第2話 Drifting.Piece of LUCK.

2.


人が横たわっている。

すすきのにおいては普通のこと。

酔いつぶれた酔漢や、ただの酔狂な人々ならば朝方の風景の一部だと言っていい。

だが、死体となると話は別だ。


警察は早朝から現場を封鎖し、黄色い規制線を結界のように張り巡らせる。

だがそれでも周囲には野次馬が群がっている。

「何があったんだ」

「事故?」

「いや、ワンチャン殺人」

などと、あれこれ想像を巡らせながらスマートフォンを掲げて写真を撮る者も少なくない。

そんな野次馬の群れをかき分けるように、高校生が急ぎ足で駆けていく。

「やべー、遅刻する!」

一人が背中に背負ったカバンを揺らしながら、汗を拭う。

「死体が出るとか、ここってどんだけヤバい街なんだよ。治安悪すぎ」

男子生徒が声を潜めながらも、チラリと野次馬の先にある規制線を一瞥する。

その先には、白いシートに覆われた骸が横たわっていた。

「死体なんて、見たことある?」

ポニーテールの女子が、何気なく男子生徒にに尋ねる。

「あるわけないじゃん!」

「だよね。でも、うちの担任とか平然としてそうじゃない?」

「担任って……あの新任の?」

「そう、あの人だったら『死体ですか。そりゃおかしいな。昨日まではちゃんと動いてたんだが』とか言いそうじゃない?」

「いや、言わねーよ!」

笑い声が弾む一方で、誰もその死体の正体について深く詮索しようとはしなかった。


だが、その背後でひっそりと野次馬を眺めていた一人の影が、微かに息を吐いた。


「またか……」

その影は野次馬の隙間からわずかに死体の白いシートを覗き込む。

シートの端からのぞく手首には、何か経典の一節のようなものが見えた。


「……防人社の連中が動き出す前に、片をつけないと」

呟き、影は静かにその場を去った。

誰にも気づかれぬように、そして風に溶け込むように。

その後ろ姿は高校生の制服を着ていたが、明らかにただの生徒ではない。

「いや、本当に遅刻する!」

その一団は騒ぎに目もくれず、学校への道を急いだ。


だが彼らがその場を去ると同時に、死体の周囲の空気が微妙に変わり始めた。

シートをめくる警察官たち。

その表情が硬直する。

「これ……本当に人間か?」


シートの下から現れたのは、人間らしき形をしていながら、通常の血肉ではない何かだった。

まるで人形か、もっと異質な存在。

その腕には、深く彫り込まれた模様。

羅鬼と呼ばれる魔に関連する呪文が、鮮明に浮かび上がっていた。

【防人社】の影響が及ばない一般社会のはずが、今日という日は特異点の幕開けとなる。


    ◇


「ギリギリセーフ!」

鳴上破徒(なるかみ はと)は、肩で息をしながら教室のドアを勢いよく開け放った。そのまま席に滑り込むと、椅子に深く腰掛け、全身から汗を吹き出しながら安堵のため息をつく。

「お前、朝から全力疾走とか、どんだけギリギリなんだよ」

隣の席の友人、山口亮が呆れた顔で言う。

「いやー、仕方ないだろ。路上で死体が出てるとか聞いて野次馬が集まっててさ。それを避けるのに遠回りしてたら、こんな時間に」

「遅刻寸前の言い訳が死体って、物騒すぎるだろ」

破徒は肩をすくめて笑ったが、すぐに思い出したように周囲を見回す。

「そーいえば、天地は?」

「統真か。あいつなら病院」

亮が何気なく言い放つ。

その言葉に破徒の眉がピクリと動いた。

「どうしたんだよ、また体調でも崩したのか?」

「いや、そんなんじゃねえよ。あいつ、ほら、手足が一本ずつないだろ? 義肢の調整だってさ。難儀なもんだよな」

「……あー、そういうことね」

破徒は少しだけホッとしたような表情を見せるが、すぐに感心したように頷いた。

「でも、義肢があってよかったよな。言われなきゃ分からないくらい自然だし。なんていうか、すごい技術だよな」

「だよな。しかもあいつ、水泳部だしな。義肢であそこまで泳げるとか、ちょっと異常だよ」

「異常って言うなよ」

破徒は苦笑するが、確かに統真の運動能力は義肢であることを感じさせないほどだった。特に水泳の大会ではその技術とスピードで幾度となく優勝している。

「でも、義肢とかって、メンテナンスとか大変なんだろうな」

破徒がぼんやりと呟くと、亮が小声で付け加えるように言った。

「ま、大変だろうな。でも、あいつは全然そんなそぶり見せないけどな。

むしろあの調子で言うだろ、『手足がない分、余計な汗をかかなくて済む』とかさ」

「はは、それ言いそう!」

二人は顔を見合わせて笑った。

だが、その軽い会話の裏で、破徒の胸には一抹の不安が浮かんでいた。

病院に行った理由が本当にそれだけだといいけど……。

統真が抱えているものは義肢だけではない。彼が時折見せる、どこか冷たく突き放したような笑み。

その奥に隠された何かが、破徒にはどうしても気になっていた。

それでも――今はまだ、ただの友人として信じたい。

破徒はそんな思いを抱きながら、教室の雑多な空気に自分を馴染ませた。


「授業を始めます。」

教師が黒板の前に立つと、いつもの調子で淡々と話し始める。

しかし、次の言葉が教室全体の空気を一瞬にして凍りつかせた。

「そういえば繁華街の方で、ええと……死体ですか。不思議なものですね。昨日まではちゃんと動いていただろうに。」


――言った!!


教室中がざわつく。

誰もが内心「この人、やっぱりちょっとズレてる」と思いつつ、何も言えない。

「ねえ、先生。もうちょっと言い方ないの?」

沈黙を破ったのは破徒と登校して来たクラスのギャル、真瀬(ませ)莉奈だ。

胸元を派手に開けた改造制服で、あからさまに呆れた顔をしている。

「真瀬君、何か問題でも?」

教師は至って無邪気な顔で首をかしげた。

その態度がさらに生徒たちのツッコミ心を煽る。

「問題ありあり! だいたい死体を『動いてただろうに』とか、感想が雑すぎるし、怖いってば!」

莉奈が勢いよく声を上げると、クラスの数人が笑いをこらえきれずに吹き出した。

「確かに……まあ、不適切でしたかね。でもね、みなさん」

教師は急に真面目な声色に変えた。

その表情は、どこか説教じみている。

「人というものは、不思議な存在です。昨日まで喋り、歩き、呼吸していたのに、何か一つの要因で――例えば心臓が止まったり、脳が機能しなくなったりするだけで、ただの『物』になってしまう。」

「いやいや、授業でそんな話いらないっすから! 今生物だし!」

後ろの席の男子が突っ込むが、教師は構わず話を続ける。

「それを考えると、生命とは非常に脆い。繁華街で見つかったその方も、ほんの少しの違いで今も生きていたかもしれない。つまり――」

「つまり、じゃないっしょ!」

莉奈がさらに声を張り上げた。

「先生、そういう話じゃなくて、もっと普通に授業してよね!」

「ああ、確かに。では授業に戻りましょう。テクストの32ページを開いてください」

教師は何事もなかったかのように教科書を手に取り、話を切り替えた。

しかし、クラス中の生徒はすでにそれどころではなくなっていた。

「なあ……あの先生、やっぱちょっとやばいよな」

破徒が隣の亮に小声で尋ねる。

「ああ。生物の授業なのに、いつも妙な方向に話が飛ぶんだよ。前なんて、カエルの解剖の話から宇宙の誕生に行き着いてたしな。」

「ぶっ飛びすぎだろ……」

教室の中には、微妙な緊張感と笑いの混ざった空気が漂っていた。

破徒はそれを一歩引いたところから眺めながら、繁華街の死体についての教師の言葉をなんとなく心の片隅に引っ掛けていた。


あの死体、本当にただの事故だったのか?

破徒はそう思わざるを得なかった。


「若人の皆さーん! 元気にしてますー?」

咲の軽快な声が教室に響き渡る。

唐突に開け放たれたドアにクラス全体が注目する中、彼女はスーツ姿で堂々と足を踏み入れた。

「おい、咲。声デカいって……って、お前なんでここに来てんだよ!」

納田終が驚愕と焦りを隠しきれずに声を上げた。

「納田終さん、そんな顔しないでくださいよー。こっちはわざわざ仕事で来てるんですから。札幌の繁華街で死体が出たっていうから、せっかくだし様子を見に来たってわけです!」

咲は肩にかけたバッグをぽんと叩きながら教室内を見回した。

「守羽咲さん……ですよね? こちらに来られたんですか」

教師が驚いた様子で咲を見つめる。

「あ、どうもどうも! お久しぶりです……って、あれ? 土御門の御曹司じゃないですか。なんでこんなところで教師なんかやってるんです?」

「若隠居ってやつですよ。次男坊なんてのは楽でいい。家業の継承は兄貴に押し付けて、今は趣味で教師をやってるんです。死ぬまで暮らすには十分な蓄えもありますしね。それより……あなた方がわざわざ来られたということは、やはり」

土御門先生――いや、土御門次郎が声を落とす。その目は鋭く、彼がただののんびり屋ではないことを窺わせた。

「羅鬼絡みです」

咲が即座に答えた。

彼女の声が先ほどとは一変して低く、重い響きを持っていた。

納田終が一歩前に出て、うやうやしく頭を下げる。

「土御門様、お久しぶりです。二、三年前に一度お話をしたきりでしたが……まさかこんなところで教師をされているとは思いませんでした」

「そりゃあこっちの台詞ですよ。納田終君、君もまだ『あちら側』で動いていたんですね」

次郎は皮肉めいた笑みを浮かべながら言ったが、その視線はすでに咲に向けられている。

「繁華街の死体について、何か情報は?」

次郎が簡潔に問いかけた。

咲は教室の生徒たちをちらりと見回した。

ここが一般の人間のいる空間だということを考慮したのか、肩をすくめて言葉を濁す。

「詳細はあとで説明しますよ。ところで先生、ちょっとお話したいことがあるんですけど、いいですか?」

次郎はため息をつきながらうなずいた。

「よろしい。授業は一旦中断です。みなさん、しばらく自習でもしてください」

生徒たちはざわざわしながら、咲と次郎、そして納田終の姿を目で追った。

三人は教室を出て、人気のない職員室へと向かう。


────職員室にて


「それで、一体何が?」

次郎が椅子に腰かけると、咲は迷うことなく話し始めた。

「昨晩の死体、羅鬼の影響を受けてました。というか、ほぼ確定。手足が妙に乾燥してたみたいで。ご存知だとは思いますけど、これって羅鬼の瘴気が皮膚に接触したときの典型的な症状ですよね」

「羅鬼の瘴気……」

次郎は眉をひそめた。

「納田さんと協力して、繁華街周辺をもう少し洗い直します。土御門先生は何か心当たり、ありますか」

「心当たりも何も、このあたりは羅鬼が最後に暴れた場所のひとつ。それに、札幌支部ができたのもその封印の影響だった」

咲は一瞬目を細めた。

「つまり、ここに封印の一部が?」

「現在もあるかどうかまでは。ただ、もし羅鬼が復活の兆候を見せているなら、その封印を狙ってくる可能性がある。厄介なことになったものだ」

次郎が軽く頭をかくと、納田終が口を挟む。

「先生、正装院に連絡は」

「とったほうがいいでしょう。咲さん、お願いできますか?」

咲は頷き、スマートフォンを取り出すと正装院の番号を素早く押した。

「もしもし、守羽です。北海道支部より早速羅鬼関連の報告があります」

電話越しに聞こえてくる重々しい声。

咲は淡々と状況を説明しながらも、内心で言い知れぬ緊張感を抱えていた。


羅鬼の封印はどこにあるのか?

そして、誰がそれを狙っているのか?


咲は視線を次郎に向けたが、その目には何かを企むような光が宿っているように見えた。それが味方のものか、それとも敵のものかは、まだ誰にも分からない。


    ◇


教室内は、まるで祭りの最中にでも突入したかのようなざわめきで満たされていた。

理由は明白だった。

真瀬莉奈が制服を脱ぎ始めたのだ。

「いやいやいや!莉奈、マジで何やってんの!? 豹柄ってお前、どこでそんなの買ってんだよ!」

最初に声を上げたのは山口亮だった。

普段なら彼のツッコミは教室の秩序をある程度保つ役割を果たす。

だが、この瞬間、彼の声は祭りの喧騒の一部にしかならなかった。

莉奈は亮の狼狽を気にも留めず、机に習字セットを広げる。

「防人社がマジであった……アタシ殺されちゃう。戦わないと」

下着姿のまま、真剣な眼差しで筆を手に取った彼女の姿は、異様という言葉では足りないほどに異質だった。

男子たちは息を呑み、女子たちは目を逸らす。

だが、誰も言葉を発することができない。


それを破ったのは、またしても亮だった。

「いや、防人社とか知らないし。なんでその準備に脱ぐ必要があるんだよ!」

彼の問いに、莉奈はまっすぐな目で返答する。

「すすきので転がってた死体、あれやったの私」

教室の空気が一瞬固まる。

いや、静まり返るといった方が正確か。


「……マジ?」

亮が口を開く。

だがすぐに男子たちから別の声が上がった。

「っていうかハミ乳してるぞ!」

その瞬間、堰を切ったように男子たちが騒ぎ出す。

「莉奈、最高!」

「そのまま写真撮らせてくれ!」

莉奈は振り返りざまに筆を振りかざし、男子たちを一喝した。

「ちょっと黙ってて」

しかし、振り上げられた筆先から墨が飛び散り、間の悪いことに亮の顔面に直撃する。

「おい、俺が被害受けてんじゃねえか!」


文句を言う亮を尻目に、莉奈は改めて半紙へ集中した。

筆が力強く動き、彼女が書き上げた文字はただ一文字。

〈豹〉


「……いや、それを書いてどうすんだよ。豹柄着てますってアピール?」

亮が冷たい目で突っ込む。


だが莉奈はその言葉を無視し、息を荒くしながら紙を掲げる。

そして、まるで呪文のように叫んだ。

「羅鬼、その御魂が一つ降霊せよ!」


その瞬間だった。


「うわ、なんかやべえ」

亮が吐き出した言葉は、状況を的確に表していた。


莉奈の肢体が変わり始める。

褐色の肌に豹の斑紋が浮かび上がり、筋肉が膨張し、指先から鋭い爪が生えた。

瞳は猫のように縦長になり、薄い光を放つ複雑な輝きに変わる。


教室のざわめきが一瞬で凍りついた。

真瀬莉奈が豹柄の下着姿のまま異形の化け物に変わりつつあるのだから、そりゃあ当然だろう。


最初に口を開いたのは山口亮だった。

「おい、マジで何やってんだよ、莉奈!」

叫び声に詰められた焦燥は、異常事態に対する当然のリアクションだった。

だが、当の莉奈は彼の言葉などまるで耳に入っていない様子だ。

教室中の誰もが息を呑む。

その異形の姿は恐怖と、そしてなぜか人によっては妙な魅力をも感じさせたのだろう。


「……なんだこれ……」

誰かが小さく呟いた。


それをきっかけに、男子たちの間から一言、また一言と声が漏れ出す。

「いや、ちょっとエロくね?」

「わかる、やばいけど、なんかいい」

「アニメとかでこういうのあるよな」


もちろん、状況的にそんな感想が許されるはずもない。

実際、亮が冷たい視線を投げつけた。

「お前ら、正気か? どう見てもこいつヤバいだろ!」

そう言った瞬間、莉奈が突然鋭い視線を彼に向けた。

その瞳は、完全に人間のものではなかった。

「亮、黙ってて。今は集中したいの」

淡々とした口調でそう言うと、彼女は己の爪を見下ろし、満足げに微笑んだ。

だがその微笑みが不気味さを増す前に、男子たちの間からさらにもう一言。

「いや、でもやっぱちょっとエロいよな」

教室の温度は、恐怖と混乱と、微妙に逸脱した男子たちの空気のせいで、ますますカオスになっていった。


「なんか、莉奈の胸デカくなってない?」

教室の隅から、ひそひそ声で女子の一人が呟いた。

「いや胸っていうか、身長そのものがでしょ。二メートル近くあるでしょ、これ」

別の男子が現状を冷静に分析するも、その声に冷静さは欠片も感じられない。

「高身長爆乳女子。あざっす!」

「いや、あざっすて。触れるわけでもないのに何感謝してんだよ!」

「……私、ちょっと先生呼び戻してくる」

女子の一人が呆れながら立ち上がり、教室のドアへと向かう。

混乱の中、教室はさらに錯綜していく。


半ば笑い声、半ば悲鳴、それに奇妙な興奮が入り混じった騒音が、教室全体を支配していた。

そんな中で、ただ二人だけが静かに現状を見つめていた。


山口亮と鳴上破徒だ。


亮は腕を組み、額に手を当てて深く息を吐いていた。

一方で破徒は、机の上に足を投げ出しながら、無表情で莉奈の変貌を観察している。

「どうなんだろうな、俺たち」

亮が低い声で呟く。

破徒は肩をすくめ、軽い口調で答えた。

「知らねー。けど、今更止められるもんでもないだろ」

「だからって、見てるだけってのもなあ……」

亮は頭をかきながら莉奈を見る。

豹の化け物になりつつある彼女は、依然として教室の中心で異様な存在感を放っていた。

破徒がふと笑う。

「まあ、これ以上変なことしないなら、勝手にやらせとけ。どうせ誰かが後始末してくれるだろ」

「……それ、俺らがやる羽目になるんじゃねえのか?」

亮の顔には、苦々しい表情が浮かんでいた。

破徒はその言葉に、少しだけ目を細めた。

「さあな。けど、面白い展開にはなりそうだぜ」

教室の混乱が続く中、二人の静かなやり取りは、どこか異質な冷静さを持っていた。

だが、それが何かの解決に繋がる保証は、どこにもない。


二人が思案していた、そのとき。


「はいはい、若人たち。自習時間はおしまい」

その声と同時に、教室のドアがガシャーンと音を立てて引き裂かれる。

そこに立っていたのは守羽咲。

その手には年代物のラジカセが握られている。

「普通に開けろ、バカ」

亮が一拍遅れてツッコむ。

守羽咲は肩をすくめつつも、満足げに教室に足を踏み入れた。

続いて入ってきたのは、納田終と土御門次郎。

二人とも呆れた顔で壊れたドアを見ている。


「このほうがかっこいいでしょ、ね?」

咲は涼しい顔で尋ねるが、誰もその言葉には乗らない。

「後で修繕費、頼みますよ」

土御門が溜息をつきながら返す。

「土御門家なのにケチー」

咲が軽口を叩く。

だが土御門はそれに反応せず真面目な顔のまま、目を莉奈に向けた。

「今は一介の教師ですから。ですが、うちの生徒が殺人を起こしたとなれば感心しませんね」

土御門の声には厳しさが滲む。

「真瀬君、羅鬼の力など頼らずに、まずは自首するべきです」

その一言に、教室内が再びざわめき始めた。

守羽咲はラジカセの再生ボタンを押し、軽快な音楽を流し始める。

誰もがどう反応していいか分からない状況の中、莉奈だけが息を荒くし、斑紋の浮かぶ腕を震わせていた。


いや、震わせているというより震わされている。

教室に流れる言語不明の音楽が、莉奈の身体を無理やり支配しているかのようだった。


「どう? 音楽の力は。」

守羽咲がラジカセを掲げ、勝ち誇ったように言う。

「これぞ《神哥》(かむうた)。対羅鬼戦に特化して開発された、防人社の秘術」

「デジタルメディアに移行できないって理由で、わざわざカセットテープに詰め込んでる関係でサイズがこんな感じなんだけど」

咲が古びたラジカセを軽く振るが、その顔には明らかに誇らしさが見え隠れしている。

「土御門様は詠唱を?」

納田終が問いかける。

表情に変化はないが、目は土御門に向けられている。

「家からの申し付けで、今は許可なしにはできないんですよ」

土御門は眉間にシワを寄せ、苦々しい表情を浮かべる。

「戦いに参列できず申し訳ありません」

その言葉には律儀な敬意が込められているが、同時にどこか冷めた現実味も感じられる。

一方で、莉奈の呼吸は荒れ、豹柄の斑紋がさらに濃く浮かび上がる。

音楽の影響で力を失いかけているのか、それとも暴走を引き起こしそうなのか。

周囲には判断がつかなかった。

「詠唱がなくても大丈夫ですよ。この《神哥》一つで十分」

咲は薄い笑みを浮かべながら、音楽のボリュームをさらに上げた。教室の空気が張り詰めていく。


「大体あいつが悪いんだ、あの親父が無理やりアタシをホテルに連れ込むから!」

莉奈が吠えるや否や、その巨体をさらに震わせ、四肢の力をフルに活かして守羽咲に飛びかかる。

だが、彼女の進路を遮ったのは納田終だった。

「えっ、ちょ、なんで俺の身体が……?」

終の身体から突如として現れたのは、光を纏う縄のような物質。

「これ、浄縛鎖(ジョウバクサ)じゃないか! でもこんなの、研修で一度触ったきりだぞ!」

「納田終さん、ナイスです」

守羽咲が余裕の笑みを浮かべ、ウインクを送りつつラジカセを掲げ直す。

「昨日、ホテルで色々と仕込ませてもらいました♡」

「はあ!? なんだそれ!」

納田終が抗議するが、咲は軽く肩をすくめて答える。

「私は戦闘の準備を整えるのが仕事って言ったでしょ。納田終さんが寝てる間に、ちょっとだけ身体に術式を組み込ませてもらっただけですよ」

「そんなの聞いてないぞ!」

「言ったら拒否されるでしょ。ほら、文句言ってる暇があったら協力してくださいよ。もうすぐ二つ目の『準備』が来ますから」


その瞬間。

教室の窓ガラスが轟音と共に粉々に砕け散る。

割れた窓から颯爽と飛び込んできたのは、鋭い瞳を持つ青年だった。

「待たせたな」

「天地!」

破徒と亮が声を揃えて驚きの声を上げる。

青年の片腕と片脚。

それは普段と同じ義肢であるはずなのに、いま目に映るそれは銀色を纏って、鋭い刃のように変貌している。

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