[002] 河内幢子は異世界転移した。

河内 幢子とうこは異世界転移した。


 物語の中だけ話。彼女も書籍でそういった類を知りこそはしたが、

 現実にあるものとは思っていなかった。


 父も母もある。幾つか年の離れたの妹が居て、その妹も自分よりよっぽどしっかりしている。

 日々を物静かに過ごし、父母と同居しつつも夕飯時を過ごす程度の交流。


 姉妹ともに真面目に育ったが、生来、浮いた話もなく、それを期待されることもなく、また望むこともなかった。


 趣味人であり、高校を卒業してからは進学はしなかった。

 学生時代に学友との話題にすら登ることのなかった歴史文学と工作の趣味が実を結び、資格試験の取得に訪れた講習所で生徒ならず重宝される。

 人手不足から流されるままに講師に、そして講習所の業務拡大から技術派遣の受け子の一人となった。


 社会に飲み込まれ、巻き込まれ、それでもマイペースを崩さない。

 無職とは言えないが、誇れるような仕事でもない。


 二十年、三十年という長い時間の中で使い潰され、人生に迷うこともあるかも知れない。

 そういった不安を父母は抱えていたが、幢子本人は気に留めていなかった。


 本人の心は、常に趣味に向き合っていた。

 子供の頃から妹を巻き込んでは気になった造形をあれこれと再現する子だった。


 「車輪の再発明」それが幢子の一番好きな言葉であった。


 本を読んでは生まれた経緯を知り、原理や構造を知っては自分の手で作ってみる。

 日本史を読んでは偉人ではなく農機具の発展を喜び、世界史を読んでは風車や水車と言った大型建築物による動力に興味の目を向けた。

 小学校の夏休みの自由研究で風車で水を引き、水車を回す、その動力で風車を回すといった、周囲に理解できない工作を妹と作り上げ、「謎物体」などと揶揄されたこともあった。


 その興味は歴史だけでなく、現代にも注がれる。

 電子の世界の構造にも多大に興味を持ち、幾つかの機械言語を履修もしていた。

 そういった構造を「自分の手で」作ってみることが楽しかった。


河内 幢子は異世界転移した。

 それは22歳の秋の事である。

 講習所での講師のヘルプを頼まれ、職場に向かうため少し遅めの朝、家を出た矢先のことであった。


 空がチカチカと明滅し、太陽の光が歪んでいく。

 日食かと空を見上げた所、やがて光が辺りを包み、急な眩しさに目を伏せた。

 刹那の後、アスファルトの地面は土に変わっていた。


 辺りを見回す。

 幢子にとって馴染みのある家の前の光景が、未知の世界であったというわけだ。


 息苦しさは感じない。熱さや寒さを感じることもなかった。

 結果、身の危険を即座に感じることもなかった。



 ただ周りは違った。

 直ぐに理解できたことは、「馬が犬を追っている」という光景である。


 広い草の点在した空間を、少し離れた場所を、馬が犬を追って走っている。

 よく見るとその近くを、時代がかった鎧をまとった男が倒れている。


 馬から振り落とされたのだ。


 幢子はそれを察し、近くへ駆け寄っていく。


「逃げろ!何をやってる!」

 男が頭から血を流しながら、幢子を怒鳴りつける。

 その頭を見て、幢子は肩に下げたハンドバックを下ろし、スーツのポケットからハンカチを取り出した。


「頭から血が。」

「だから逃げろって!狼が来る!」

 男は幢子の手を振り払う。


 狼。

 日本ではもう既に絶滅したはずだ。自分が住んでいる場所にいるはずもない。


 幢子の知識はそのくらいは理解していた。しかし現実に、目の前の男は、それを指摘する。


 馬の走り抜けた方向を見やる。

 馬の行方は見失っていたが、走り去っていってしまったのだろうか。


 その代わりに、足を止め、こちらに振り返る「野性味あふれる犬」の姿が見えた。


 狼。思考と指摘が一致する。

 犬だと思ったのは狼だったのだ。


「いいから行け!いいから!」

 男は痛めたであろう身体を必死に起こそうとしつつ、幢子と狼を睨みつけている。


 離れた所に、時代がかった割りに新しさを感じる槍が転がっている。

 男はそれに必死に手を伸ばそうとしている。


 幢子が槍に向かって手を伸ばすのと、狼が幢子たちに向かって走り出すのはほぼ同時だった。


 幢子の指が石突に届き、それを手繰り寄せようとしたその時には、幢子の耳には犬の足音さえも聞こえる距離であった。


 その一瞬を超えて、狼が幢子たちに牙を立てることはなかった。


 その少し手前を、土を削りながら狼が明後日の方向を滑っていく。その狼の腹には幢子の手にあるのと同種の槍が深々と突き刺さり、既に舌を出し目を虚ろに息絶えている。

 幢子が土に染み出す狼の血を眺めていると、馬の蹄の規則的な音が二人の間近に着地する。


「無事、とはいい難いか。だが生きているな!」


「リオル隊長!」

「残りの狼は?傷は?馬はどうした?」

 矢継ぎ早に話が展開していく。


 そこに至って、河内幢子は二人が「日本人ではなさそう」だと初めて観測する。


河内幢子は異世界転移した。

 そこに理解が至るのは、まだ少し先のことであった。

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