15


 本当のことを言うと、ずっとクロが怖かった。


 そりゃそうだろう。

 第一印象が悪すぎた。

 財布を盗もうとした代償とはいえ、突然影から巨大な犬が現れて、背中を思い切り踏みつけられて、唸られて、怖くなかったわけがない。


 シキにテイムされて、きちんと言葉が通じるようになって、クロって意外と子どもっぽいんだなってわかった後でも、やっぱりちょっと怖かった。

 俺がクロのことを怖いと思い続けているように、クロも俺のことを「財布を盗んだ奴」だと警戒し続けているような気がした。

 

 だからクロが俺を守るために影の中に潜んでいたと知った時、影から躍り出て冒険者ふたりを完封した時、首根っこを掴まれてものすごい速さで夜の森を駆け抜けた時、安心よりも恐怖の方が勝った。


 化けるのが得意だなんて言っていたのに、あんなに簡単に正体を晒して呆れられていたら?

「ライラ」は魔物だと冒険者たちにバレて、もうシキが二度と冒険者として活動できなくなったら?

 やっぱり俺なんて仲間にしなきゃよかったって思われたら?

 せっかく冒険者になってシキの役に立てるかもって思ったのに、やっぱり役立たずじゃないかって思われたら?

 そうやって、シキに捨てられたら?


 一度悪い想像をし出すと、止まらなくなった。

 不安で体が震え、涙が止まらなくなった。


——ぼくがずっと一緒にいるから。

 でも、クロはそう言った。

——いつでも一緒だから。なにがあっても、絶対、絶対、守ってあげるから。


 だから嬉しかったのだ。


 クロがそうやって約束してくれたことが。

 泣き続ける俺にちょっと慌てながらそばにいてくれたということが。

 クロが一晩中俺の涙を受け止め続けてくれたということが。


 目を覚ました冒険者たちを実際になんとかしてくれたのはシキだったかもしれない。

「調査の一環で使い魔を冒険者として紛れ込ませている」と吹き込み、「ギルドには内密に」と金を握らせ、秘密を守ったのはシキだったかもしれない。


 それでも俺には、シキが方々を走り回りバレないようにしてくれたことよりも、クロが根拠もなにもない約束をしてくれたことの方がずっと嬉しかった。


 シキに捨てられても、クロがずっとそばにいる。

 たとえ正体がバレたとしても、クロはずっと守ってくれる。

 シキがいなくなったとしても、クロだけはずっと一緒にいてくれる。

 それが本当に嬉しかったのだ。

 だから、だからさ——



「こんなの、約束と違うだろ」

 こぼれた声はひどく掠れて、廃墟に木霊した。



 腐りきった廃墟には死が満ちている。

 ゴブリンの死体から、シキの死体から、腐敗臭が漂ってくる。

 目の前に横たわり続けるクロの巨体からは強烈な死臭がした。

 鼻は乾き、血に汚れ、虫が這いまわり、でも動く様子もなくただ辛そうに息をするだけ。


 泣き腫らした目の周りにはひどくただれていて、その瞳は辛うじて俺の言葉に反応するように緩慢に動く。

 その白濁した目が俺のことを映しているのかは、もうわからなかった。


「ずっと一緒にいてくれるって、クロが約束したんだろ」


 きっと俺を泣きやませるためだけにとっさに口をついて出た約束だ。

 クロが覚えているとは思えなかった。

 でも言わずにはいられなかった。


「こんなの、嘘つきじゃん……」

 クロはなにも答えない。


 奥歯をぎゅっと噛みしめる。

 鼻を啜る音が響く。

 体の中を感情がぐちゃぐちゃに駆け回っている。


 体が震え、魔力が乱れた。

 目の端に垂れた自分の前髪が、いつの間にか銀色に変化していた。

「なんか言えよ」と凄む声はいつの間にかライラの声じゃなくなっている。

 ぎゅっと固く握りしめた拳が、涙を拭う手の甲が、ひどく小さく感じた。


 身長は縮み、背中から大剣がなくなっている。

 もう「ライラ」の姿を保ってはいられなかった。

 もともと俺の魔力を消費させようと無理やり作りあげた姿だ。

 クロやアカネが密かに助けてくれたから銀級に成り上がっただけの、嘘で塗り固めた姿。


 だから油断すると、いつもこんな少年姿になってしまう。

 シキに連れられて町を出てからもう何年も経つのに、今でも俺の正体はちっぽけなスリの少年で、ちょっと人間に化けるのがうまいだけの狐だ。

 

「なあ、俺、食べ物持ってきたんだ。ほら、干し肉とか干しぶどうとか……」

 少しだけクロの目がこちらを向いたような気がした。「あとほら、水もある。なあ、喉渇いただろ?」


 震える手を皿にして水筒から注いだ水をクロの前に近づける。

 だがクロはぴくりと鼻を動かしただけだった。


「ほら、いいから飲めよ……」

 だがクロは口を開けようとしない。

 ただ本当に微かに首を振り、ぼんやりと開けていた薄目が、少しずつ小さく閉じていくようだった。


 命の灯火は今にも尽きそうだった。

 この薄目が閉じてしまったら、もう二度と目を開けることはないのではと思った。


「なあ、ほら!」

 だから俺はそう言いながら、俺は無理やりクロの口を開けて、水を流し入れる。

 でもクロは飲み込むこともなく、ぼたぼたと冷たい水が顎の毛を伝った。


 まるでもう、生きていることを諦めたみたいだった。

 この世界にいることに疲れてしまったみたいだった。

 命のすべてを放棄して、クロは小さく息をつく。

 そうやって息を吐けば吐くだけ、クロの魂がこの世から失われていくような気がした。


「なあ、寝るなよ……! おい!」 

 クロの目が閉じていく。

 この世に別れを告げるように、本当にゆっくりとまぶたが閉じていく。

 少しずつ少しずつ目に光が失われていく。


 せっかくここまで来たのに。

 クロが殺されないようにライラとして依頼を受けた。

 テリア村での討伐依頼も即座に受注した。

 お腹を空かせているだろうって食べ物だって持ってきた。

 それなのに……。


 ごわごわになってしまった黒い毛。

 血に染まり汚れきった足。

 そうやって瘦せ衰えて、骨と皮だけになってしまった大きな体。


 もう食べ物も飲み物も口を通らないらしい。

 もう動くこともできなくなってしまったらしい。

 もう影に潜んで俺を守ってくれることもない。

 涙が止まらなくても、頬を舐めてくれることもない。


 約束してくれたのに。

 一晩中ずっと隣にいてくれたのに。

 もう、そばにはいてくれないらしい。


 今は朽ちていくのを待っているだけ。

 命が尽きているのを、待っているだけ。


 今更どうやったら、クロを連れ戻せる?

 どうやったら、クロが生きたいと思ってくれる?

 シキがいない世界で、どうやってもう一度動こうと思ってくれる?

 どうやったらまた一緒に冒険してくれる?


 ちらりとクロが抱きかかえる死体に目をやる。

 もう二度と喋らなくなった主人。

 なあ、どうすればいいんだ。どうすればクロを動かせる? 教えてくれ。

「なあ、シキ」

 ぼそりとつぶやいた。


 その時だった。


 閉じかけたクロのまぶたが、ほんの少しだけ持ち上がったような気がした。

 少しだけ、俺に興味を覚えたように目が大きくなったような気がした。


 いや、違う。

 クロは俺に興味を覚えたわけじゃない。

 俺の話を聞いてくれたわけでもない。 


 ただ「シキ」という言葉に反応しただけ。

 大好きな主人の名前に、びくりと体が動いただけ。


「……クロ、ずっとシキのこと守ってたんだもんな」

 そう続けてみると、やっぱりクロの目がぴくりと動いた。


 ああ、そうだ。

 そうだよな。

 クロの主人は、昔からシキただひとりだもんな。

 クロを動かせるのは、シキだけだもんな。

「大好きだったシキのこと、ずーっとここで守り続けてたんだよな」


 俺との約束は守ってくれないのに。

 俺の言葉にはもう耳も貸してくれないのに。

 こんな今際の際でも、シキの名前には反応してしまうくらい、シキのことが好きだったんだよな。

 俺との約束なんかよりも、死んだシキのことを守りたかったんだよな。

 でも、クロらしい。


「クロは子どもの頃からシキと一緒だったって言ってたもんな」

 別にいいよ。

 お前が俺との約束なんて、なんにも覚えていなくても。

 お前の走馬灯に、俺がほとんど登場しなくても。

 今のお前が、シキのことばっかり思い出していたとしても。

 いいよ。

 それでもいい。


 別にシキに勝てるなんて思ってないから。

 俺じゃお前のことを動かせないのは、もうわかってるから。

 悲しいけど、脅しても、蹴り飛ばしても、目の前で泣きはらしたって、俺じゃあお前を動かせないのはもうわかってるから。

 シキのことでしかお前は動かないって、もう知っているから。

 だから——。


「シキのことならなんでも知ってるって、ずっと言ってたもんな」

 息を吸う。

 もう届かないかも俺のことを届かせるように、肺いっぱいに空気を満たす。

 震える喉を整えるように咳払いし、唇を濡らす。

 口を開き、唇を形作る。

 そして拳を振り下ろすように、吐き出した。




「勘違いだよ」

——




 びくりとクロの目がはっきり開いた。

「全部、お前の勘違いだ」

 今にも眠りに落ちようとしていたクロの瞳が、突然ぎらりと輝いたような気がした。


「お前はシキのことなんて、なんにも知らない」

 もういいよ。

 クロに嫌われても構わない。

 なんでそんなこと言うんだって憎まれても構わない。

 クロが生きる力を取り戻してくれるのなら、俺は一向に構わない。


 それに本当のことだ。

 嘘じゃない。

 ギルドの中でだって誓える。

 俺も、クロも、アカネも——。


「俺たちは、シキのことをなんにも理解していなかった」

 

 クロが唸るような声を上げた。

 そうだ、叫べ。

 絶対に違うって、生きてもう一度叫べ。

 腹に力を入れて、生きる力を奮い起こして、違うって吠えろ。

 お前が吠えるたび、叫ぶたび、何度でも俺は否定してやる。

 淡々と事実を突きつけてやる。


 だって俺たちは、本当に、シキのことをなにも知らなかったのだから。


 優しいシキ。

 仲間想いのシキ。

 真面目で、気が利いて、でもどこか抜けていたシキ。

 面倒くさがりで、おっちょこちょいなテイマー。

 不死鳥のテイムに成功した、はじめての冒険者。

 俺が知っているのは、そういう姿だ。

 俺たちが知っていたのはそれだけだ。


 本当に?

 本当に、シキはそんな奴だったのか?

 

「もしクロがシキのことを本当によく知っているっていうのなら……俺の質問にも難なく答えてくれるよな?」


 少年の甲高い声が、廃墟に響く。 

 一歩足を踏み出す。

 土埃が舞う。

 血のにおいが鼻をつく。

 天空から、春の日差しが降り注いでいる。


「答えろよ」

 まるで悪役みたいに、スポットライトを浴びるみたいに、俺は両腕を広げ、牙をむきはじめたクロの前に立つ。


「シキは一体、どんな奴に殺されたんだ?」

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