あの子の瞳の煌めきを

@kobemi

第1話 二人ぼっちの授業

薄く暖かな日差しの差し込む教室。窓際の最後尾の席で、カーテン越しにじわじわと滲み出すような外からの陽気に眠気を誘われて、ぽつりとあくびを零して私は、胡乱気な視線を自分のノートと黒板とのそれぞれに、交互に這わせた。

授業の初めには上の方にちょろちょろといくつかの数式が並ぶだけだったはずの黒板には、いつの間にやら曲線を描くグラフの数々が、所狭しと並んでいる。

わたし、こんなの知らない…。ついつい途方に暮れる気持ちにもなる。ちらりと自分のノートの方に視線を移せば、最初のうちは真面目に板書できていたはずが、ノートの頁の後半に進むにつれて、解読不能な象形文字じみたものになってしまっている。これではまた、彼女のお世話になるしかないな。

そういう考えが頭をよぎって、そういえば彼女はどうしているだろうと、つと、隣の席に視線をやる。案の定、隣の席の彼女ー浦木さんは、黒縁眼鏡のレンズ越しに、先生の方にきりりとした鋭い視線を送っていた。

これでメンチを切っているとかではなくて、あくまでも真面目に授業を聞いているだけなのだから、つい笑ってしまいそうにもなる。実際、先生も私や浦木さんのいる方には、なるだけ視線をやらないようにしている気がする。きっと浦木さんと目を合わせるのが恐ろしいからだろう。

先生が解説を一時中断するタイミングを待って、とんとんと浦木さんの机の上を軽く叩く。

ぱたりと厳しく眉根を寄せるのを止めて、浦木さんがこちらの方にどうしたの?といった顔を覗かせた。

「ね、毎度のことで申し訳ないんだけどさ。あとでノートみせてくれない?」

片手で拝むポーズを作って尋ねると、浦木さんはにこりと柔和に目を細めて、

「うん。その代わりといってはなんだけど…今日もいいかな…?」

と、こちらが頼んでいる側だというのに、ひどく遠慮がちにそう言った。

「いいや、それは全く。もちろん、わたしがきちんと理解できたらの話だけど」

そう言うと、彼女はほっと安堵するような笑みをみせて、また教卓の方に視線を戻した。

こういう仕草をみていると、やっぱりみんな、浦木さんのことを勘違いしているよなと思う。それは先生も然り、私を覗いたこのクラスの全員もまた然りだ。

みんなどこか浦木さんのことを敬遠するようにしている。それは彼女が誤解されやすいからなんだと思うけど。でもほんとは違う。浦木さんのこんな風に優しい笑顔のことを、きっとわたししか知らないんだろうな。毎日のようにそんなことを思っては、奇妙な優越感に浸っていた。そして、授業が終われば。


「ねえ、結衣!今日みんなでカラオケいこーってことになってるんだけど、行くよね?」

明るい茶色に染めた髪を、くるくると片手で弄ぶようにしながら、泉が間延びした声でそう尋ねてくる。

「あー、ごめん…。今日はちょっと用事あってね」

「えー。まーうん、わかった、じゃあまた今度」

「うん、また今度!」

結衣、なんか最近付き合い悪いよね。そんな言葉が背後から聞こえてくるのに多少びくつかないでもないけれど、あくまでも気にしていない風を装って、教室を出る。

ドアを開けると、なだれみたいにぞろぞろと学校を出て行く生徒の流れを、窓越しに眺めている浦木さんがいた。退屈そうにしている訳ではないけれど、決して人間観察を楽しんでいる風でもない。彼女の横顔から読み取れるものは乏しく、そして私自身の読み解く力も観察眼も大してあてにならないから、浦木さんの真意ははっきりとしない。

「ごめん待たせちゃって」

「あ、ううん」

「行こ」

さっきの会話、たぶん聞かれてないよね。浦木さんのことだから、私と泉の会話を聞いていたら、きっと気に病んでしまうに違いない。それだけがいつも気がかりだったけれど、隣の浦木さんは普段通りにしているからたぶん大丈夫だろう。うん、そう思うことにしよう。

人気の減りつつある廊下を進んで、今いる三階から、階段を経由してさらに一つ上の階に向かう。

最上階の四階には音楽室があって、もうすっかり聞き慣れてしまった吹奏楽のメロディが、ふわりふわりと漂うように流れてくる。

それと同時に、換気のために少しだけ開いた窓からは、運動場のサッカー部の野太い掛け声やら、ブザーの音やらが入り込んできている。

それらのざわめきを鬱陶しいような心地いいような曖昧な気分で聞き流しながら、いつもの教室の前に着く。

ドアの取手に手をかけるとき不安に思うのは、もしも誰か先客がいたら‥ということ。

そうなれば、私と浦木さんの二人ぼっちの授業は忽ちになくなってしまう。どうか誰もいないでと密かに念じながら扉を開く。

‥よかった。誰もいない。いつもと同じ森閑とした静寂を閉じ込めていた教室は、いつもと同じ少しだけ気になる古くさい匂いをしていた。

「湊さん?」

きょとんとした顔をして、浦木さんが不思議そうに私のことを覗き込むようにしている。ほっと胸を撫で下ろして立ち止まっていた私は、「ごめんごめん」と、いそいそと教室の中に入って彼女の進路を空けてあげた。

「今日のはこのページからなんだけど‥」

真ん中の方の席を陣取った浦木さんは、机の上に端麗な文字で書き込みのされたノートを開いて、余ったスペースに今日の範囲の教科書を開いた。

「ふむふむ、なるほど‥なるほど‥」

羨望の眼差しで私のことを見つめる浦木さんのことを、ノートを見て考えている振りをしながら、ちらりと盗み見る。神妙な面持ちでいる彼女は、どことなく合図を待っている従順なわんちゃんを連想させて、なんだかいじらしい気分になる。お手とかつい口に出して言ってしまいそうになるから、結構危ない。

「大体わかったかも」

「ほんと!」

邪な考えをやっとの思いで断ち切って、ノートと教科書とを交互に見やり、なんとはなしに内容の理解はできたように思う。

「このグラフっていうのはさ‥」

あとはいつものように浦木さんに解説をしながら、自分の考えに間違いがないかの点検をしていく。

「はぁ〜なるほど‥。やっぱりすごいね、湊さんは。私のノート見ちゃうだけでぱっと授業の内容理解できちゃうんだもん」

ひどく感心した様子で、浦木さんが私のことを褒めちぎってくれるから、ついデレデレと照れてしまう。それを隠そうとして、饒舌になんとか切り返す。きっと今、気持ち悪い顔してんだろうな、わたし。

「いや〜、浦木さんのノートの取り方がいいんだよ。先生の言ってた大事なところとかバッチリメモしてあるのがほんと助かる」

「そう?それならよかった!ほんとうにありがとうね、いつもこうして湊さんが教えてくれるからなんとか授業ついていけてる。でも、迷惑だったらちゃんと言ってね」

「いやいや、迷惑なんて。むしろ私の方が、いつもノート見せてもらって助けてもらってるから」

一通りの解説が済んだとき、決まって起こるこのお礼の応酬合戦。これもまたお決まりのことで、今日も堪えきれず先に噴き出したのは浦木さんの方だった。

「ふふっ」

誘発されて、私の方の口元も即座に決壊する。ここの教室は先生には無断で使っているから、本当は気をつけないといけないのだけれど、私たち二人の笑い声は、吹奏楽部の楽器の音色が掻き消してくれた。こうやって私たち二人だけの時間は、誰にも知られずにいつも通りに過ぎてゆく。

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