・1-3 第3話 「婚約破棄!? :1」

 明日は早起きをしなければならない。

 そのことは分かっているのだが、リアーヌはなかなか、寝付くことができなかった。


 宿屋に事前に連絡をして暖かいお湯を用意してもらい、風呂に入ったせいなのか。

 火照ほてった身体は、どうにも落ち着かない。


 だが、原因はそれではなかったらしい。

 夜遅く、ラータ(深夜。十二時前後)までマリエルに部屋にいてもらい、ずっとおしゃべりをしていたのだが、一向に身体から熱が抜けて行かなかった。


(緊張、しているのでしょうね……)


 明日は、エリアスと会う。

 自分が成長しているのと同じように、彼もまた、変わっているだろう。


 どんな風に?

 楽しみに思うのと同時に、———胸の内がうずくような感覚がある。


 長々と旅をしてリンセ伯爵領にまでやってきた以上、もはや、リアーヌはジルベール伯爵家の人間ではなくなっていた。

 家族や領民に見送られて故郷を旅立った日から、実質的にはもう、エリアスの妻となっているのだ。


 あの心優しい少年と最初に過ごす夜は、いったい、どんなものになるのだろうか。

 彼の腕の中にいだかれた時の感触は、どんなだろうか———。


 そのことを考えると、どうにも、ソワソワとしてしまう。


「リアーヌ様~。まだ~、起きていらっしゃいますか~? 」


 ベッドに横になり、毛布を被ったまま悶々もんもんとしてしまっていると、扉の外から夜通しの番をしてくれているミシェルの声が聞こえて来る。


「起きていますわ。なかなか寝付けませんの。

 どうしたのかしら? こんな時間に」

「はい~。実はですね~。

 驚かないでくださいませね~? 」

「そんな、もったいぶらないで、早く教えなさいな」

「はい~。では~。

 実は、ですね~。

 エリアス様が~、お越しになっておられるのです~」

「……なんですって!? 」


 いつもと変わらない口調で告げられた言葉に、———リアーヌは思わず、跳ね起きてしまう。


 エリアスが、来ている?

 こんな時間に!


 トクントクンと、鼓動が早く、大きく響く。


(どうしましょう!? )


 わざわざここまで足を運んでくれたのだ。

 無下に追い返すわけにもいかないが、果たして今の自分は、将来の夫を出迎える準備が整っていると言えるのか。


 清潔なのは間違いない。

 たくさんのお湯を使わせてもらい、じっくりと身体を磨いた後だ。


 だが、化粧はまったくしていない。

 明日、早起きをして身だしなみを整えるつもりだったのだから当然なのだが、これでは、自分をもっとも美しく見せることができる状態とは言えない。


 それに、服装。

 ゆっくりとリラックスして休むために、着心地の良い寝巻に着替えているのだ。


 とても、人に見せられるような姿ではない……。


「その……。入っていただいて下さいまし」


 だがリアーヌは、少し悩んでからそう言っていた。


 こんな時間にわざわざ訪ねて来てくれた相手をあまり待たせたくはない、という気持ちもあったが、なにより。


 どうせ、結婚したら衣装など関係ない、素のままの姿を見せることになるのだ。

 それが一日早まった程度、大した違いではない。


 ———ならいっそ、このままの方が[好都合]ではないか。


 などという、我ながら思い切った考えが浮かんできたためだった。


 動揺しているのかもしれない。

 身体の火照りのせいで、冷静な思考を失っているのかもしれない。


 だが、リアーヌは半端な決心でこの地にやって来たつもりはなかった。


 仮に、どうしてもという事情で、リンセ伯爵家とジルベール伯爵家が戦うことにでもなったら。

 自分は、エリアスと共に、実家と争う。


 それだけの覚悟はしている。


 かといって、まったくなにもしないで夫となる人物を出迎える気にもなれなかった。

 せめて髪だけでも整えようと、手鏡を用意し、ヘアブラシでサッサ、と手際よく自身の金髪をすいて行く。


「エリアス様が~、おいでになりました~」


 なんとか毛先まで整えられたころ、再びミシェルの声。


「お入りいただいて下さいまし」


 手鏡とヘアブラシを片付け、サンダルを履いてベッドから降り、何事もなかったかのような平然とした態度を取り繕ったリアーヌは、澄ました声で答える。


「……やあ。

 久しぶりだね、リアーヌ」


 ほどなくしてミシェルが音もなく扉を開くと、十六歳ながらにリンセ伯爵位を引き継ぎ、領主となったエリアスがそっと姿をあらわした。


 ソラーナ王国でも重要な位置にいる五人の貴族。

 [王国の五本指]とうたわれる内のひとつ、[小指伯爵]と呼ばれている少年。


 身長は、四ヴェスティージャと九デシマエ(約百五十七センチメートル)と、五ヴェスティージャぴったりのリアーヌよりも少しだけ低い。

 髪は亜麻色で、天然のウェーブのかかったそれを肩の下あたりまで伸ばし、後ろ側でひとつに束ねる。

 まなじりの下がった温和で誠実そうな印象の双眸そうぼうの中では、見つめているとほっとした心地になる茶色の瞳があり、じっとこちらの様子を観察して来ていた。


 粗野な、荒々しい印象はまったくない。

 美しく、繊細せんさい

 身につけている衣服が男性用の外套がいとうではなかったら、少女かと見違えてしまうような美少年だ。

 実際、妹のカルラとは見間違えることがあるほどによく似ている。


 だが、彼がたくましく、勇敢な少年だということを、リアーヌは良く知っている。

 過去のでき事もそうだが、指先を見れば分かることだ。


 一見すると華奢きゃしゃに見える、細くしなやかな指先。

 しかしその手の平は、皮が厚く、固い。


 剣を振るい、手綱を巧みに扱う、騎士としての手だ。


「……お久しぶりでございます。

 リアーヌ・ジルベールでございます。

 明日になれば、こちらからおうかがいいたしましたのに。

 こんな夜更けにいったい、どうなされたというのです? 」


 思わずエリアスの指先に見惚れてしまいそうになるところを慌てて正気を取り戻し、優雅に一礼して見せると、リアーヌはさっそく、彼がこの場にやって来た理由をたずねていた。


「……その前に、人払いを」


 リンセ伯爵は、すぐには本題を切り出さなかった。

 よほど重大な要件があるのに違いない。

 人の目があることを気にかけている。


「それでは~、わたくしは失礼いたします~。

 ついでに周りの方にも~、お部屋に近寄らないように申しておきます~」


 静かに様子を見守っていたミシェルはすべてを心得ている様子で一礼し、すぐに部屋から姿を消した。

 言葉通り、この部屋の周囲には誰も近寄らないように取り計らってくれるのだろう。


 部屋の扉が締まり、残された二人の吐息がかすかに聞こえるだけの静寂せいじゃくが訪れる。

 蠟燭ろうそくの弱く暖かな光の中に、妙に深刻そうなエリアスの表情が浮かんでいた。


「いったい、どうなされたというのです?

 そのようなお顔をされて……」


 なんだか、胸騒ぎがする。


 少し怖くなってきてしまったリアーヌは、ぎこちない笑みを浮かべながら、相手が口を開くのを待ちきれずにそう問いかけていた。


 すると、エリアスは小さく深呼吸をする。

 そして息を吐き出し終え、また吸い込んだ時にはもう、迷いを打ち消したらしい。


 今までに見たこともないような真剣な瞳で、リアーヌのことを射すくめていた。


「今日は……。

 君との婚約を、破棄するために来たんだ」

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