13 前編

 シキにテイムされて数日、はじめて生まれた町を出た。


 町の門から延びる道は、遥か先までまっすぐに踏み固められていた。

 青空に照らされて道路脇の草は青々と茂り、たんぽぽは柔らかく咲き乱れている。

 振り返れば、生まれてすぐ親に捨てられ、スラムの子に化けて過ごしてきた町が少しずつ小さくなっていくのが見えた。


 楽しかった思い出があるわけではない。

 だからといって辛かったという実感もない。

 ただそこで生きてきたというだけの町だ。


 朝もやの薄暗さと休息日のゴミのにおい。

 まだ化けられない頃に一緒に寝た野犬たちの温かさ。

 リンゴをたっぷり台車に乗せて客を呼び込む果物売りの声。

 野犬と子どもしか通れないくらい狭い裏道。


 背後に残していく町に比べて、目の前に延びる道はあまりにも眩しく、まっすぐだと思った。

 まっすぐすぎて、シキの手をぎゅっと握っていないと動けなくなってしまいそうだった。

 はじめて歩く道に、化けたままの手のひらはひどく汗ばんでいた。


 ここ数日ははじめての連続だった。

 そのすべてが新鮮で、戸惑うことだらけだった。

 誰かと話すのも、口に運ぶ食事が温かいのも、道の真ん中を歩くのだって、全部はじめて。

 すべてが今までの暮らしとあまりにもかけ離れていて、すぐに邪険に追い払われるんじゃないかと気が気じゃなかった。

 

「この部屋、ベッドひとつしかないんだよね……俺と一緒だけどいい?」

 初日にそうシキに促されたベッドはふかふかで、真っ白なシーツが眩しくて、自分の体で汚してしまわないものかと緊張して一睡もできなかった。


 もちろん宿屋に着くなり、体は念入りに洗ってもらった。

 宿屋の庭で少年姿のままお湯を浴びせられ、腕まくりをしたシキに石鹸でもみくちゃにされたのだ。

 長年の汚れのせいで石鹸はまるで泡立たず、宿の主人に頼んで作ってもらった大きなタライ一杯のお湯はあっという間に真っ黒になった。


 石鹸で体を洗うのなんて、もちろんはじめてだった。

 そもそも水浴びだって滅多にしなかったのだ。

 ゴミやら下水やらと隣り合わせで生活し、たまに降る雨水が唯一のシャワー。

 人間に化けているとはいえ、実際は毛に包まれた狐でしかない。

 ノミもシラミも体中に巣くっていたし、今思えば、多分ひどいにおいだったのだろう。

 

 シキは根気よく石鹸を泡立て、宿に追加料金を払って二杯、三杯とお湯を貰ってきて、行商人から買ってきたノミ退治用の魔法薬を数本振りかけてきた。

 そのうち少しずつ体が石鹸のにおいに包まれはじめた。

 そのにおいに、何度も何度もくしゃみが出た。


「よし! 完璧!」

 やがてシキはそう言って、最後の一杯を頭から浴びせてきた。「綺麗な銀色だ」

 その言葉に足元に広がった水たまりを見れば、輝くような銀髪が映っていた。


 ああそうだ。こんな髪色だった。

 こんな髪色に化けていたことを自分でもすっかり忘れていた。

 確か町歩きしていた貴族の子を真似たのだ。


「ふうん、なかなかセンスがいい化け方をするじゃない」

 屋根の上から遠巻きに様子を眺めていたアカネが感心したように降りてきた。

「それでシキ。この子の名前は決めたわけ?」

「うん、ギンってのはどう?」


 安直な名前だと思った。

 髪色をそのまま名前にしただけ。

 しかも化けているだけの、本来の生まれ持った毛の色ですらない。

 それでも長く化け続けた姿から取られた名前は、なんだかすごく身に馴染んだ。


「ギン、ちょっとこれ持ってて」

 そうやって渡された柔らかいタオルで体を拭いていると、どうにも落ち着かなくなった。

 手のひらのにおいを嗅ぐと、ミルクみたいな甘いにおいがした。

 生まれてからずっと体にこびりついていた垢が取れてしまって、体のどこも痒くなくて、自分の存在まで薄められてしまったような気がした。

 

 不安に思ってシキの方を見ると、シキはきらきらした目をしてこちらを見ていた。


「おいクロ、アカネ! すごいぞ! ギンが自分で体拭いてる! すごい! まったく手がかからない!」

「そりゃあ人間に化けているんだからそれくらいできて当然じゃない?」

「ぼくはシキが拭いてくれるから別にいい」

「……見習ってくれ! クロ、今ならギンの爪の垢がタライ一杯あるぞ! 偉いなあ、クロなんか体洗うのも一日がかりだし、お湯だって百杯くらい使うし、拭いても拭いても文句ばっかりで一生乾かないんじゃないかと思うのに……」

「拭かなくても火に包まれば一発よ」

「そもそもぼくはお風呂なんて入りたくないもん」


 そうやってじろじろと見られるのが気恥ずかしくて、拭き残しはそのままに服を着た姿をイメージする。

 せっかく体が綺麗になったんだ、スラムの子の服は似合わないだろう。


 じゃあ白いシャツと革のチョッキ、膝丈のズボン。

 商人の子どもを思い描いて、体にまとわせると清潔な服がぴたりと体に貼りついた。

「おお……!」とシキもクロもアカネも、感嘆の声を上げた。


「すごい! クロ、アカネ、見たか? 洗濯いらずだ!」

「すごいけど、私も洗濯物なんて出したことないわ」

「ぼくも服なんて着ないもん」

「……あのね、ふたりはなんでも張り合わないと気が済まないわけ?」


 シキは大きくため息をついて、それから安心させるように俺に目線を合わせて笑った。

「でも、ギン、もう化けなくてもいいんだよ?」

 

 そんなこと言われても、化けるのをやめようという気にはならなかった。

 化けないでありのままの姿を晒すのは、裸で外を歩くようなものだと思った。

 あまりにも丸腰で、あまりにも無防備で、あまりにも恥ずかしかった。


 町では魔物だとバレたら殺されるのだ。

 寝ても起きても、人間姿でいることがあまりにも染みついていて、とても誰かの前で本来の姿を晒そうなんて気にはならなかった。


「うーん、でもこの姿のままで使い魔登録できるかな」

「できるわけないでしょ。この私が人間と見間違える魔力なのよ? いくらギルド内では嘘がつけないって言っても、絶対信じてくれないわよ。『あの、この人どう見ても人間なんですけど……一度化け狐の姿になってもらっていいですか?』って言われておしまいよ」

「そうだよね……。なあギン、ギルドの人に頼まれたら——」

「やだ」

 ぶるぶると首を振る。「絶対やだ」


「でも使い魔登録してないとさ、誰かに見られた時に困っちゃうんだよね。ほら、なにかの拍子に変化が解けちゃうかもしれないよね? 使い魔登録していない魔物を町中に入れたら俺が捕まっちゃう」

「大丈夫」


 そんなことにはならないと思った。

 いきなりクロに踏まれても変化は解けなかった。

 脅かされても、びっくりさせられても、どんなに痛くても、人間の姿でいることは染みついている。

 だから大丈夫。

 シキは困ったように「そっかあ……」と頭を掻いた。


 町から町へと歩いた。

 街道を渡り、森を抜け、山を越えた。

 町に着くと宿を取り、俺が留守番をしている間にシキはクロとアカネを連れてギルドの依頼をこなした。


 自分は足手まといなんじゃないか。


 宿の窓からひとり移りゆく季節を眺めていると、不安で仕方がなくなった。

 役に立つ魔法なんてないし、剣だって触ったこともない。

 影に忍び込んで情報を集めることもできないし、伝説の不死鳥とは比べるべくもない。


 できるのは、化けることだけ。

 ただみんなの後ろをついて歩くだけ。

 でもシキは一言だって文句は言わなかった。


「心配ないよ」

 眠れない夜には、シキはそう言っていまだに少年姿のままの髪をなでた。「その力は、俺に必要だもの」


 春は雨を連れてきて、連日の分厚い雲が切れると夏のにおいがした。

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