〈KITAN〉^2

TAKEUMA

第1話 where we go.where is lucky?

〈KITAN〉^2


太古に封印されし魔、在り。

人、羅鬼と呼べり。

羅鬼、その肉体は方々に散り散りて。

防人社に眠りゆく。


1.


「寒っ……もう4月なのに」

タクシーの助手席で、守羽咲は小さく震えた。

「北海道じゃ普通っすよ、これくらい。お客さん、東京の人?」

タクシー運転手が言いながら、さりげなくヒーターのスイッチを入れる。

一瞬で車内が暖かくなり、熱気がじんわりと充満していく。

「奈良から。仕事の都合でどうしてもタクシー移動になっちゃって……正直、大変ですよ」

そう言いながら、咲は少し熱さを感じたのか、ワイシャツの襟元を軽く開けて風を送る。

その瞬間、運転手の目線が僅かに彼女の胸元へ滑り込んだ。

男の生理現象である。

もちろん、咲はそれに気づいている。

ただ、それくらいなら気にしない。

視姦などされても別に構わない。

どうせ見られても大したものじゃないし、と思った。

華やかな下着なんて身につけていない。

身につけているのは、支給されている地味なグレーのスポーツブラ。

それを見て何か感じるやつがいるなら、それはそれで変態だろう。

咲はそんなことを考えながら、運転手をちらりと見た。

(……まぁ、変態っぽいけどね、この人)

無言のまま、タクシーは北の街を進んでいく。


それにしても……。

後ろに積んでいる荷物の中身をチェックされることを考えたら、自分の下着はおろか、オッパイくらい見せても揉ませても、終いにはしゃぶらせてもお釣りがくる。

咲はそんなふうに冷めた思考を巡らせる。


普通、タクシーで一人なら後部座席に乗るのが当たり前だ。

だが今回は、無理を言って助手席に座らせてもらっている。

「大きくて割れやすい荷物なんで、安定させたくて」

などと言って運転手を納得させたが、そんなものは方便に過ぎない。

本当のところは、後部座席で目をつけられるのが嫌だっただけだ。

助手席なら、何かあっても手を出される前に対処することができる。


だが、それにしても運転手の視線はわかりやすすぎた。

今もなお、ちらちらと胸元に注がれる目線。

もはや堂々としていると言っていい。

(よくやるなぁ。こんなとこで死にたくないから適当に泳がせてるけど、ヘタに荷物のことに気づいて変な真似したら承知しないんだから)

咲は何食わぬ顔で窓の外を眺めつつ、そう心の中で呟いた。


「お客さん、ちなみにお仕事ってどういう感じなんです? すすきのって言ってたし、やっぱり夜のお仕事とかですか」


あー、もう!

このエロドライバー、ほんと余計なことばっかり。


咲は内心で舌打ちをしつつ、顔には出さない。

たしかに今のはセクハラに違いないし、奈良にいたら苦情のひとつでも入れてるところだろう。

でもここは北海道のど真ん中、それも寒風吹きすさぶ見知らぬ土地。

こんなところでタクシーを降ろされでもしたら――まず間違いなくこっちが死ぬ。


だから、ここは適当に合わせるしかない。


「ええ、まあそんな感じですかねー」

あえて軽い調子でそう答えた。

実際は全然違うけど、こういう相手にはむしろ適当に期待を持たせておいたほうが楽だ。


案の定、運転手の目がキラリと輝く。

ゲスな笑みを浮かべながら、さらに踏み込んでくるのが目に見えていた。

(どうせ次は『どんなお店?』とか聞いてくるんだろうな)

咲はため息を飲み込み、次の適当な返答を考え始めた。


    ◇


「どうも、これからもご贔屓に……」

そう言いながら咲は、札束ほどの厚みを持ったタクシーチケットとチップを運転手に押し付けるように渡した。

その手には「早く行け」と言わんばかりの力が込められている。


運転手は目を丸くしつつも、それを受け取ると何か言いかけたが、咲の鋭い目つきに押される形で車を発進させた。

あっという間にタクシーのテールランプが夜の街に溶けていく。


「中々大変だったようだね、咲。ご苦労さま」

待ち合わせ場所で迎えた男。

薄暗い街灯の下でも、その声は落ち着いている。


「ほんとですよ。自分で言うのもなんですけど、ご苦労さまでした、私!」

咲は肩をすくめながら笑った。

「運転手のやつ、延々とエロトークしてきて、面倒だったから一発してやりましたよ。」

「……おいおい。まさか殴ったりはしてないよな?」

男の眉が一瞬だけぴくりと動く。

「まさか、そんなわけないじゃないですか」

咲は軽く笑いながら、手首をくるっと回しつつ舌を出してみせる。

その仕草にはどこか小悪魔的な挑発が混じっていた。

「こっちですよ」

男は一瞬、言葉を失った。

目の前の光景を処理するのに数秒を要する。その間、彼の脳裏には咲の大胆すぎるジェスチャーが鮮烈に焼き付いていた。

「……本気か?」

どうにか絞り出した言葉は、驚き半分、呆れ半分だった。

「テクニックには自信アリです」

咲は涼しい顔で言うと、片目を軽くウィンクしてみせる。

「試してみますか、納田終さん」

そう言ってから、咲はケラケラと笑いながら歩き出した。

その笑顔にはどこか無邪気さすら漂っていたが、その裏側には一体何が隠されているのか納田終には到底見抜けなかった。


彼女が歩み去る後ろ姿を見ながら、納田終は一つため息をついた。

「……試してみるも何も、俺にそんな余裕があると思うのかよ」

ぼそりと呟く声は、咲の耳には届かない。


まったく、噂には聞いていたがすごい女だ。


納田終は咲の背中を見送りながら、心の中でぼやく。

彼女の師匠がとんでもなく強いが、同時にとんでもない痴女だという話は以前から耳にしていたが、どうやら弟子のほうも相当に仕上がっている。

師匠譲りの資質か、はたまた本人の天性か。どちらにせよ、並の感性ではない。


だが、ここまで頭のネジが外れていなければ、この仕事を続けることはできないのかもしれない。

普通の感覚で挑んでいたら、たぶん心が折れるか命を落とすか。

もしくはその両方だろう。


そんなことを考えながら、納田終は咲がタクシーから持ち込んだ大量の荷物に目を向ける。

中身が危険なのは間違いないがそれでも彼は手を止めなかった。

「おいおい、こんなの一人で運べる量じゃないぞ。重いし、多すぎる」

ぼそりとつぶやきつつも、荷物を丁寧に抱え上げる。

その姿はどこか職人めいていて、愚痴とは裏腹に扱いは慎重そのものだ。

(本当に、すごい女が来たものだ)

重い荷物を運び出しながら、納田終はもう一度そう思った。


荷物を運びながら、納田終はふと気づいた。咲の姿が見えない。

周囲を見渡すと、彼女は少し離れた場所でスマホをいじっている。

片手にタバコを挟み、煙をくゆらせながら、こちらにはまるで興味がなさそうだった。

「おい咲、君が持ってきた荷物だろ。手伝う気はないのか?」

声をかけると、咲は面倒そうに顔を上げた。

「あー、すみません。ちょっと大事な連絡が入ってて」

言葉とは裏腹に、その顔には納田終に全て押し付けてやろうという態度がありありと表れている。

「連絡って。タバコ吸いながらやるほどの大事なやつなのか」

「当たり前じゃないですか。これでも大事な取引相手と話してるんですよ」

「取引相手? 気になるな。教えろ」

「秘密です。納田終さんには関係ないことでしょう」

咲は涼しい顔で返した。


「おいおい、お前、俺たちは仲間なんだぞ。俺を差し置いて『取引』なんて、怪しいにもほどがあるだろう」

「そんなに気になるなら、納田終さんも聞きますか。後悔しても知りませんけど」

「……やっぱりいいわ。聞かないほうが身のためな気がしてきた」

納田終は半ばあきれたように肩をすくめた。

「いい判断ですね」

咲はクスッと笑ってから、ようやくスマホをポケットにしまい、タバコを足元で揉み消した。

「それで次はどこに運ぶんです?」

「ようやく手伝う気になったのか」

「ええ、もちろん。ほら、私だって労働には協力的ですよ」

そう言いながら、咲は片手で一つの箱を持ち上げる。

軽そうに見える。

だが、納田終には彼女の行動が何を意味するか、すぐにわかった。

「……おい、それ、軽いほうだけ選んでるだろ」

「だって、力仕事は納田終さんのほうが得意そうですし?」

「得意そうって……お前、今の仕事、力仕事じゃなくて神経使うほうが多いんだぜ」

「じゃあ、神経使う部分は私に任せて、力仕事は納田終さんがやればバランス取れるじゃないですか」

言いくるめられる形になりながらも、納田終は特に反論しなかった。

「それでこの中身、聞いてもいいのか?」

「えー。言ったらダメですよ。大体、中身なんてわかったら余計に怖くなるんじゃないですか」

「俺の仕事だぞ、それ。怖いも何も、知っておかなきゃ始まらないだろう」

「まあ、そうですね。でも、知らなくても死にませんよ。多分」

「その『多分』が一番信用ならないんだけどな……」

ため息をつきながら、納田終は荷物を積み上げた。


作業が一段落つく頃、咲はふと空を見上げた。

「でも、本当、大変な仕事ですよね、これ」

「お前が言うなよ。自分で持ち込んできてるくせに」

「そりゃそうですけど、私だって何が入ってるか全部は知らないですよ」

「マジかよ……まさかそれ、素性不明の物持ち込んでるわけじゃないよな?」

「半分くらいは把握してます」

「半分!?」

「納田終さんみたいな真面目な人に全部話したら怒られるだろうから黙ってました。半分の内容でいいなら聞きますか?」

「いいよ、別に。……これ以上は突っ込まないほうがいい気がしてきた」

納田終は頭を振り、言葉を飲み込む。

「ここまで来たんだから、どうにかするしかないか」

「その通り。納田終さんなら大丈夫ですよ、それなりに頼りにしてますし」

「頼られると妙なプレッシャーを感じるんだがな……」

咲の無邪気な笑顔を横目に見ながら、納田終は心の中で苦笑した。

この仕事の先に何が待っているのか、考えたくもなかったが、逃げられないのもまた事実だった。


    ◇


防人社――平安時代、羅鬼の復活を阻止するため全国の神社が連携して設立した秘密結社。

その規模は八十八とも百二十とも言われ、時を経るごとにその数は増減を繰り返し、今なお根強く各地に支部を構えている。

咲と納田終が現在いるのは、その中でも比較的新しい北海道支部。

もっとも江戸時代には既に存在しており、その歴史は決して浅くはない。

神社の外見は時代相応に古びている。

苔むした鳥居、ところどころ欠けた石段、そして手入れが行き届いているとは言い難い拝殿。

しかし、それでも内部は不思議なほど清潔感があり、どこか厳かさすら漂っていた。


「見た目はボロい神社の割に、結構整備されてるんですね。古民家カフェみたい」

咲が周囲を見渡しながら軽口を叩く。

「当たり前だろ。これでも俺たち、日々維持に必死なんだ」

納田終は少しむっとしたように返す。

「そもそも本部から来といて、なんだその発言は。嫌味か?」

「いやいや、そんなんじゃないですよ」

咲は首を振ると、淡々と続けた。

「私、確かに奈良から来ましたけど正装院出身ですし」

納田終の動きが一瞬ぴたりと止まる。

「正装院?」

その表情に険しさと、羨望が浮かぶ。

「マジか。じゃあお前、バリバリのエリート。それも武闘派中の武闘派! なんでまた、こんな辺境に飛ばされてきたんだ。……左遷か?」

少し言葉を選びながら、問いを重ねる。

「それとも、こっちを教導しに?」

咲は苦笑いを浮かべた。

「左遷でも教導でもないですよ」

「じゃあ、なんで」

「私、武闘派じゃないですし」

ぴしゃりと否定する咲。

「所属はただの修復管理課でしたよ。別に戦う人間でもなんでもない」

「修復管理課ァ?」

納田終は肩をすくめる。

まるでその言葉の意味を図りかねるような顔をした。

「正装院って言ったら、そもそも羅鬼封じ、それに連なる連中の討伐専門のエリート中のエリートだろ。修復管理課なんて聞いたことがないぞ」

「簡単に言えば、封印とか遺物の修復、あとは封印装置のメンテナンス。戦うんじゃなくて、戦場を整える方です」

咲はアナウンサーがニュース原稿を読むように淡々と説明する。

その口調は、自分の仕事に誇りを持っているというよりもただ事実をありありと述べているだけに過ぎない。


「戦場を整える……か。なんだかピンと来ないな」

「まあ、来ないでしょうね。正装院の中でも地味ーな部署ですし」

咲は肩をすくめて笑った。

「それにしても、そんな部署の人間がなんでこんな場所に」

納田終が改めて問うと、咲の笑顔がほんのわずか陰る。

「それは……上の人間に聞いてください」

軽い調子で返すものの、その声には少しだけ棘が混じっていた。

「私も、詳しくは聞かされてないですから」

納田はそれ以上追及するのをやめた。

言葉の裏に何か深い事情がありそうだが、事情をよく知らない自分が踏み込むにはまだ早い。

少なくとも、今は彼女が持ってきた荷物と、その中身に集中すべきだ。

「とにかく、荷物は全部運び込んだ。あとはお前の指示次第」

「了解です。じゃあ、中身をチェックしましょう」

咲は少し腰を伸ばしながら、積み上げられた箱に向かって歩き出した。

その背中を見つめながら、納田終は彼女が一体どれだけの秘密を抱えているのか、そんな疑問を抱かずにはいられなかった。


    ◇


納田終は混乱していた。

いや、混乱という言葉では足りない。

むしろ、怒りや恐怖、あるいは悟りの境地のようなものが入り混じり、脳内がぐちゃぐちゃになっていたと言った方が近いかも。

気づいた時には既に両手両足を縛られ、薄暗いラブホテルのベッドの上に転がされていたのだからたまったものではない。

「結局、荷物に異常はなかったですねー」

その光景を締めくくるかのような咲の一言。

「なあおい、なんで俺がこんなところにいるんだ?」

納田終は必死に声を絞り出した。

「傷もなくてよかったー」

咲はまるで無視するかのように、感慨深げに呟く。

演技がくさい。

と言うより演技そのものすぎて、鬱陶しい。

「おい、もういいから早く解放してくれ!」

声が上ずる納田終を見て、咲はようやく彼に目を向けた。

その目は、どこか楽しげで、かつ底知れない何かを宿している。

「いいじゃないですか、似合ってますよ」

咲は悪びれることもなく言った。

「今日は夜のすすきのを案内してくれるって話だったじゃないですか」

「いや、俺はただ君の歓迎会をだな……」

慌てて弁解しようとする納田終を遮り、咲は腰に手を当ててニッコリと笑う。

「だからこれが歓迎会でしょう。こんないい女とタダでセックスができるなんて、さっきのタクシードライバーなら嫉妬で怒り狂いますよ。おお怖い怖い」

「……は?」

「10万払ってもらったんですから、当然ですよ」

納田終の頭に「10万」という数字が響き渡った。

「10万も払わせたのか!?」

彼は声を上げたが、すぐに次の言葉が喉に詰まる。

「というか、そういういかがわしい行為をやるなよ! 仮にも神に遣える人間が!」

「もー、うるさい。うるさい」

咲はうんざりした様子で、呟く。

その次の瞬間、納田は目を疑った。

「そんな口にはこうだっ!」

咲はなんと自分が履いていたパンティを脱ぎ、それを彼の口に突っ込んだのだ。

「んんっ!?」

悲痛な叫び声が部屋に響くが、咲は全く意に介さない。

それどころか、満足げに頷いている。

「まあ、これも仕事の一環と言うことで」

咲はベッドの端に腰掛け、足をぶらぶらと揺らしながら言った。

「納田終さんには申し訳ないですけど、もうちょっとそこで寝といてください」

彼女が振り返り、見せた笑顔。

それは一見無邪気だが、どこか底知れない闇が混じっていた。

納田終はこの瞬間、確信した。

この女、やはり正装院出身だ。

ただものじゃない。

咲が何を企んでいるのか、この状況がどういう意図で仕組まれたものなのか、その全てが霧の中だった。

しかし、一つだけ確かなことがある。

自分が今日、死ぬかもしれないと。

そう思ったのも束の間、咲はベッドから立ち上がる。

「……はい、じゃあリラックスしましょうね~」

咲は、あくまで楽しげな調子だ。

彼女の声には悪意というよりも、むしろ無邪気な楽しみが混じっている。

その無邪気さが、むしろ納田終には恐怖を倍増させる原因だった。


「~! ~~!!」

パンティが口に詰め込まれたままの納田終は、声にならない悲鳴を上げた。

だが、咲には全く通じない。

彼の下半身を包み込む温かさ、そして滑らかな感触。

頭では非常にまずいと理解しているが、肉体は正直だ。

意志に反して反応してしまう。

「ほらほら、そんなに力を入れたら、せっかくの楽しみが台無しですよ」

咲は彼の反応を面白がるように、微笑みながら言った。

「~~~!」

納田終は全力で抵抗を試みるが、手足は縛られており、口も塞がれている状況ではそれも叶わない。

咲はそんな彼を見て、さらに口角を上げた。

「腰、浮かしちゃって……可愛いですねぇ、納田終さん」

彼女の声がどこか嘲るようにも響き、納田終は羞恥で顔を真っ赤にする。

それでも体の反応だけはどうしようもなかった。

「ダメですよー、まだ出しちゃったら」

咲は耳元で囁きながら、わざと息を吹きかけるような仕草をする。

その軽やかな声と甘い吐息が、彼の理性を追い詰めていく。

納田の頭の中では、叫び声とともに混乱が渦巻いていた。

こんな状況、絶対おかしい。

俺は歓迎会に連れてきただけのはずだ。それが、なんでこんなことに!?

だが現実は変わらない。

むしろ咲の動きは、彼の絶望をさらに深めていく。

「でも……まあ、もうちょっと我慢できるかな? 何かいいたげだし、これは外して……っと」

咲の声は、どこか楽しげで、同時に挑発的だった。

納田はその声を聞きながら、頭を抱えるしかなかった。

いや、抱えることすら許されない。

そしてその時、彼はついに悟った。


これはもう、完全に詰みだと。


「……分かった、分かったから! とりあえずその縄を解いてくれ!」

納田終はとうとう根を上げた。

羞恥と屈辱の中で抵抗する気力も失せ、ただこの状況から解放されることを祈るだけだった。

「んー、まあいいですよ。でも、条件があります。」

咲は納田終の顔を見つめ、ニヤリと笑った。その表情には、まだ何か企みが残っているように見える。

「条件だと?」

納田終は警戒しながら問い返す。


「正装院に連絡を入れてください。正式に私がこの支部に来たことを報告しないといけないので」

「……それくらい自分でやれよ!」

納田終は怒鳴りそうになったが、すぐに状況を思い出し、ぐっと飲み込んだ。

「だって、私、こう見えて結構忙しいんですよ。ね?」

咲は軽やかに笑いながら、自分のスマホを取り出し、納田終の手に押し付けた。


「……はあ。分かったよ。」

納田終は深いため息をつきながらスマホを操作し、正装院の代表番号を押した。

通話音が鳴り、しばらくして無機質な女性の声が応答する。

「こちら正装院、どういったご用件でしょうか?」

「北海道支部の納田終です。そちらから守羽咲が来ている件で報告があります。」

相手は一瞬黙り込み、すぐに確認するような声が聞こえた。

「守羽咲さんですね。確かにウチからの派遣記録がありますが……彼女、無事到着されたのですか?」

「無事どころか、元気すぎて困ってますよ」

納田終は苦笑交じりに言ったが、相手はその冗談を聞き流したのか、すぐに業務的な声に戻った。

「派遣の詳細を確認しますので、守羽咲さんにも少々お待ちいただくようお伝えください」

「いや、待つのはいいんだけど……」

納田終はちらりと咲を見る。

咲は腕を組みながら、楽しそうに待っている様子だった。

「なあ、本当にこれでいいのか?」

納田終は思わず小声で尋ねるが、咲はニヤリと笑って答える。

「これが正装院流の手続きってやつですよ」

どう考えてもおかしいだろ、と思いながら、納田終は通話に戻る。

数分後、正装院からの返答が来た。

「守羽咲さんについての報告、受理しました。北海道支部での活動については引き続きサポートをお願いします」

「サポートって……俺がするのか?」

「派遣先の支部長として当然の役割です。何か問題でも」

「いや、問題は山ほどあるが……分かった、了解した」

納田終は電話を切り、深いため息をつく。

「これでいいか?」

「はい、大満足です!」

咲は満面の笑みを浮かべた。

「……じゃあ、さっさと俺を解放しろ」

「え? まだ続きがあるんですけど?」

「続きだと!?」

咲の表情から、彼女がまだ何か企んでいるのが分かる。

納田終はこの先の展開に頭を抱えたが、もう逃げられないことも理解していた。

この女、絶対にただの修復管理課の人間じゃない……。


    ◇


ホテルの一室。

咲はベッドに腰掛けながら、スマートフォン越しに冷静な声で話していた。

「はい、こちら修復管理課、守羽咲です。納田終さんと少しコミュニケーションを……ええ、荷物は彼に協力してもらって全部運んでおきました。でも、あんなガラクタみたいなもの、どうしてこんな僻地に送る必要があるんですか?」

通話の内容は表向きには重要な業務連絡のようだが、その口調にはどこか含みがある。

「ええ、ええ、了解です。では今後の指示を待つということで」

簡潔に話を終えると、咲はスマートフォンを閉じて机に置いた。

その瞬間、先ほどまでの真面目な表情が崩れ、いつもの飄々とした笑みが戻る。

彼女が振り返ると、ベッドの上で納田終は安らかな寝息を立てていた。

完全に疲れ果て、すっかり無防備な状態で横たわっている。

「ふふ、かわいい」

咲はその姿を見てクスッと笑うと、立ち上がり、彼の拘束を解いてやった。

納田終が目を覚ましたのは、それから数分後のことだった。

「……ん、俺は……?」

ぼんやりとした目を開けると、目の前には咲が笑顔で立っていた。

「おはようございます、納田終さん」

「お、おい、俺をこんな目に遭わせて……何のつもりだ!」

彼は体を起こしながら抗議しようとするが、その口調はどこか力がない。

それを見て咲は近づき、彼の顔を覗き込む。

「まあまあ、落ち着いてくださいよ。私、納田終さんには感謝してるんです」

「感謝だと? どこがだ!」

咲はふっと目を細める。

「だって、ここまで私のわがままに付き合ってくれたんですから。ちょっとそのお礼をしたいな、って思って」

「……お礼?」

彼が訝しむ間もなく、咲はするりとベッドに座り込み、彼の手をそっと握った。

その動作は思いのほか穏やかで、先ほどまでの喧騒が嘘のようだった。

「納田終さん、疲れたでしょう? 少し癒してあげますよ。」

「は?」

納田終は目を丸くするが、次の瞬間、咲は優しく彼に寄り添い、その肩に頭を預けた。

「……え?」

「こんなことされるの、嫌ですか?」

囁くような声でそう言うと、咲は彼の胸元に手を滑らせる。

「おい、待て、待て……!」

納田終の声は次第に弱まり、咲の柔らかな仕草に翻弄されていく。

「さっきは少し意地悪しちゃったけど、これからは優しくしてあげますから」

咲は甘く微笑みながら、彼に覆いかぶさるようにして唇を近づけた。

それ以上の抗議の言葉は、彼の口から出ることはなかった。


翌朝。


納田終は完全に力を使い果たしたような顔で目を覚ました。

横を見ると、半裸の咲がスヤスヤと寝息を立てている。

彼女の穏やかな寝顔を見て、昨夜の出来事が脳裏に蘇る。

「あいつ……本当に、何者なんだ……」

彼は頭を抱えたが、すでに咲のペースに飲み込まれていることに気づいていた。

正装院から派遣されたエリート。

しかも聞いたことのないような部署。

この女、どこまでが本当で、どこまでが嘘なんだ?

納田終は溜息をつきながら、再び横たわる。

一つだけ確かなのは、彼の北海道支部での日々が今後、穏やかで済むことは決してなさそうだということだった。

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