18
干し肉を咥えた瞬間、脳に突然衝撃が走ったような気がした。
固い繊維を噛み切ると、体のどこにこんなに水分があったのかわからないくらい、洪水のように唾液が押し寄せた。
かちこちの干し肉がふやけて味が溶けだし、そのすべてが舌をびりびりと刺激した。
干し肉ってこんなに美味しかったっけ。
こんなに美味しいもの、この世にあったっけ。
森で見つけた肉の欠片より、冒険が終わるたびにシキが買ってくれた串焼きより、ぼくが今まで食べてきたどんなものより、ギンの手から奪い取った干し肉は脳を貫くほどに強烈な味がした。
飲み込んだ干し肉が喉を滑っていく。
胃が戸惑ったようにぎゅうっと縮みこむ。
そして途端にお腹が痛くなった。
「あ」と思った瞬間にはもう遅かった。
胃液が逆流し、びしゃりと音を立てて地面に落ちる。
「うわ」と慌てて飛び退いたギンの足に、思いっきり吐瀉物がかかった。
酸っぱいにおいが、もわっと広がり蠅がたかる。
「わ、わざとじゃないんだけど……」
やっちゃったと、ぼくは頭を下げてギンを見る。「ちょっと耐えきれなくて……」
怒ったかな。怒るよね。
でもギンは目を大きく丸めたまま固まった。
それから狼狽えたように「ちょ、ちょっと待ってろ!」と言い置くと、ばたばたと駆け出していった。
「すぐ戻るからな!」と入り口から叫んだ声が、バカみたいに大きく廃墟に響いた。
「それまで死ぬなよ!」
死なないよ。
ギンの足音が廃墟から消えていくのに耳を澄ませながらぼくは息をついた。
あんなこと言われて、死ねるわけないじゃん。
シキには、ぼくの知らない過去がある。
隠し続けて、隠し続けて、そのうちに少しずつほころびていって、そして亡くなってしまった。
ギンの言葉は、きっと正しい。
ぼくはきっとシキのことをよく知らない。
ぼくらはずっと、シキを知ろうとしないままだった。
このままじゃ、きっと天国でシキに会えても、心の底から喜ぶことはできないような気がする。
でもギンの言葉には間違っていることもある。
たとえば、ぼくと出会った時のシキが子どもじゃなかったのは、町に入ってすぐに気がついた。
そりゃあ、ぼくが出会ったはじめての人間はシキだったし、最初は子どもなのかなって思ったけれど、それでも町の人間もギルドの人たちも全員同じように小さい背丈なんだから、さすがに気づく。
それでもぼくがシキのことは全部知っていると思ったのは、シキの境遇に自分を重ねてしまっただけなのだ。
家族に見捨てられ、家を追い出された後は、途方に暮れていたのだと。
空腹を誤魔化し、孤独に震えながら彷徨っていたのだと。
辛い日々を耐え凌ぎ、そうして運命の糸に惹かれるようにぼくらは出会ったのだと。
そう思い込んでいただけなのだ。
そう思いたかっただけなのだ。
シキのこと、大好きだったから。
そんなところまでぼくと一緒であってほしかったのだ。
でもさ、ギン。
やっぱりぼくは、シキがテイム魔法を使ったのはあの時がはじめてだったと思うよ。
ぼくがはじめての使い魔だったと思うよ。
ギンの話の方が筋は通っているかもしれない。
魔力が発現していたのはもっとずっと前かもしれない。
でもシキはあの時、テイムができたことに本当に驚いていた。
ぼくと会話ができたこと、本当にびっくりしていた。
テイムができたこと、本当に嬉しそうだった。
それとも、これもぼくの思い込みなのかな。
ぼくが最初の使い魔であってほしいだけなのかな。
シキの一番目が、ぼくであってほしいと望んでいるだけなのかな。
わからない。
シキのことはわからないことばっかりだ。
この世界に隠されたシキの過去を紐解くまでは、シキのすべては霧の向こうに隠れている。
少しだけ体を動かす。
輪郭の失われたシキが、ぼくの体に当たって少しだけ位置がずれた。
まるで生きているみたいに、寝返りを打つみたいに、シキの死体が揺れる。
破れた皮膚がガスを漏らす。肋骨が見える。その奥に、ぎらりと光るものが見えた。
シキの魔石だった。
特別なものではない。
人間でも魔物でも、この世界に生を受けたものなら誰もが持つ、魔力を司る器官。
死してなお、失われることのないこの世に生を受けた証。
ぼくとシキを繋げていた魔力の源。
ぼくの体の奥にある魔石まで繋がっていた源泉。
今はもう、シキの子ども時代と同じように、わずかな魔力さえ発することもない。
よく見るとシキの魔石は、ちょっとだけひび割れていた。
きっとシキが生まれたその瞬間から、ひび割れていたのだろう。
だからシキは魔力がなかった。
ひび割れたままうまく魔力を扱う方法を身につけるまで、ずっと。
でも、このひびがなければ、ぼくらは絶対に出会わなかった。
この魔石は、一体どんな道のりを歩んできたのだろう。
ぼくはまだ知らない。
やがて、また廃墟の門がぎぃっと開く音がした。
ばたばたと足音が響く。ちゃぷちゃぷと水の音がする。
「クロ! 生きてる!?」
そう言いながら、ギンがバケツを両手に走りこんできた。
少年姿だとバケツが重かったのか、いつの間にかまた「ライラ」の姿に戻っている。
大剣を担ぎ、髪を長く伸ばし、よっぽど慌てていたのか手も足もバケツの水を零したのかびしょびしょに濡れていた。
「そんなすぐ死なないよ」
「良かった」
ギンはそう笑って、どんとぼくの前にバケツをふたつ、どんと置いた。
「俺たちが最後にキャンプしたところさ、もう食材とかは全部ゴブリンやらに食われてたけど、荷物はまだ残ってたからさ。バケツもあったはずだと思って」
そう言いながらギンは汗を拭う。
よっぽど急いで来たのだろう。
「飲まず食わずだったんだ。まずは水からはじめていかないと胃が受けつけないと思う。こっちのバケツには食べやすいようにパンをふやかして混ぜてきた。それでこっちには持ってきたドライフルーツとか入れてあるから、栄養もちゃんと摂れると思う。一種類だけだと味に飽きちゃうと思うからさ、まあ交互に飲んでよ」
ギンってこんな優しかったっけ?
ぼくは思わず首を傾げた。
ちょっとムカつくし、口は悪いし、シキの財布を盗もうとしたし。
なんなら、ぼく、ギンにちょっと怖がられてたり、嫌われてたような気がするんだけど。
違ったのかな?
初対面で思いっきり背中踏みつけちゃったのにな。
「水が飲めるようになってきたら、村に降りてミルクでも貰ってくる。そしたらパンを浸して食おう。慣れてきたらスープも食えるようになると思うし、外に生えてるヒスイモリとかの魔力草を入れれば魔力もだんだん回復してくると思う。魔力が回復すれば動けるようになるのもすぐだよ。まあ干し肉が食べられるまでは結構時間がかかると思うけど……」
ライラ姿のギンはそう言いながら指折り数えていく。
まあギン、六年も一緒だったもんな。
六年一緒だったら、まあちょっとはぼくのこと、怖がらなくなってくれたのかな。
それなら嬉しいな。
これからふたり旅なんだから。
まだ「それからね……」と今後の計画を話すギンの姿を見ながら、パン入りのバケツの水に口をつけてみる。
「うわあ……」
どろどろとして、さっき吐き出してしまった干し肉と比べてひどい味がした。
いくら料理をシキに任せきりだったからといっても、この味はひどい。
バケツから染み出た鉄の味と、その辺の石ですりつぶしたようなぶよぶよのパンが絶望的に合わない。
実はギンって、ひどい味音痴なのかな。
あり得る。
冒険者生活中も、カビの生えたパンとか平気で食べてほかの冒険者に引かれてたし、そうじゃなくてもギン、スラム出身だしなあ。
出会った時なんて、普通に生ごみとか食べて暮らしてそうな見た目だった。
じぃっとライラの姿を見ていると、ギンと目が合った。
「どう? 食べられそう?」
ギンがどこか期待したような目で見てくる。「ちゃんと食べやすいように、時間かけてしっかり混ぜてみたんだけど……」
うん、ギンとのふたり旅、ちょっと不安かもしれない。
できるだけ料理はしないでもらおう。
宿のある場所に泊まるか、誰かほかの冒険者を道連れにしよう。
そうだ。そうしよう。
でも、今は、まあ。
「ゴブリンの倍くらい美味しい」
ぼくがそう言うと、ギンは「良かった」とちょっとほっとしたように笑った。
褒めてない。
そう思いながら、ぼくはドライフルーツ入りの水を飲む。
もはやドライフルーツが入っているのか腐葉土を混ぜてきたのかよくわからなかった。
「よし、全部飲んだな」
半日かけて涙目になりながら流し込んだのに、ギンは満足そうに笑った。「もう少し欲しい? 作ってくるけど」
「やめて」
ぼくは慌てて首を振る。「ねえギン、多分、ぼくが作った方がまだ美味しいと思う」
通じないのをいいことにそう言ってみると、ギンは「やっぱり胃がすごく小さくなってるなあ」と不安そうにぼくを見た。そういう問題じゃない。
「体、まだ動かないよな?」
「まあちょっとは動かせるけど」
頭を少しだけ振り、足に力を入れる。
その瞬間、関節という関節が悲鳴を上げた。
激痛に力を抜く。
動けたのはほんのちょっと。
体ひとつ分も動かせなかった。
ああ、ひどい。
数か月、ずっと同じ体勢で過ごしてきた。
筋力という筋力は溶け、関節という関節が固まっていた。
「どうやらしっかりリハビリしないとだめみたいだな」
ギンがしみじみ言った。「冒険に出るまでは長くかかりそうだ」
さっきまで、死にかけだったんだ。
バケツの一杯二杯飲んだところで、ほとんど死んでいるみたいなものだ。
「魔力が戻ればギンの影の中で運んでもらえるようになるけどね」
「そんなに急ぎの旅じゃないから、ゆっくりやっていこう。ちゃんと動けるようになってからの方がいいだろ」
見上げれば日は傾き、赤々とした夕焼け空が頭上に広がっている。
「ライラ」の金髪が暮れの空になびき、背負った大剣の柄は鈍色に反射していた。
「それにクロが動けるようになる前にやらなきゃいけないこともあるしな」
「やらなきゃいけないこと?」
ギンはそのまま大剣を引き抜く。
銀色の刀身が赤くきらきらと光った。
綺麗だ。そう思った。
剣を構える姿も、すごく様になっている。
この六年で、ギンは大剣まで完璧に化けられるようになった。
迷いなく、剣も振るえるようになった。
魔剣のライラ。
細い腕で扱うにはあまりにも巨大な剣を振るい、魔獣を吹き飛ばし、ダンジョンを攻略していく姿から畏敬を込めてそう呼ばれている。
大剣を振るうたびに、タイミングを合わせて剣の影から手を伸ばして敵を吹き飛ばしている奴がいることを、ほかの冒険者は知らない。
「よし。じゃあ、クロ」
「ライラ」は片手で大剣を構え、髪を耳にかけた。
それからにやりと、いたずら好きな少年みたいな顔で言った。
「一回死のうか」
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