祖様の頃から勤めている間者だそうだ。赤壁の戦いで武祖様と子廉どのが逃げる道案内をした。その後は蘇の娼館で用心棒をしている。

「手を貸してもらえてありがたい。おまえのように長年やっているやつが少なくなったからな」

 馬上から父上が顧に話しかけると、同じく馬に揺られながら彼は笑って答えた。

「子廉将軍の恩義に報いるためさ。おれも年だからな。これが最後のご奉公だ」

 飛将のおじ上が振り返る。

「確か赤壁から逃げる時、父や武祖様を南郡まで案内してくれたのだよね」

「ええ」

「他にも父が君に何かしたのかい」

 顧は飛将のおじ上に意味ありげにほほえんだ。

「まあ、いろいろと」

 父上が突然話に入った。

「顧、娼館の用心棒はどうなってるんだ」

「せがれたちに任せた」

「せがれがいるのか」

「女房もいるぜ。李、おまえのとこと同じく家族四人だ」

 許昌から洛陽までは約四百五十里(百八十キロメートル)。おれたちはかなり急いだので、早く到着した。


 洛陽に入ると、子尚どのがおれたちに言った。

「子廉どののお墓参りをしませんか。実は父がそこで皆様をお待ちしているのです」

 父上と飛将のおじ上、それに顧が目を合わせる。父上が子尚どのに尋ねた。

「おれたちの父の墓にですか」

「おっしゃる通りです。父はしばしばお参りさせていただいております」

 行くと、本当にお参りしている人がいた。おとなが一人、若者が一人。若者は背が高く細身だ。おれや曹青よりも年下に見える。

「父上、ただ今帰りました」

「おお――」

 子尚どのが大きな声で告げると、おとなの方が立ち上がった。切れ長の細い目が、一瞬くわっと大きくなる。

 父上と飛将のおじ上が拱手した。おれたちも倣う。

 まず父上が言った。

「仲達どの、お久しゅう存じます」

 続いて飛将のおじ上が目をうるませながら言う。

「我が父の墓に詣でてくださいましたこと、感謝申し上げます」

 仲達どのも拱手する。

「暁雲将軍。飛将将軍。ご家族と過ごされておいででしたのにお呼びだてして申し訳ございませぬ。また孔明が兵を起こしました。曹魏を守れるのは我らしかおりませぬ。なにとぞお力をお貸しくだされませい」

「もちろんです」と父上。

「孔明を追い払いましょう」と飛将のおじ上。

 子尚どのがおれと曹青に紹介してくれた。

「それがしの父、司馬懿あざな仲達だ。その隣は徐覇。徐公明将軍のお孫さんだよ」

 仲達どのが徐覇をおれたちの前に押し出す。

「さあ、名乗れ。暁雲将軍と飛将将軍、そのご子息がたもおられるゆえ」

「はっ!」

 徐覇が拱手する。

 目が鋭く、鼻が高い。声変わりしていない高い声で堂々と名乗った。

「拙者、徐覇と申します。徐伯世の子、徐公明の孫でございまする。今年数えで十五になりまする」

 飛将のおじ上が目を細める。

「伯世どのは息災かな?」

 徐覇は低い声で答えた。

「昨年、病にて息を引き取りました」

 飛将のおじ上が息をのんだ。父上が徐覇に近寄り、尋ねる。

「急に亡くなられたのか?」

 徐覇は父上に顔を向け、気丈に答えた。

「いえ。祖父がみまかりましたあと、体を壊しました。薬を飲みながら勤めを続けておりましたが、よくなりませんでした」

「それで君が来たのか」

「はい。弟たちは皆まだ十にもなりませぬし、武芸ができるのは拙者だけです。母や祖母は反対したのですが、曹魏を守るゆえ致し方ないと最後は折れました」

 父上は笑って、徐覇の両方の肩に自分の両手を乗せた。

「難儀をしたな。でもよく乗り越えてきたじゃないか。これからはおれたちが父親代わりだ。後ろにいるのはおれのせがれで曹竜、竜の左側が飛将のせがれで曹青だ。兄と思って接してくれ」

 徐覇はおれたちにも拱手の礼をした。

「お二人を兄上と思ってよろしいでしょうか?」

 おれと曹青も拱手を返す。

 おれは徐覇に言った。

「ああ。何でも話してくれ」

 曹青が笑顔を見せる。こいつの笑顔はほんとうにあったかい。

「一緒に頑張ろうな」

「はいっ!」

 徐覇がやっと笑った。

 司馬仲達どのが子廉どのの墓に向き直る。

「ほんとうに来てくださってほっとしました。それがしはずっと一人でしたからな。こうして子廉将軍のお墓にお参りしながらなんとかこらえて参った次第です」

 子尚どのが大声で嘆いた。

「父上、おれも兄上もおりましたが」

 仲達どのがその声に眉間にしわを深々と刻む。

「おまえたちはおって当たり前ではないか。朝廷ではという話だ」

 飛将のおじ上が仲達どのの隣に膝をついた。

「お一人とは、まさか朝廷は孔明を防ぐのに力を貸さないということなのですか」

 仲達どのは渋い顔で答えた。

「朝廷においでくださればおわかりいただけます」


 子尚どのがおれや曹青、徐覇に説明してくれる。

 まず練兵場を通り過ぎる。

「馬が集まっている所が練兵場。もうすぐ出陣だからな」

 次に、城門と都大路の間にある広い土地。

「あれは兵糧だよ。多いだろ? 武器もある」

 都大路は人でごった返している。左右に店が立ち並び、店の外にまで卓と椅子を出してごはんを食べる人たちもいる。道は空けてもらえるけど、馬で進むのは大変だ。

 朝廷――帝がおわす大きな建物についた頃にはもう、日が空の一番高いところに昇っていた。

 建物に足を踏み入れる。広い。天井が高い。柱はおれと曹青と徐覇が両腕を精一杯伸ばしてやっと抱えられる太さだ。

 父上と飛将のおじ上に、武官たちが次々に駆け寄る。

 眉目がきれいに整った将軍が両腕を広げてにこやかに近づいた。

「よう、飛将! 暁雲どのもご無沙汰しております」

「仲権!」

 飛将のおじ上が仲権どのとがっちりと手を握り合う。

「夏侯覇。夏侯妙才どののご子息だ」

 父上がおれたちに教えてくれた。

 曹青が徐覇に言う。

「妙才将軍はおれのじい様の従兄弟なんだ。定軍山で黄忠に討たれた。だから仲権のおじ上は仇討ちをしたいと願っておられる。おれは父上からそう聞いた」

 その徐覇に、後ろから声をかけてきた武官がいる。

「失礼ながら、徐公明どののお孫さんでいらっしゃるか」

「はい、さようでございます」

「ああ、やはりそうか。それがし、張雄あざな俊英と申す。張郃の長男でござる」

 半円の眉にたれ目、愛嬌がある。年は飛将のおじ上と同じくらいか。

 徐覇があっと声を上げる。

「父の葬儀ではお世話になりました」

「よい若者になったではないか」

「ありがとうございまする」

 父上と飛将のおじ上も張将軍に振り向く。

「俊英どの、ご無沙汰しております」

 父上の声に張将軍は笑顔で応える。

「暁雲どの、お元気そうで何よりです」

「こたびのいくさ、従軍なさるのですね」

 飛将のおじ上にも張将軍は笑ってうなずく。

「ええ、微力ながら力を尽くします。木門道にて倒れた父のためにも」

「ぼくも父の分まで戦います」

 おれたちと一緒にいた仲達どのと子尚どのにも一人、駆け寄った武官がいる。落ち着いた物腰で、実際よりも年上に見える。

「父上、お帰りなさいませ。昭もご苦労」

 誰だろう。おれがその人を見ていると、子尚どのが気づいて紹介してくれた。

「おれの兄だ。司馬師あざな子元。兄上、こちら暁雲将軍のご子息で曹竜、その隣が

 飛将将軍のご子息で曹青、そして徐伯世将軍のご子息で徐覇です」

 子元どのは折り目正しく挨拶してくれた。

「初めまして。司馬子元である」

 おれたちも一礼する。

「曹竜と申します」

「曹青でございます」

「徐蓋の子徐覇でございまする」

 徐覇の父上の姓名は徐蓋というのか。初めて知った。

 仲達どのが子元どのに難しい顔つきで尋ねた。

「陛下のご様子は」

 子元どのは表情を変えずに答える。

「お部屋に閉じこもっておられます」

 仲達どのがため息をついて頭を横に振った。

 父上や飛将のおじ上はまだ話し込んでいる。それを見て仲達どのはおれたちに言った。

「どれ、おまえたち、わしと一緒に陛下の様子を見に行くか」

「えっ」

 おれ、曹青、徐覇は揃って間抜けな声を上げてしまった。

「ここに突っ立っていても暇だろう。それに若いおまえたちに曹魏の現状を理解してもらう必要もある。今父上たちの許しを得て参るから少しここで待て」

 ぽかんとしているおれたちを尻目に仲達どのは父上と飛将のおじ上の話に割って入った。父上と飛将のおじ上がうなずく。仲達どのはすぐにおれたちの前に戻ってきた。

「ゆくぞ」

「はい」

 とりあえずおれたち三人は返答する。

 仲達どのは子元どのと子尚どのに断りをいれた。

「この三人と陛下に拝謁して参る。将軍がたを虎豹騎の詰め所へご案内してくれ。許儀には話をつけてあるゆえ」

「心得ました」

 ご子息二人の揃った返事を聞き、仲達どのは歩き出した。

「許儀どのとはどなたですか」

 徐覇が小声でおれと曹青に尋ねる。曹青がおれを見たので、おれが答えた。

「許褚あざな仲康。力が強いけどぼうっとしているように見えるから、虎痴って呼ばれていたのだって。父上が前に話してくれた」

 徐覇がつぶやく。

「すごいなあ。曹魏の古つわもののご子息がたが集まっているなんて」

「おまえたち」

 仲達どのが振り返った。

 おれたちは思わず叫ぶ。

「わあっ」

 だって背中を向けてるのに顔だけおれたちに正対しているんだぜ? そりゃびっくりするよ。

 気づいて、仲達どのは体もおれたちに向けた

「そんなに驚くことはなかろう。ただ後ろを向いただけだが」

「顔、顔」

 曹青がかろうじて言った。

「ああ、これか。飛将将軍にも驚かれた覚えがあるわい。首がよく回るだけだ。ところで、今から通る廊下にいる役人どもをよく見ておけ」

「役人の何を見るのですか」

 おれが聞くと仲達どのは苦いものを口にしたような声を出した。

「連中がわしを見る様子だ。今の朝廷の様子がよくわかろうて」

 長い廊下だ。役人たちがおれたちを横目で見る。三人くらいで顔を寄せ、口を動かす。何か話しているようだけど、聞こえない。

 仲達どのが寄り集まった役人たちにつかつかと近づいた。抑えた声でただす。

「それがしに何かご用ですかな」

 役人の一人が冷や汗をかく。

「い、いえ」

「それがしをご覧になっておられたようにお見受けしましたゆえ、おうかがいしました。ところで貴公らはこたびのいくさで我らが進む街道の整備がお役目のはず、首尾はいかがですかな」

 一人が恐縮しきった様子で答える。

「それはもう済んでおりまする」

「まだそれがし、報告を受け取っておりませぬでな。出立まで間がなきゆえ、お急ぎ願いたい」

 とたんにやつらは互いに離れ、あわただしく一礼すると逃げるように走っていった。

 仲達どのはおれたちのところへ戻ってきた。

「どうせわしの悪口を言っておったに違いない。そんな暇があるなら書類の一枚も書けばよいものを」

 おれと曹青、徐覇は顔を見合わせた。

 聞いたのはおれだ。

「孔明に立ち向かう仲達どのを、何ゆえ悪く申すのですか」

 前を向いて歩きながら仲達どのは答えた。

「曹氏でないわしが曹魏の軍を取り仕切っているのが気に食わぬのだろう。先帝がお身内を政務や軍務から遠ざけたゆえ、曹氏が政務をとれないのは当たり前だろうに。曹竜に曹青、おまえたちの祖父である子廉将軍を正当な理由なく獄にくだし、暁雲将軍や飛将将軍と共にこき使ったのは先帝だ」

 いくさ続きで父上たちはほとんど許昌の家に帰らなかった。先帝からそんな仕打ちを受けていたなんて、父上も飛将のおじ上も、そして子廉どのも一言も口にしたことはなかった。

 いよいよ陛下のお部屋の前にたどり着いた。

 宦官に仲達どのが取り次ぎを頼む。

 宦官が走り、やがて戻ってきて、扉を開けた。

 部屋の奥で、若い男の人が一人、積み木を積んでいた。積み上げた木は、城のように見える。

 男の人が、おれたちを見た。

 仲達どのがおれたちを振り返り、告げた。

「陛下だ」

 おれたちはひざまずいた。

 積み木を積む手を止めて振り返った帝は、おれたちに顔を向けた。

 おれはこっそり上目づかいでお顔を見る、

 帝の目はまるでおれのじいさんが眠る墓の、棺が納められた四角い暗闇のようだった。帝の真っ暗な瞳を見ているとどこかえたいの知れないところへつれていかれそうな気がして、おれは身震いした。

 衣ずれの音がした。足音が続く。

 帝がこちらへ歩いてくる。

「仲達。その者たちはたれか」

 仲達どのが下を向いたまま答える。

「これなるは曹暁雲の子息曹竜、曹飛将の子息曹青、徐伯世の子息徐覇でございまする」

「子廉と公明の孫だな」

「ははっ。こたびが初陣でございまする」

「曹竜。曹青。徐覇。面を上げよ」

 帝の声が急に強くなった。おれたちは揃って顔を帝に向ける。

 きれいな顔をした人だ。年は三十を少し越えたくらいか。

 帝はおれたちにおごそかに告げた。

「出陣の際は朕も見送りに立つ。そなたたちの祖父も父も曹魏のつわものであり、数々の武勲を立てた。蜀軍は我らが曹魏の土地を侵しておる。断じて許すわけにはゆかぬ。心して励めよ」

「ははーっ!」

 おれ、曹青、徐覇は、腹の底から声を出した。


「おまえたちはほんとうに肝が据わっている」

 仲達どのはおれたちの父上の前でそう言った。

 飛将のおじ上が目を丸くする。

「陛下の前でも動じなかったということかい」

 曹青が首をかしげる。

「心して励めよと仰せになられましたので、はいとお答えしただけです」

 父上がおれと徐覇に笑顔を見せた。

「やるじゃないか」

 おれと徐覇は顔を見合わせて苦笑いする。

 仲達どのが短いあごひげをしごきながら言う。

「あの、いくさがなくなってから気が抜けたようになられていた陛下が、急にお声に張りが出たのには驚いたわい」

「気が抜けた、とは」

 父上が仲達どのに問い返す。すると仲達どのは困った顔をした。

「ずっとご自分のお部屋に引きこもり遊ばしたのです。食事も満足におとりになりませんでした。そこで何をなされておいでかと言うと、積み木で城をお作りになっているのです」

「城?」

 父上と飛将のおじ上が同時に声を上げる。

「ええ。それがしも開いた口がふさがりませんでした。何ゆえとお尋ねすると陛下はこうおっしゃったのです」

 いったん口を閉じてから仲達どのは上を向いた。

「母上とよくこうして、二人で作ったのだ、と」

「確か陛下のお母上は、不幸な亡くなり方をなされたと聞いております」

 父上が言った。もと間者だから、こういう裏事情に詳しい。

 仲達どのがうなずく。

「真偽のほどはわかりませぬが、先の帝が郭夫人を寵愛なさったことに恨み言を述べたかどで死を賜ったと伝わっております」

「子桓がしそうなことだよ」

 めったに誰かを悪く言わない飛将のおじ上が吐き捨てる。仲達どののぼやきとい

 い、飛将のおじ上のさっきの言葉といい、先帝はろくでもないやつだったのかもしれない。会ったことがないからわからないけど。

 大のおとなが積み木で城を作っているところを目撃してしまったおれ、曹青、徐覇は黙っていた。

 だから四日後、出陣式にのぞんだ帝の姿を目にしたおれは、あの時とはまったく

 違うそのお姿を二度見してしまった。

 十二旒の冠をかぶり、重たそうな衣装を着け、胸を張りゆったりと足を運ぶ。そして明るく、芯のある声でおれたちに言った。

「朕はそなたたちの働きに、大いに期待している」

 おれたち四十五万の軍勢が西へ動き出す。

 旗が風に吹かれて後ろへなびく。隊列は長く長く伸び、ひづめの音は揃って響き渡る。

「君、孟徳のおじ上そっくりになってきたね」

 飛将のおじ上が父上に笑いかける。

「おまえも、父上に似てきたぞ」

 父上が飛将のおじ上に笑い返す。

 おれたちも甲冑をつけて馬上にある。飛将のおじ上が率いる弓騎兵に加えてもらったのだ。

 これからいくさが始まる。

 諸葛孔明とは、どんなやつなのだろう。


 孔明の陣が渭水の向こうに見える。

 飛将のおじ上がおれ、曹青、徐覇を呼び寄せた。

「騎射、できるよね? やってみせておくれ」

 おれたちの返事はもちろんこれしかない。

「はい、できます!」

 飛将のおじ上が先に駆ける。そして布をはぎあわせて作った的を投げ上げる。

 まずはおれが射る。

 おれの弓弦から放たれた矢は、的のど真ん中を射貫く。

 飛将のおじ上がにこっと笑った。

「いいね。次、青!」

「はいッ」

 大声で返答して曹青が駆け、弓を構え矢をつがえ、空中の的を射る。もちろん命中。

「やるねえ。徐覇、お待たせ!」

「承知!」

 駆ける。構える。狙う。そして放つ。

 徐覇の射た矢は的を突き抜けた。

「すごいじゃないか!」

「おほめにあずかり幸甚の極み!」

 聞いておれは曹青に言う。

「徐覇、よく難しい言葉を知ってるな」

 曹青は横目でおれを見る。

「君が知らなさすぎるだけだろ」

 確かに曹青の言う通りだ。こいつはおれなんかよりもずっとたくさんの書物を読んでいる。

 おれはだめだ。文字を目にしたとたん寝てしまう。何度竹簡によだれをたらして、曹青からあきれられたことだろう。

 父上は目を細めてその様子を見ていた。

 そんなのどかな日はすぐに終わった。

 伝令が駆け、おれたちに布陣するように触れ回る。

 仲達どのに呼ばれて、父上と飛将のおじ上が出向いた。戻ってくると、虎豹騎を呼び集める。おれたちは父上と飛将のおじ上の後ろに立つ。

 飛将のおじ上が声を張る。

「渭水を渡り、正面から蜀軍に突っ込む。左右に分かれて前進し、蜀軍を分断する。そのあとは本隊に合流する」

 虎豹騎とは、選ばれた兵たちが作る精鋭部隊だ。本来は帝のそば近くで戦う。その虎豹騎の一部を、仲達どのは騎射を行う部隊にした。魏軍最強の弓騎兵だ。飛将のおじ上と父上は、その弓騎兵を率いている。おれ、曹青、徐覇が空中の的を射貫いたけど、そんなことは弓騎兵はできて当たり前なのだ。

 次に声を発したのは父上だ。

「念のため、我々以外の隊の動きも伝える。司馬子元どの、司馬子尚どのの隊は北から蜀軍の背後を攻撃する。夏侯仲権どの、張俊英どのの隊は我々が蜀軍を分断したところへ突撃する。司馬仲達どのはしんがりを務める」

 飛将のおじ上がにやりと笑う。

「曹魏最強の弓騎兵の力、蜀軍に見せつけよ!」

 弓騎兵たちが声を合わせた。

「承知いたしました!」


 渭水を渡る。

 まだ敵は遠くにかすんで見える。

 父上が振り返った。

「竜、気負うなよ。まずは生きて帰ることだけを考えろ」

 おれは、目を見開いた。誰かとかぶって見えたからだ。誰だろう?

 わかった――武祖様。おれのじいさんだ。

 父上が眉をひそめる。

「どうした」

「武祖様と父上は、似ておられたのですよね」

 父上が眉を上げ、続いてほほえむ。

「ああ」

「今、父上に、武祖様が重なって見えました」

 父上が大きな声と口で笑った。

「それはいい。きっとじいさんも泉の下から、せいぜい頑張れよと言って笑っているぜ」

 おれも自然と笑えてきた。

「飛将のおじ上は、子廉どのに似ておられますか」

「ああ。『曹魏最強の弓騎兵の力、蜀軍に見せつけよ!』と言った時の顔は、父上そっくりだった」

 そんな飛将のおじ上も曹青と徐覇に諭している。

「いいかい、青に徐覇、生きて戻るんだよ。まずはそこからだ。あとは、はぐれないこと。ぼくは長坂坡で趙雲を追いかけて父上とはぐれてしまって、暁雲に連れ戻してもらったんだ」

「父上は、趙雲と打ち合ったのですか」

「そうだよ青。父上から殺されそうな勢いで剣の稽古をつけていただいたおかげで、負けなかったけどね」

「さすがです、飛将将軍!」

「ありがとう徐覇。嬉しいなあ」

 そこへ顧が駆け戻った。

「飛将将軍! 敵、向かって参ります」

「顧、ありがとう!」

 顧が飛将のおじ上にまた意味ありげにほほえむ。

「ほんとうによい将となられましたね。子廉将軍がご覧になれば、きっと、お喜びになるでしょうね」

「君は父とかかわりがあったのかい」

「ええ。大変お世話になりました。ご武運を」

 顧とはそこで別れ、おれたちは渭水を渡り終えた。

 敵がいる。おれがいるところからもはっきりと兵一人一人の顔が見える。

 飛将のおじ上が大声で命じた。

「進軍!」

 おれたちは蜀軍に突っ込んだ。

 父上と飛将のおじ上が同時に叫ぶ。

「放て!」

 弓騎兵が一斉に狙いをつけ、射放った。

 もちろんおれも射る。

 蜀の兵たちが一人、また一人、矢をくらって馬から落ちる。

 父上と飛将のおじ上があっという間に見えなくなる。蜀の兵と虎豹騎が入り交じる。

 まずい。追いつけない!

 前を見る。曹青と徐覇が並んで馬を走らせ、矢を射っている。

 何とか曹青と徐覇に並んだ。

 目の前に蜀の兵。近い。矢を構える暇はない。それは曹青も徐覇も同じだ。

 さらにまずいぞ、囲まれた!

 徐覇が矢を箙に納めて剣を抜く。曹青もおれも同じようにする。

 斬り合う。馬と馬の鼻面がくっつく。曹青は弓より実は剣の方が得意だ。一人斬り伏せた。

 徐覇もすごく力が強い。負けてない。でも、剣を弾かれた。徐覇の剣が落ちる。

 危ない!

 おれは父上から教わった間者の技を使うことにした。すなわち、鞍の上に立ち、そこから飛んだのだ。

 徐覇と、徐覇が打ち合っていた蜀の兵が目と口を丸くする。

 おれは飛び下りざま、徐覇と向かい合う蜀の兵の頭から剣を突き立てた。引き抜くと同時に馬からそいつを蹴り落とす。おれが代わりにそいつの馬に乗った。おれの馬はどこかへ駆けていく。

「曹竜どの、助かりました!」

「喜ぶのはまだ早いぜ、徐覇」

 曹青がおれの相手まで斬り、おれたちを向く。その顔からは血の気が引いていた。

「父上たちを見失った」


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