晋よ曹魏の上に立て
亜咲加奈
第1話 十六歳の初陣
ここには鄴の城門からは馬でないとたどり着けない。
冷たい石造りの部屋の中には、武祖様のご遺体が安置されている。
武祖様とは、曹操あざな孟徳。おれたちが住むこの曹魏を築いた人なのだ。
でも武祖様が帝になったわけじゃない。
武祖様のお子である文帝が、漢の最後の帝――献帝から位を譲られて、漢は終わり、曹魏が建てられたんだ。
おれの隣に立っているのは、父上だ。姓名は曹震あざな暁雲。
「竜。話がある」
曹竜。おれの名だ。
「はい、何でしょうか、父上」
父上は整った顔をおれに向けた。
目は切れ長で、鼻筋はすっと通り、背は高く、体は引き締まっている。この姿はおれも受け継いでいる。
諸葛孔明とのいくさが終わり、曹魏の古つわものだったおれの祖父、曹洪あざな子廉が亡くなった。父上はだから、おれや弟の起、母上が暮らす許昌へと戻ってきたのさ。
ここにいるのはおれたちだけじゃない。
父上の義理の弟、曹馥あざな飛将どのと、その息子でおれの従弟、曹青もいる。
飛将どのは曹魏最強の弓騎兵を率いている。おれの父上も飛将どのと同じ部隊にいるのだ。
祖父と言ったけど、ほんとうは違う。
おれの父上は、曹子廉の養子だからだ。
つまりおれの父上のほんとうの両親は、別にいるということだ。
おれは父上が話し出すのを待っている。
父上の切れ長の目はいつも、何かを悲しんでいるようにおれには見える。
飛将どのが父上に声をかけた。
「ぼくたちははずそうか、暁雲?」
「いや、飛将、ここにいてくれ」
「私も同席してよろしいのですか、暁雲のおじ上?」
曹青が尋ねた。
飛将のおじ上も、曹青も、切れ長の目と通った鼻筋を持っている。二人とも黒目がちなので、親しみやすい印象だ。弓と馬の扱いで鍛えているので、肩や胸は厚みがある。でも体つきはしなやかで動きは素早い。
父上は曹青に答えた。
「ああ、青。おまえにも聞いてもらいたい」
「では私もうかがいます」
曹青はいつもこんな感じだ。とにかくまじめでしっかりしていて、受け答えも折り目正しい。おれとは大違いだ。
父上は武祖様の墓が納められた方を見て、それからおれの左肩に右手を置いた。おれの目をまっすぐに見つめ、父上は言った。
「おれの父は、曹子廉じゃない」
「前に父上から、そのようにうかがっております」
「今からおれのほんとうの父の名をおまえに伝える」
父上の目に、薄く光るものが見える。
「曹孟徳」
「――え?」
「今、ここに眠る、武祖だ」
おれは武祖――いや、祖父が眠る石室に続く真っ暗な通り道に目を向けた。
そんな。いきなり言われたって。そんなすごい人が、おれの祖父だなんて。
父上はおれの背中をとんとんと叩いた。
「今はこれだけだ。詳しい話はここを出てからする。長くなるからな」
「はい」
返事をするだけでおれは精一杯だった。
おれたちは石室から出た。出口までの壁には絵が描いてある。そのうちの一場面の前で父上は足を止めた。
「見ろ、竜」
おれの肩はもうすぐ父上の肩と並ぶ。今年に入ってから急に背丈が伸びたんだ。
父上の隣で見るその場面には、五人の馬に乗った武将たちが寄り集まる姿が描かれていた。
父上は真ん中にいる武将を指で示す。
「これがおれの父さんだ」
飛将のおじ上も絵に一歩近づき、曹操が董卓討伐の兵を挙げた時に駆けつけた曹仁、曹洪、夏侯惇、夏侯淵の絵に目を細める。
「子孝のおじ上、ぼくの父上、元譲のおじ上、妙才のおじ上もいるね」
おれは父上に聞いた。
「父さんと呼んでおられたのですか」
「ああ。おれの母さんは、黄巾賊討伐の時に父さんに助けられた。潁川の農家の娘だった」
「農家の娘を妻にしたのですか」
「妻じゃなかった。侍女だったんだ。お互いに好きになり、おれが生まれた」
後ろで聞いていた曹青がつぶやく。
「珍しいですね」
父上は曹青を振り返って応じた。
「ああ。珍しかった。父さんはおれと母さんを許昌にかくまった。かくまってくれたのが、父さんが若い頃から使っていた間者の夫婦だった。その人はもう自分は年をとったからと、おれに間者の技を伝えた。だからおれは母さんが死んだあと、父さんの間者として働いていたんだ」
おれは言葉も出ない。真剣に語る父上をただ見つめるだけだ。
そんなおれに飛将のおじ上がほほえんだ。
「暁雲はぼくが初陣の時、ぼくを守ってくれたんだ。それからぼくたちは親しくなった。赤壁の戦いが終わったあと、孟徳のおじ上の命令で馬寿成将軍の動きを探った。暁雲が間者から武将になったのも、寿成将軍が勧めたからなんだよ」
馬騰あざな寿成。馬超の父だ。馬超が反乱を起こしたので自害した。曹操と馬超が戦ったいくさには父上や飛将のおじ上たちも従っている。
おれは飛将のおじ上から父上に目を移した。
「だから子廉どのは父上を養子に迎えたのですか」
父上がおれに笑う。
「ああ。父さんがそうしてくれた」
飛将のおじ上も嬉しそうに笑う。
「それからずっとぼくたちは一緒にいるんだ」
おれは曹青と顔を見合わせた。曹青が飛将のおじ上に尋ねる。
「母上や私たちが一緒に暮らしているのも、父上とおじ上が仲が良いからですか」
「そうだよ、青」
飛将のおじ上が答える。
「ぼくたちは漢中に行って劉備と戦う前に祝言を挙げたんだ。ぼくたちはいないけど祥はいるから、ぼくの家で暮らすことになったんだ」
曹祥。飛将のおじ上の妹御。曹操の軍師荀彧の五番目の息子に嫁いで、おれと曹青の五つ下の従妹荀節を産んだひとだ。
曹青とおれは、息を吐いた。
父上がおれを気づかう。
「受け止めきれないか、竜?」
おれは父上をまっすぐ見て答えた。
「いえ。そのようなことはありません。しかし、うかがったことをまとめるのに、時が必要だと感じています」
「そうだと思う。おれも父さんを父さんと呼べるまで、十八年かかった」
「一緒に暮らしていなかったからですか」
「それもある。父さんは母さんやおれに会うために、まめに通ってくれていた。それでもおれは父さんに心を開けないままだった。父さんに母さんをとられたと、子供の頃は思っていたから」
それならおれにも心当たりがある。
「おれも、たまに帰って来られる父上が母上と過ごすのを、子供の頃は許せませんでした」
父上がとたんに首まで真っ赤に染まる。飛将のおじ上がははっと笑った。
「あの時はほんとうに困ったなあ。青は『ちちうえ、ひとりでねてください』なんて言うし、竜も『おれ、きょう、ははうえとねたいです』とか言ってさ。ぼくたちがなんとかとりなすと、『きょうのところは、がまんしてやろう!』と言って、二人で手をつないでぼくたちをにらみつけて走っていったのだもの」
曹青が顔をしかめる。
「父上。私たちの恥ずかしい話を人前でなさらないでください」
父上が真っ赤な顔のまま怒り出す。
「馥っ。余計な話をするなっ」
何を隠そう、父上の初恋の相手が間者仲間だった母上だとおれに教えたのは、目の前で大爆笑する飛将のおじ上である。
怒る父上などまったく意に介さず飛将のおじ上はおれと曹青に言った。
「ぼくたちは夫婦仲もいいし、王玲も謝の姉上も仲良しだし、青も竜もいい関係だ。何があっても安心だね」
王玲は飛将のおじ上の夫人で、謝はおれの母上の姓である。
父上は、まったく馥のやつときたらという感じで額を押さえる。まだ頬は赤い。純だなあ、と、おれは思う。
おれたちは出口に向かった。
明るい外の光が強くなる頃、出口近くの壁に、最後の絵をおれは見つけた。
また、おれたちは立ち止まる。
怒る武将。雨が降る。ひげの長い武将にひれ伏す武将。
「于将軍が関羽に降る絵ですね。怒っているのは龐将軍だ」
曹青が言った。
于禁と龐徳。
龐将軍は、関羽に斬られた。于将軍は曹魏の恥として語られている。
おれはひれ伏す于将軍の絵に目を当てた。
「なぜ、于将軍は降伏したのですか」
おれは絵に向かって問う。
父上がおれに答える。
「関羽が水攻めをしたんだ。于将軍が父さんから預かった七軍はほとんど流された。もう、抵抗できなかったんだ。龐将軍は関羽と最後まで戦い、降伏しなかった。だから斬られた」
飛将のおじ上が言う。
「関羽は樊城を攻撃していた。そこは子孝のおじ上が守っていたんだ。于将軍が降伏したあと孟徳のおじ上は徐将軍を派遣した。ぼくたち曹氏には出撃命令が出なかった。だからぼくと暁雲は父上から許しをもらって間者として徐将軍に合流したんだ」
曹青がおれに説明する。
「徐晃あざな公明。于禁、楽進、張郃、張遼と合わせて、曹魏の五子良将の一人さ」
「父上の親友だったんだ」
飛将のおじ上がぼくを見て悲しげにほほえんだ。
「徐将軍が関羽の陣を突破して、子孝のおじ上も城を出た。おれは赤壁からみんなと逃げる時に関羽に見逃してもらった恩があった。父さんの身代わりを務めていたからな。だから徐将軍と一緒に、攻撃する前に関羽に別れを告げたんだ。馥は関羽の攻撃を縫って子孝のおじ上のもとへ行った。打って出るように告げるために。徐将軍と子孝のおじ上に挟み撃ちされ関羽は逃げた」
父上がおれに話し終えると、曹青が続けた。
「関羽は孫権に捕らえられ、首を打たれたのでしたね。孫権は関羽の首を武祖様に送りつけ、武祖様はその首を手厚く葬った」
三人の話を聞きながら、おれはまったく別のことを考えていた。
于将軍はなぜ関羽に降ったのだろうか。降伏したことで于将軍は曹魏の恥とされている。けれど父上や飛将のおじ上は、そう思ってはいないようにおれは感じる。ほんとうのことは、于将軍にしかわからないのだろう。于将軍はすでに亡くなっているから、尋ねようがない。
それにしても、降伏することは、ほんとうに恥なのだろうか。
もし、関羽に勝ったとする。しかし七軍をほとんど失った状態で武祖様の前に出られただろうか。責任を取って自害したかもしれない。
また、関羽に負けて斬られたとする。生き残った将兵はどうなるだろう。于将軍と同じように関羽に斬られたのではないだろうか。だとしたら、犬死にではないか。
捕虜となった于将軍は孫権に助け出された。そして客として扱われた。曹魏に送り返される時には孫権自ら家臣たちと共に見送った。
帰国して間もなく于将軍は亡くなったと、おれは聞いている。
おれはひれ伏す于将軍をもう一度見た。
男がすべてをなげうって首を垂れている。
それはほんとうに恥なのだろうか。
「行こうか」
父上が言い、おれたちは外に出た。
馬に乗る前におれは父上に、母上や弟の曹起にも話すのかと確かめた。しかし父上は首を横に振った。
「まずはおまえに明かしておきたかったんだ」
「なぜですか」
「おまえはおれの、初めての息子だから」
四人で許昌に帰った。
そのあとは何年ぶりかの、いくさのない穏やかな毎日が、おれたちを待っていた。父上や飛将のおじ上はおれや曹青、おれたちの弟たちに武芸を教えてくれた。遠乗りにもよくつれていってくれた。母上たちは相変わらず仲良くしている。たまに、従妹の荀節が遊びに来た。すでに両親を亡くしていて、お祖母様に育てられている。女の子だけど馬に上手に乗るし、書物を読むのが大好きでおしゃべりだし、気が強い。
「祥にそっくりだなあ」
飛将のおじ上がからかうが、荀節は胸を張る。
「お母さまに似ているのであれば、むしろ光栄です」
ずっとこんな毎日が続くのだと、おれは信じて疑わなかった。あの方が来るまでは。
あの方が許昌に来た日、おれと父上、飛将のおじ上と曹青は、同じく許昌にある間者たちの詰め所を訪れた。
詰め所と言ったが、そこは武祖に仕えていた間者の蘇という女性が切り盛りしていた娼館である。彼女はもう亡くなったので、今は長女が娼館をやりくりし、間者たちが持ってくる知らせをまとめてみやこ洛陽へ送り届けている。
いくさがない時、父上と飛将のおじ上は、許昌とそのまわりで、とくに曹魏の南で起きていることを調べていた。その中には孫呉が今どうなっているかという話も入っている。
入り口から入る時、おれはたまたま一人の女の子と肩が触れあった。
「申し訳ございません」
低くてしっかりした声に続いて、整った小さい顔がおれに振り向いた。ぱっちり開いた目は、力強い。おれは軽く頭を下げた。
「こちらこそ、すみません」
「いえ。あたしの方こそ、ご無礼いたしました」
おれに体ごと向き直る。おれのあごにようやく届くくらいの背丈だ。
女の子はおれと同い年くらいに見えた。その子は父上と飛将のおじ上を見ると、すっと背筋を伸ばした。
「暁雲将軍と、飛将将軍でございますね」
父上がその子に尋ねる。
「ああ。蘇と約束している。今、会えるかな」
彼女は父上の目をまっすぐに見て答えた。
「はい。ご案内いたします」
彼女についておれたちは奥の部屋に向かう。彼女が声をかけると、蘇の明るい声がした。
「入ってもらって」
一礼して立ち去ろうとする彼女が、おれにもう一度力強い瞳を向けた。だからおれは名乗った。
「おれは曹竜。君は?」
「楊紅と申します」
その瞳がきらりと光った。飛将のおじ上が笑う。
「あれ、竜、もう彼女の客になるつもりかい」
父上が自分の額を手のひらで押さえてため息をついた。
「じいさんの血かなあ」
楊紅は早歩きでその場を離れた。彼女が廊下の角を曲がって見えなくなったところを見計らい、おれは父上に言った。
「おれはただ名乗っただけですが」
「普通は名乗らないだろう。まったく、じいさんそっくりだ」
曹青が尋ねる。
「どのようなお方だったのですか」
父上は真顔で答えた。
「助平親父」
要するに、女に慣れていたということだろう。
蘇の長女ははちきれそうな体を父上にずいと近づけた。
「李、武祖様のお墓に行ってきたんだって?」
李とは、父上のほんとうの姓だ。父上のもとの名は李昇という。
「ああ、確かおまえの母さんもよくお参りしたって話していたよな」
父上が言うと、蘇は――間者たちは年に関係なく姓で呼び合い、対等に話す――おれたちの向かいに腰かけた。
「そうそう。おっ母さんは于将軍のことをいつも気にかけていたからね。初めておっ母さんが武祖様の間者になった時に、世話になったのだって。ところであの絵、ほら、于将軍が関羽に頭を下げてる絵、まだあるの?」
「あったよ。竜が、じっと見てた」
父上が答えると、蘇はおれに大きな目を向けた。
「へえ。何か気になった?」
おれは三つ数える間に話すことをまとめて、答えた。
「于将軍はどのような思いで降ったのかと考えました」
蘇は眉尻を下げてほほえんだ。
「ご苦労なさったみたいだよね。優しいね、そんなふうに考えるなんて」
言って蘇は表情を引き締めた。
「ところでさ、李、このところずいぶん食べ物が蜀へ流れてるそうだよ。馬もそう。うちのお客さんが話してた」
蘇の娼館の客は金持ちの商売人が多い。位の高い武官や文官もたまにだけど必ず寄る。だから父上と飛将のおじ上は蘇から話を聞いて、いくさに役立てる。
飛将のおじ上が真面目な顔つきになる。
「蜀の様子はわかるかい」
蘇も顔を突き出す。
「武器屋さんがうちの子に話してたのですけど、調練の回数が増えたそうです。だから注文が増えたのですって。具足なんかも作るので、職人さんたちが蜀へ引き抜かれた工房も増えてます」
父上と飛将のおじ上が視線を交わす。おれと曹青も目と目を合わせる。いくさになる。それは確かだ。
蘇がぱちんと手と手を打ち合わせた。
「それじゃあ、息子さんたちに、初陣前の初陣なんていかがです? あ、お代は結構ですよ」
要するに、女の子と寝ていけということらしい。
おれはすぐに蘇が言いたいことがわかったけど、曹青はわけがわからないと見えて目をぱちくりしている。おれは曹青の耳に口を寄せた。
「ここの客になれっていうことだよ」
曹青が真っ青になる。
「冗談はやめてくれよ。おれは女の子と話したことなんかない」
飛将のおじ上が苦笑いする。
「まあ、死んでしまっては経験も積めないしね」
父上はおれと曹青を見て、しかたがないか、とでも言いたげに笑うと、蘇に向き直った。
「さっきの子、楊紅だっけ、竜が名前を聞いてたな」
「じゃ、李のせがれは楊紅に頼もうか。飛将さまの息子さんには落ち着いた優しい子にしますね」
「ちょ、ちょ、ちょっと」
曹青があわてる。
飛将のおじ上が蘇に代金を手渡した。
「結構だと言ってたけど、ただでというわけにはいかないからね」
「えっ、よろしいんですか、こんなに。では、少しお待ちくださいませ」
蘇はだいじに持って奥へ引っ込むと、すぐに楊紅ともう一人の女の子を連れて帰ってきた。
まずは曹青が女の子に手を引かれて出て行った。
楊紅がおれの前に進み出る。
「参りましょう」
その声は出会った時よりも、しっとりしていた。
部屋の中で向かい合うと、楊紅はほほえんだ。そのほほえみがおれに向けられた時、おれは震えた。体がかーっと熱くなる。
「あたしね、間者なの」
「おれの父上と母上も間者だった」
「あなたも間者なの?」
「何をするかは教わった」
「こういうことは初めて?」
「言ったろ、初陣だって」
「あたし、わかるんだ。あなたとは、お代をもらわなくても遊びたい」
「それじゃあ稼ぎにならないぜ」
「稼げなくても寝たいって相手には、そうそう出会えるものじゃないよ」
年増みたいな言葉だ。おれと同い年くらいに見えるのに。だから念のため聞いてみる。
「君はいくつになるんだ。おれは数えで十六」
「同い年だね」
楊紅の体はおれの体に吸いついた。おれは小さい頃、母上と同じ寝床で寝たことを思い出す。肌と肌の触れあいはとても温かく、優しい気持ちになれて、何も心配せずに眠れた。
この世には、母上に抱きしめてもらえなかった人もいるだろう。母上との関係がよかったとしても、誰かに抱きしめてもらいたい時は誰にだってあるだろう。楊紅たちが相手にするのは、そうした人たちだ。
お互い生まれたままの姿で向かい合うから、本性が出る。おれと楊紅みたいに穏やかに事を進める場合もあれば、むしろ相手を支配するために相手を傷つけるやからもいるのかもしれない。
「考えごと?」
ささやく楊紅におれは答える。
「こういうことを、本性のわからないやつともしてるんだろ。怖くないのか」
「だから相手をよく見るの。相手の出方によってどうするか決める」
「いくさと同じだな」
「うまいことを言うね。閨は合戦場だとあたしは思ってる。でもね曹竜、あなたとのこれはいくさじゃない」
楊紅に教えられて、どうにか終えた。
「初めてにしては上出来ね」
「何だよ、その勝ち誇った顔」
「あたしは大いに満足したよ。あなたは?」
「疲れた」
楊紅は明るい声を立てて笑った。
父上たちはおれが帰るのを待ってくれていた。
曹青が先に戻っていた。顔がまだほてっている。自分で水差しから水を注いでひと息に飲み干し、さらにお代わりを注いでまた飲む。
父上と目が合う。気まずい。父上もどう声をかけてよいかわからないという顔だ。飛将のおじ上はにやにやしている。
ところが急に扉が開いた。
蘇と、二十歳を少し越えたくらいの平服の男の人が入ってくる。蘇が言った。
「お客様がお見えになりました。あたしは席をはずしております」
蘇と入れ替わりに入ったその人を見て、父上と飛将のおじ上が腰を浮かせて同時に呼んだ。
「子尚どの」
その人は笑顔で応じた。なんだか憎めない。
「暁雲将軍、飛将将軍、ご無沙汰しております。お元気でいらっしゃいましたか」
「よくここがおわかりになりましたね」
飛将のおじ上が尋ねると、子尚どのは腰かけてから答えた。
「謝夫人から、こちらだとうかがいましたものですから」
謝夫人とはおれの母上だ。子尚どのはおれと曹青に目を向ける。
「ご子息がたですか」
父上がおれたちを手のひらで示した。
「はい。向かって左がそれがしのせがれで曹竜、その隣が飛将のせがれで曹青と申します」
「初めてお目にかかります。司馬昭あざな子尚でございます」
立ち上がり、張りのある声でおれたちに拱手の礼をしてくれた。あわてておれと曹青も立ち、拱手を返す。
「曹竜と申します」
「曹青でございます」
座ると、子尚どのは背筋を伸ばしておれたちに告げた。
「今日おうかがいいたしましたのは、将軍がたにご出陣いただくためでございます」
父上と飛将のおじ上の目がぎらっと光る。飛将のおじ上がそのまなざしを子尚どのに据えた。
「孔明ですね」
子尚どのが鋭くうなずく。
「ええ。祁山に出て参りました。また我らを襲う構えを見せております」
父上と飛将のおじ上が視線をかち合わせる。
「馥」
「暁雲」
「決まっているな?」
「ああ、もちろん」
父上と飛将のおじ上は揃って答えた。
「参ります」
子尚どのの顔が一気にほころんだ。
「そうおっしゃると、思っておりました!」
その声があまりにも大きくて、おれと曹青は飛び上がる。
「相変わらず声が大きいですね」
飛将のおじ上が苦笑いすると、子尚どのは頭をかいた。
「いやあ、申し訳ない。これでも加減をわきまえるように気をつけてはいるのですが」
父上と飛将のおじ上はおれと曹青に顔を向けた。まず父上がおれに問う。
「竜。行くよな?」
おれの答えは決まっている。
「行きます」
次に飛将のおじ上が曹青に確かめる。
「青、君は?」
曹青は腿の上に置いた両手をぐっと握り、きっぱり言い切った。
「もちろん参ります」
子尚どのが目尻を下げた。
「いいなあ。頼もしい。共に従軍するのが楽しみです」
こうしておれたちは、諸葛孔明の北伐に立ち向かうことになった。今は曹魏の年号で青龍二(二三四)年四月。おれと曹青、数えで十六の初陣だった。
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