12


 ギンが来たのは、においですぐにわかった。


 廃館を歩く甲冑の足音で、今は「ライラ」の姿なんだと確信した。

 この人間みたいな魔力。

 こんなギルドを欺けるほどに人間みたいな魔力を持つものなんて、ギンしかいない。


 ずっと一緒にいたのだ。

 何年も一緒に旅をしてきたのだ。


 だからギンがゴブリンの血でずるりと滑ったのもすぐわかったし、「バカ」と連呼する声が涙声なのもすぐに気がついた。


 そんなにバカバカ言われる筋合いはないけれど……まあギンはシキの財布を盗もうとする悪い奴だったから口が悪いのはしょうがない。


 ギンと出会ったのは、今日みたいなぽかぽかした春の日だった。

 その日は「一部鉄級冒険者の犯罪調査」というギルド直々の指名依頼をこなしたところだった。


 調べてみれば恐喝だの、酒場での器物破損だの、裏依頼受注での脱税だの、なんだか妙にげっそりすることのオンパレードで、宿に着くなりぼくもアカネもすぐにうとうとしてしまったのを覚えている。


「いいよ、寝てな」

 シキはちょっと笑いながらぼくのお腹を背もたれにして、証拠品やら書類やらをまとめはじめた。

 この冒険者たちはきっと除籍だろうな。そう思った。

 ちょっと影に忍び込んだだけで、証拠は山というほど集まっていた。


「シキは寝ないの?」

「資料まとめて、ギルドに報告したら寝るよ。なんかもう、さっさとこの依頼を終わらせてしまいたい気分」

 書類から顔を上げることもなくそう言った。


 シキも眠いだろうに、人間って寝ないと決めたら頑張って起きていられるらしい。

 アカネなんて、もういびきかいて寝てるのに。


「じゃあぼくも起きてる」

「うん、まあ、無理だと思うけど……」

 シキにぽんぽんと優しくなでられると、すぐにまぶたが重くなってきた。

 

 ちょっとだけ目をつぶろう。

 寝ないけど。

 シキが寝るまでは起きてるけど……。


 そう思って、次に目を覚ました頃にはもう数時間が経っていた。


「あ、起こしちゃった?」

 ぽけっとして見れば、シキが鞄を肩にぷらぷらとかけて、屋台で買った安物のチェーンつき財布をポケットに入れたところだった。


「俺、ギルドに報告してきちゃうけど、クロは寝てる?」

「……行く」


 でもまだ眠くて、なんだか夢の続きにいるみたいで、ぼくはとぷん、とシキの影に沈み込んだ。


 温かいお湯に浸かっているみたいに、シキの体温が体を包み、ドアを閉める音とか、鍵を掛ける音、宿屋の主人にかける笑い声がぼわぼわと何重にもなって聞こえてきて、ぼくはまたまぶたを閉じた。


「……アカネも眠いなら宿で待ってても良かったのに」

 影の外からそんな言葉が聞こえてきて、ぼくはふっと目を覚ました。


「まったく油断も隙もないんだから。クロとふたりでこそこそ出かけるなんて、どうせふたりで美味しいものでも買うつもりだったんでしょう」

 アカネの気配。

 どうやらアカネも飛んできたらしい。


「いや、食事に出たわけじゃないし、なにも買わないよ? ギルドに依頼達成の報告しにいくだけ。クロもついてきたけど結局影の中で寝てるし……」

「……でも私、眠い中わざわざ飛んできたんですけど」

「うん、だから寝てなって」


 でもこれでみんなそろったから、きっとシキ、なにか買ってくれる気がする。

 影の中でぼくはそう思った。

 日も少しずつ傾いているみたいだし、「ちょっと早いけど夕食にしようか」ってすぐに声をかけてくれる気がする。

 そう思ったら、突然、眠気よりも空腹が上回ってきた。


 そろそろ外に出ようかな。

 でも、突然出たら町の人を驚かしちゃうか。

 顔だけ出してみようかな。 

 そう思った時だった。

 

 シキに近づいてくる気配を感じた。

 見れば、薄汚れた小さな男の子がこそこそとシキとの距離を詰めてきている。


 スラムの子だろうか。黒ずんで服を身にまとい、肌も薄汚れている。

 銀髪は埃でがちがちに固まり、灰色みたいに見えた。


 最初に出会った時のシキも薄汚れていたけれど、それよりもずっと変なにおいがした。

 男の子は影を踏むように、シキの背後を歩き出す。


 物乞い、かな?

 そう思った。

 でも、それにしては妙にこそこそしている。

 シキの袖を引っ張ってお金を要求してくるような仕草もない。


 その時、男の子の手のひらになにか光るものが見えた。

 あれはなんだろう。……ペンチ?


 男の子は注意深く周囲を確認し、シキの財布に目をやったと思うと、一瞬の隙をついてチェーンをぱちりと切断した。

 男の子の指がシキの財布に触れた。

 

 その瞬間、急激に頭が覚醒した。


 ぼくたちのお金!

 ぼくは全力で影から飛び出した。逃げ出そうとした男の子の背を思いっきり踏んづける。

 「うぐっ」と男の子が潰れたような声を上げ、財布が手から転げ落ちた。


 ひどく小さな背中だった。

 ぼくの前足で簡単に押さえつけられるような、これ以上力を入れたら折れてしまいそうなくらい小さな背中だった。


「うお、クロ! どうした!? あ、お前! 町の子に乱暴しちゃだめだって!」

「乱暴じゃない! だって、こいつが悪い!」

「落ち着けって! どうしたいきなり!?」

「こいつ泥棒! こいつ今、シキの財布盗ろうとした!」

「え、財布?」

 シキが首をかしげながらポケットをまさぐる。「あれ……?」


「そこに転がってるわね」

 アカネがそう言って翼を広げて降り立つと、道に転がっていた財布をこつこつと突いた。

「さすがね、忠犬クロ。お手柄よ。褒めてあげるわ」

「褒めなくていい! なんでアカネも気づかないの!」

「なんで私がいちいち近づいてきた人間に反応しなきゃいけないのよ。人間なんかいっぱいいるし、私は眠いの。シキ、財布くらい自分で守りなさい」


「でも俺、財布にはちゃんとチェーンつけてたんだけどな」

「……え、シキ、まさか思うけど、そんなチェーンで安心してたの?」

 思わずシキを見た。「ぼくが『えいっ』って力を入れたら簡単に割れそうな鎖なのに?」

「そんな鎖、ちょっと炎を吹きかけたら溶けちゃうと思うって私言わなかった?」

「いつものことだけど、アカネのたとえは強いのか弱いのか全然わかんないんだよなあ……」


 シキはのんきにそう言いながら財布をしまった。

 たった今盗られたばかりなのに、また尻ポケットに財布を突っ込んでいる。


「まあとにかく早く衛兵さん呼んできてよ! ぼく押さえてるから」

「え、面倒くさ……いいよ別に」

「いいから呼んできて!」

 どしどしと男の子の背中を踏むと、そのたびに「うっ」と呻くような声が聞こえた。


「わかった! わかったからクロ、あんまり力入れるなよ。可哀そうだろ!」

「全然可哀そうじゃない!」

「あ、シキ、ちょっと待ちなさい。衛兵は呼ばない方がいいかも」

「アカネまでなんで!」


 冗談じゃない!

 ぼくらのお金が盗られそうになったのだ。

 こんな奴、さっさと突きだしてやらないとだめだ!


 だがアカネは男の子の周りを何度か歩き回ってから「やっぱり」と納得したように頷いた。

「シキ、この子人間じゃないわ。ものすごくうまく化けているけど魔物よ。化け狐ね」

「え」

 シキが目を丸くしてアカネを見る。

 アカネは頷いて「多分、まだ生まれて間もない仔狐」とつけ加えた。

「こ、この子が!?」


「きっと魔力の質が人間そっくりすぎて親に捨てられたのね。それでスラムで人間のふりして生活してたのかしら。もともと化ける才能には恵まれた子なんだろうけれど……こうやって人間に化けちゃうと私でもわからないわね」

「すごい、全然気づかなかった!」


 ぽかんとぼくは前足の下の男の子を見た。

 これが、魔物?

 肉球に感じる背骨とか、伝わってくる魔力の気配とか、完全にただのスラムの子なのに?

 くんくんと嗅いでみるにおいも、人間みたいなのに?

 今にも泣きそうになっている表情とか、人間にしか思えないのに?


 まあ、本当に魔物だったらすごい。

 すごいけど、でも……。

「……関係なくない?」

 こいつ、シキの財布盗ったわけだし。


 シキは優しいから衛兵を呼ばなかった。

 野次馬たちを散らし、寄ってきた冒険者たちに手を振り、「ほらクロ、足どけて」と男の子を解放し、それどころか「お腹空いてる?」と安食堂を指さした。


 男の子はちょっとびくびくしながらも頷いた。

 本当にお腹が空いていたのかもしれないし、逃げないようにアカネが頭に留まっていたから渋々だったのかもしれない。


「いや、本当にうちのクロがごめん。マジでごめん」

 スープが運ばれてくると、シキは改めて深々と頭を下げた。「ほら、クロも謝って」

「なんでぼくが謝らないといけないの? こいつがいけないのに!」

「お腹空いてただけなんだよな」


「お腹空いてたからって、盗んでいいわけないじゃん!」

「いいわけはないけど……」

 アカネがこてんと首を傾けながら言う。「それを言うならクロ、この前『お腹空いた』ってシキの鞄から勝手に干し肉出して食べてなかった?」


「え、お前そんなことしてたの?」

「……あれは、ぼくが稼いだお金で買ったやつだから」

 あれ、なんだか分が悪い。

 そう思って、ぷいとそっぽを向く。


 男の子はぼくらの前で、パンを握りしめたまま固まっていた。

 目がきょろきょろとぼくらの方を動く。

 ぼくらがどんな会話をしているのかわからないから、不安でしょうがないのだろう。


「食べていいよ」

 シキが言うと、男の子はまた小さく頷いて、それから震える手でパンを食べた。


 見れば見るほど人間みたいだと思った。

 不安げに動く黒目も、パンを千切る指先も、椅子から浮いた足がぷらぷらと動くのも、全部人間みたい。


 きっとずっと人間を観察して、人間のように生きてきたのだろう。

 魔力なんて人間そのものだ。

 規格外揃いの冒険者たちより、よっぽど人間らしい。


「君は家族とかいるの?」

 シキがそう訊くと、男の子は首を振る。


「友達とか、仲間は?」

 また首を振る。


「そっか。ずっとひとりだったんだね」

「うん」


 ぼくが最初に人間の町に入った時なんて、怖くてしかたかがなかった。

 周囲から立ち込めるにおい、騒ぎ立てる喧噪、まっすぐ歩くこともできないほどの人混み。

 怖すぎてシキの影にずっと隠れて、冒険者ギルドでシキに呼ばれるまでずっと震えていた。

 そんな場所でひとりきりで、こんなに完璧に人間に化けられるようになるのは、どれだけ大変だっただろう。


 ぼくはシキに出会う前の森の中ですら、生きてくのに必死だった。

 辛くて、怖かった。

「ひとりは辛いよね」

 ぼくはぼそりと言う。

 伝わらないはずだと思った。

 ほとんど独り言みたいに呟いただけだった。


 でも男の子は、なにを感じ取ったのか「うん」と頷いた。


「俺もクロも、親に捨てられてさ。絶望的にひとりでさ。だから一緒だよ、俺たち」

 シキがぼくの顎をくすぐりながら言う。


 シキもぼくと出会う前は、生きていくのに必死だったのかな。

 この子みたいな生活をしていたのかな。

 十二歳で魔力がないと親に見捨てられたと言っていた。誰も味方はいなかったと、だから世間から隠れて生きるしかなかったのだと話していた。


 犬の八歳は十分に大人だけど、人間の十二歳なんてものすごく小さい。

 生きていくために、シキも同じように盗みを働いたのかもしれない。

 衛兵に捕まったことだってあるのかもしれない。

 衛兵を呼ぼうとしなかったのは、自分もかつて盗みを働いたことがあったからなのかな。


「ねえ、君、帰る場所はある?」

 シキの言葉に、男の子は黙った。

「……実はさ、そろそろ誰かパーティを増やそうかなって考えてたんだ。もちろん、君が良ければだけど……」


 パーティを増やそうなんて話、はじめて聞いた。

 だってアカネがいればたいていのことはなんとかなった。

 調査依頼の大半は、ぼくが影に忍び込めばいいだけだったし、二年前に伝説の不死鳥を仲間にしたおかげでシキの知名度は一気に上がり、貴族からの依頼も増えてきたところだ。


 まあ、貴族からの依頼の大半は「アカネを触らしてくれ」「譲ってくれ」みたいな依頼だけど……とにかく順風満帆だった。


 今更、誰か仲間を増やさなくても、ぼくらは全然困らなかったし、十分やっていけた。


 でもシキは、この子を仲間にすると決めたらしい。

 財布を盗もうとした悪い奴。


「それじゃあ、これからもよろしくな」

 そうシキが男の子に手を差し出す。

 男の子が手を握り返すと、シキの綺麗な魔力がその子の体を覆った。


「テイム」


 シキの声が優しく響いた。

 

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