19

「なあ嬢ちゃん、本当に危険はないんだろうなあ。俺ぁ……」

 ブルットさんはそこで言葉を切り、辺りを見回した。


 鉄門扉が半開きになっている。

 夜帳が降りた廃墟を月明かりが照らし、時折旋回するハゲタカが月を通って巨大な影を地面に落としている。


 ブルットさんが手に持ったランプの灯りはあまりにも弱々しく、かえって目の前に現れた廃墟の闇を深くしているようだった。

 それにこのにおい。

 春の生暖かい風が吹き、廃墟からは漂う血生臭いにおいが、この門の外にいても否応なく鼻腔をくすぐっていく。


「……俺ぁ、ただの森番でさ、こういう腕っぷしに関しちゃぁ全然……ただのジジイよ」

「大丈夫ですって。それとも私じゃそんなに頼りないですか?」

 ブルットさんは、見上げるようにこちらを見て「いや」と小さく首を振った。


「そういうわけじゃねえんだ。銀級冒険者だもんな。ライラの嬢ちゃんが強いことはみんな知ってる。嬢ちゃんが大丈夫って言うなら、本当に大丈夫なんだろうって頭じゃわかっちゃいるんだ。ただ、こういうのに慣れてねぇだけでさ」


 ぎゃあぎゃあと上空でハゲタカが鳴くと、ブルットさんはびくりと体を縮こまらせた。

「だがなあ嬢ちゃん。小言くらいは許してほしいんだがなあ、せめて夜が明けてからじゃだめだったのか?」


「ごめんなさい」

 そう軽く頭を下げると、耳にかけていた髪がはらりと落ちた。「でも、できるだけ早い方がいいと思ったんです」


「いやいや、まあそりゃあ、俺だって早めにケリはつけてえよ。テリア村のみんなだって、不安に思っちゃあいたからな。早く討伐確認ができるなら、それに越したこたぁねえ。だがなあ……」


「……ブルットさんの仰る通りです。朝になってから討伐確認してもらった方がブルットさんは安心だって、私もわかってはいるんです。こんな廃墟、なにもなくたって怖いだろうし……。それでもこんな夜中に無理を承知でご足労頂いたのは、私が早く終わらせたかったからなんです」


 その言葉に、ブルットさんがひどく怪訝な目をする。

 眉間に寄せた皺が深く刻まれている。恐怖を隠しきれな唇が、少し震えている。


「そりゃあどういう……」

「見てもらえればわかります」

 そう鉄門扉を押すと、ぎぃっと錆びついた音が幽鬼のように静寂を切り裂いて辺りに響いた。

「さあ、こっちです」

 そう促すと、ブルットさんはごくりと生唾を飲んだ。


 壊れたドアから廃館に足を踏み入れた途端、背後でブルットさんが「うっ」と鼻を手で覆ったのがわかった。

 ブルットさんが目を細め、においの正体を探ろうと火魔法のランプを掲げるとぶわっと大量の蠅が撒きあがった。


「ひぃっ! なんじゃあ、こりゃ……」

「ゴブリンやオークの死体です。大丈夫、もう死んでいます」

「これは……全部嬢ちゃんが?」


 ブルットさんが背中の大剣に灯りを向ける。

 鞘に仕舞われた大剣の刀身は見えない。

 だがその柄や鞘の一部が血で黒ずんでいるのは見えただろう。


「いえ、私じゃありません。私が来た時にはすでに、この廃墟の魔物はすべて倒されていましたから」

「そんなバカな……なんでそんな……」

「進みましょう。奥に行けばわかります。ああ、そこ。滑りますから気をつけて。ごゆっくりで大丈夫です」


 一歩進むたびに、足音が廃墟に響く。

 ブルットさんの手がひどく震えている。

 ランプの灯りが揺れ、ゴブリンの影が、オークの巨体が、まるで生きているかのように動く。

 蠅が集り、蛆がうごめき、生きているもののいない世界。

 それなのに、こうして歩いているとなにもかもが今にも動きだしそうだと思えた。


 足音が響く。蠅の羽音がする。

 血で濡れた廊下を慎重に歩き、腐臭に幾度となくえずき、倒れたゴブリンの死体を乗り越える。

 そして——。


 廊下の端、肩越しにブルットさんが息を飲むのが聞こえた。

 破れた天井。

 月明かり。

 ブルットさんの持つランプ。

 そこに照らされているのは……。


「嬢ちゃん、まさか、そんな」

 小声だった。

 囁くように、信じられないものを見るように、ブルットさんの目は大きく見開かれていた。


 ぼろぼろの黒い毛が月明かりに照らされている。

 がりがりに痩せた体には背骨が浮き上がり、鼻は乾き、目頭には目やにが固まり、その上を点々と白い蛆がうごめいていた。

 辺り一面にはどす黒い血がこびりつき、蠅が集り、強烈な腐臭がした。

 

 ごくりと息をのむ。

 生きているようには見えなかった。

 本当に、生きているようには全然見えなかった。


「……推測も交えながらですが、ここで起きたことをお話します」

 できるだけ、声が平板になるようにしながら言う。


「ここ、ゴルビンドの森の廃墟にて、銀級冒険者シキ・カラードの死体を発見しました。今見てもらっている通り、その死体は使い魔であるクロにずっと守られていました。……きっと、離れたくなかったんでしょうね。テリア村で聞こえた魔物の遠吠えは、クロの慟哭であったものと推察されます。野生の魔物に比べれば、クロはずっと強い魔物ですから、突然の咆哮に驚いたゴブリン等の弱い魔物類が慌てて逃げだして村に流れ込んでいたんでしょう。でも大丈夫です。もう、クロがここで遠吠えを上げることはありません」


「そんな、なんちゅう……じょ、嬢ちゃん、それじゃあ……」

 ブルットさんがふらふらと前に出る。ランプの火が、まるで生きているみたいにクロの影を振るわせる。「……シキさんは……クロは……」


「ブルットさん!」

 思わず、部屋の中に入ろうとする背を掴んで引き戻した。

「どうか、そっとしておいてあげてください」

 その言葉にブルットさんははっと息を飲んだ。


「……クロ、すごく痩せているのわかりますか? ほら、こんな暗闇でも骨と皮だけになっちゃってるのがわかりますよね。きっとほとんど飲まず食わずでシキを守り続けたのでしょう。山と積まれたゴブリンの死体を見るに、腐肉でわずかばかり飢えを満たしていたんでしょう。私がこの廃墟に踏み入れた時点で、クロは半分死にかけでした。私が依頼を受けなくても、多分、そのまま息絶えたと思います。それでも依頼でしたから、クロに対して剣を抜いたことは確かです。クロの……シキの使い魔としての生に、とどめを刺したことは事実です。クロがみなさんに危害を加えることは、もう二度とないでしょう。……そんな顔しないでください」


 報告を聞きながら、ブルットさんは唇を噛みしめていた。その目に涙を浮かべ、苦悩するようにこめかみに手を当てていた。


「……すまねえ。魔物がクロちゃんだって知ってたら、俺ぁ……俺たちは……そしたら嬢ちゃんは一緒に過ごした仲間を手にかけずに……。森番と言いながら、魔物の正体を自分で探ろうとしなかったばっかりに……」


「言ってたじゃないですか。ブルットさん、腕っぷしは全然なんでしょう? そういうのは、私たち冒険者の仕事です」

「だがな……」


「それに、私もずるいんです。本来ならクロの魔石を取り出して討伐証明にしなきゃいけないんです。でも私には、これ以上クロを傷つけることなんてできなかった。もうクロは十分辛い思いをしたでしょう。せめて安らかに眠ってほしい。それなのに冒険者として、依頼の達成率を気にしてる。……だからブルットさんにこんな役回りを押しつけたんです。私が討伐したことを、ギルドで証明してもらうために。クロの毛を裂いて、魔石を取り出さなくてもいいように」


「押しつけるなんてとんでもねえ」

 ブルットさんが目をぎゅっとつぶると、涙が一滴、頬を伝った。

「村の奴らだって、みんなシキさんのことは好きだったんだ。クロの首を切ってほしいなんてだーれも思っちゃいねえよ。……本当にすまなかった。嬢ちゃんが一番辛いのにな……。ギルドには喜んで俺が宣誓しよう。王国直轄領森番、ブルット・ガロウが間違いなくこの目でクロの討伐を確認したと」


 ブルットさんはランプを掲げ、ふと後ろを振り返った。

 廊下の端からでもクロの山のような姿が見える。

 そのお腹に抱かれるように、シキの死体が見える。


 死体は腐食が進んでいて、ブルットさんにはそれがシキの死体かどうか判断がつかないだろう。

 でも胸元に置かれた銀級の冒険者証は、確かに、その死体がシキのものであることを物語っていた。


 ブルットさんの手が揺れ、ランプの灯りが揺れる。

 それに合わせて、廃墟の中の影も揺れる。

 蠅が飛び立ち、クロの体についた蛆やノミが遠目からでもうごめいている。

 痩せきったクロの体。艶の消えた毛。鼻を刺激する死臭。


 その時、まるで痒さに耐えきれなくなったように、クロの耳がぴくりと動いた。

 

 おい、バカ。


「こうして影が揺れていると——」

 ブルットさんが小さく、ため息を零すように言った。「あのわんこくんが今でも生きて、動いているように見えるな」


 ぎくりと唾を飲む。

 ブルットさんが探るように、ランプの火をさらに掲げた。

 クロはそろそろ限界が来たのか、ぴくぴくと耳がまた動き、またブルットさんが少しだけ怪訝な顔をする。

「本当に生きているみたいだ」


 ほら、あと少しだから。

 もうちょっと頑張れって。

 クロが生きてるってバレたら大変だろ。


 まあ、でも、クロにそこまでの演技を求めるのは酷か。

 化けるのに慣れている俺でも、うまく誤魔化せている気がしないもんな。


「……そうだといいですよね」


 ああ、真面目な顔を作るのってこんなに難しかったっけ。

 泣きそうな顔をするのって、こんなに大変だったっけ。


 仲間を殺したばかりの冒険者にならなきゃいけないのに、油断すると笑ってしまいそうになる。

 クロがまだ生きているということに、どうしても頬が緩んでしまう。

 また一緒に冒険ができるということに、どうしたって浮かれてしまう。


 ああ、良かった。


 クロはまだ、生きている。

 まだ、息をしてくれている。

 きっと、また一緒に旅に出られる。


「私も……私もクロにはずっと、ずっと生きていてほしかったんです」


 嘘ではない、心の底からの真実。

 魔法にかけられても絶対に見破れない本心。


 肩が震え、無性に顔が緩んで、ついでに一滴、涙がこぼれた。


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次回が第一章「使い魔の孤独」最終話です。

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