14 後編
まずい、と思った時には遅かった。
慌てて口を閉じ、呼吸を止める。
発泡性の葡萄酒を開けた時みたいにスライム材がぽんと上空まで飛び上がり、中の液体が一気に空気中に拡散した。
空気中に一瞬にして広がった金属臭が、体をちくちくと刺激する。
途端にギンが倒れるように咳き込みだした。
背中を丸め、吐き気を我慢するように四つん這いになり、何度もえずきだす。
そして、次の瞬間だった。
「え?」
冒険者ふたり組の声が重なった。
大剣がぐにゃりと形を変えた。
ライラの金髪がきらきらと白く輝きだす。
ライラのうめき声に、少年の声が重なる。
狐のような犬のような唸り声が重なる。
身につけていた甲冑が白く染まる。顔を掻きむしる手に長い爪が生えはじめる。
体中が毛で覆われ、そして三本の尻尾がぽんと生え——
「魔物——!」
金髪が剣を抜いた。
ギンの首元めがけて、即座に振り下ろした。
その瞬間、ぼくは影から飛び出した。
剣士の驚いた顔が見えた。
だが不意の攻撃を防ぐ手立てはなかった。
剣士の横腹を力の限りぶん殴る。
ぐへ、と潰れたような音を漏らしながら、剣士は転がって木に衝突した。
動かないのを横目で確認した背後で、黒髪の体に魔力が溜まったのを感じた。
即座に苦しむギンの首根っこを咥え、飛び跳ねる。
たった今までギンがいた場所が、ばきんと凍りついた。
出現した氷柱を蹴って、暗がりに着地する。
ギンを離し、そのまま焚き火でできた影の中に飛び込んだ。
魔物除けの金属臭を我慢しながら、小さく息を吸う。
また黒髪が魔力を溜め込む気配がした。
影を走り、黒髪の背後に回り、魔力が練られきる前に飛び出して、足を引っ張った。
黒髪が転び、練った魔力がぶれる。
「ひっ!」
と怯えた声が聞こえると同時だった。
黒髪の後頭部を思いっきり強打した。
もがき苦しむギンの首根っこを咥えて、ぼくは走った。
シキに知らせなきゃ。
あの冒険者たちを、なんとかしなきゃ。
でもまずは苦しむギンを、魔物除けから離さなきゃ。
全力で殴りつけたのだから、あいつらはきっと朝までは目覚めないはずだ。
朝になるまでにシキに知らせれば、きっとなんとかしてくれる。
だから今はギンを——。
走って走って、とにかく走った。
街道を通り抜け、森を抜け、やがて小さな湖の畔に出た。
湖に向かって陸風が吹き、水面に映る満月が小刻みに揺れる。
うねるように木々がざわめき、冬を生き延びた枯れ葉が飛んで宙を舞う。
風が夜の森をごおごおと鳴らしていた。
ここまで来れば大丈夫かな。
そう思って、そっとギンを下ろす。
ギンはまだ小刻みにぶるぶる震えていた。
息は荒く、白い体が、三本の尻尾が、痙攣するように震えている。
どうしたらいいかわからなくて、ぼくは毛繕いをするようにギンの首を舐めた。
大丈夫って伝えるように、優しく、優しく舐め続けた。
でも、ギンの震えは全然止まらなかった。
背中を丸め、震え続けていた。
どうして?
魔物除けからは十分離れたはずだ。
体の魔力は十分戻ったはずだ。実際、ぼくはもう吐き気も感じない。
だけどギンの震えは止まらなかった。
どうしてだろう?
あんなに至近距離で魔物除けを吸っちゃったから?
それとも、本当はまだ生まれてから数年の仔狐だから?
どうすればいい? 水とかあげた方が良いのかな?
それともなにか魔物用の薬とかがあるのかな?
やっぱり一回シキのところに戻って——。
「……バレちゃった」
囁くような声が聞こえた。
風に流されてしまうくらい、本当に小さく、ギンがそう言っているのが聞こえた。
ぴたりと時が止まったような気がした。
思わず月明かりに照らされたギンの顔を見る。
ギンの目元の毛が、ひどく逆立って濡れていた。
「絶対、バレちゃだめだったのに……」
また掠れたような声がした。「ごめんなさい……」
その言葉を皮切りに、ギンの目からぼろぼろと涙がこぼれだした。
「バレたらシキが困っちゃうのに……化けるくらいしか役に立てないのに。やっと役に立てると思ったのに……」
一言一言喋るたび、ひっく、ひっくとしゃくり上げる声がした。
風がうるさく、湖面を打っている。
満月が夜の天頂に達している。
スリに失敗して捕まえた時にも、ギンは泣かなかった。
魔力切れで変化が解けた時も、泣きはしなかった。
それなのに、今は「ごめんなさい」と繰り返しながら、体を丸め、止めどなく震えるほど泣いていた。
目元を舐めてやるとひどくしょっぱくて、どれだけ舐め続けても涙がこぼれてきた。
「あの、えっと、大丈夫。きっとシキがなんとかしてくれるから」
なんて言っていいのかわからなかった。
でもとにかく、落ち着かせるように、泣きやまない弟を寝かしつけるように、ぼくは言った。
「でも、化けることもできなかったら——」
もういらないって、捨てられちゃうかも。
ギンは小さく言って、また泣いた。
——俺の力が必要だから仲間にしたんだって言ってたもん。
——だから化けられなかったら、もういらないって言われちゃうかも。
ギンはしゃくり上げながら、うわごとみたいに言い続けた。
シキはそんなことしない。そう思った。
絶対にしない。
ギンを置いてどこかに行っちゃうなんてこと、絶対にするわけがない。
ぼくらを置いてシキがいなくなるなんてこと、あるわけがない。
でも、泣いているギンにそんなことを言ってなにになる?
ここにいないシキの話をしてなにになる?
だから今言うべきは——。
「ぼくがずっと一緒にいるから」
約束するように、ぼくはそう言った。
「いつでも一緒だから。なにがあっても、絶対、絶対、守ってあげるから」
だから、ねえ、お願いだから早く泣きやんで。
やがてギンが寝息を立てはじめるまで、ぼくはずっと、ギンの涙を拭き続けた。
舌が毛で真っ白になるくらい、長い時間そうしていた。
ギンがぼくたちの前で狐姿を見せはじめたのは、それからすぐのことだった。
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