11
半開きになった廃墟の鉄門に軽く触れると、ぎぎっと軋んだ音を立てて少しだけ門が動いた。
それなのに、中に入ろうという気にはまるでならなかった。
とにかく、この場所は異様だった。
地面にはゴブリンやオークが落としていったゴミが散乱し、虫がたかっている。
雲ひとつない青空を見上げれば、魔石喰らいと呼ばれるハゲタカの群れが叫ぶような奇声を上げている。
なにより耐えがたいのは、このにおいだ。
スラムのゴミ収集所でも、スケルトンの巣くう沼地でも、群れを潰した後のゴブリンの集落でも、ここまでのにおいはしなかった。
死のにおいだ、と思った。
生きるものの立ち入りを許さない、強烈な死臭。
「ライラの嬢ちゃん、俺ぁ……」
「ええ、ブルットさんはここまでで。道案内ありがとうございました」
ブルットさんの方を見ることもなく、素早くそう告げて大剣に手を伸ばした。
別に道案内などいらなかったのに。
慌てて逃げていくブルットさんの背中を見ながらそう思った。
ひとりでだって問題なく辿り着けた。
なにも知らなくとも空で騒ぐハゲタカたちを見れば、行くべき場所はすぐにわかった。
「森番として、この森のことは全部知っとくべきだからなあ」と言ってはいたが、森番としての責務に駆られたのか、話し相手が欲しかったのか。
最初は世間話に興じていたブルットさんも、次第に森の雰囲気に飲まれ、いつの間にかなにも話さなくなっていた。
——東の森に巣くっている魔物はきっとクロに違いない。
そう思って依頼を受注した。
でも……。
ごくりと生唾を飲む。どんどん鼓動が早くなっていく。
ここにいるのは本当にクロなのだろうか。
どう考えたって今まで触れてきたクロの気配とは違う。
こんな死臭を振りまくようなものが、クロであるはずがない。
ここにいるのは、もっと別の、たちの悪い魔物なのではないか。
思わず体が震えた。
魔力探知をしてみても弱々しい反応しかないように思えるのだけど、この強烈な気配を前にすると自分の魔力探知の方が間違っているような気がしてくる。
こんなことなら、安請け合いすべきではなかった。
東の森に巣くった魔物がクロかどうか、しっかり調査してから受けるべきだった。
「できる冒険者は事前調査を怠らないものです」とギルドの講習ではよく言われていたのに。
緊張を誤魔化すように、首から提げた銀級冒険者証を握りしめる。
怖くて、体が震えた。
本当は冒険者になんて向いていないのだ。
順調に銀級にまで駆け上がった今でもそう思う。
「冒険者登録してみない?」とシキに言われた時には「なれっこない」と思ったし、なんなら「なに言ってんだこいつ」とまで思った。
——俺が冒険者になれたんだ。だったら、お前もなれるって。
——その魔力ならきっと、魔力登録もできるって。
そう説得されて、「お願い!」と頼み込まれ、仕方なく冒険者になったようなもの。
別に力が強いわけでもないし、ものすごく頭が切れるわけでもない。
魔力の質も量も、その辺にいる村人となんにも変わらない。
特別なところなんてなく、果たしてこれ以上平凡な魔力って存在するのかなと思うくらいに平凡そのものだ。
「魔剣のライラ」なんて言われるけれど、ただのトレードマークのようなもので、別に剣術に優れているわけでもない。
ただシキと一緒に旅をして、シキの協力で銀級まで引っ張り上げてもらったようなもの。
手柄を譲ってもらいながら実績らしい実績を誤魔化して積み重ねてきただけだ。
冒険者なんて柄じゃない。
そんな感情は心の奥底に仕舞い込んで、自分でも誤魔化してけむに巻いているけれど、人目を忍ぶようにこそこそと暮らしていたあの時代から、なにも成長しちゃいない。
怖い魔物を前にしたら一目散に逃げだしたくなる時もあるし、震えが止まらなくなることもある。
どれだけ強がっていても、怖いものは怖いし、泣きたい時は泣きたい。
シキがいなくなってしまってから、どれだけ泣いたかわからない。
それでも——。
それでも、この依頼だけは、誰かに譲るわけにはいかない。
シキを失った今、この依頼を手放すわけにはいかない。
ちらりと背後を見る。
どこまで逃げていったのだろう、ブルットさんの姿は木々に隠れて見えなくなっている。
剣をそっと背に戻し、冒険者証を握りしめ、震えを落ち着かせるように息を吐く。
それから「よし」と自分を鼓舞すると、意を決して廃墟の門をくぐった。
玄関まで伸びる前庭は荒れ放題で、小さな噴水はからからに渇いている。
新月のたびに咲く魔力草——ヒスイモリの育つ庭は広く、真上から照りつける太陽に明るく輝いている。だが周囲を囲む高い塀のせいで、廃墟は妙に圧迫感があった。
しゃがみこんで、地面についたゴブリンやオークの足跡をなぞってみた。
地面の乾き方からすると、この足跡がついたのは一ヶ月以上前だろう。
足跡の先は廃館に向かっている。
だが、この廃墟を出ていく足跡はどれだけ探しても見つからなかった。
ゴブリンやオークが騒ぎ立てる声も聞こえない。
この廃墟に巣くう「魔物」は、少なくともオークを倒せるくらいの実力があるらしい。
ここにいるのはクロではないんじゃないかという疑念が、どんどん高まっていく。
万が一、戦闘になったら……勝てる相手ではなさそうだ。
逃げることすら難しいかもしれない。
高い塀はジャンプしてもとても越えられそうにない。
出入口はあの門だけ。
助けを呼ぼうにも、こんな奥深い森に頼れる人がいるはずもない。
唾を飲み、館に目を向ける。
廃館の玄関扉は粉砕されていた。多分、オークが吹き飛ばしたのだろう。
中を覗き込んでみると玄関ホールはひどく暗く、こんな晴れ間なのにぽっかりと闇が口を開けているようだった。
脈動を整えるために大きく息を吸う。
館から漏れ出た死臭と腐臭を合わせたような強烈なにおいに、思わずえずきそうになった。
だが、覚悟を決める。
肺を空っぽにするようにゆっくり息を吐き出し、飛び出そうになる心臓を押さえつけるようにして、そして、一歩を踏み出した。
ぞっとするような光景だった。
ゴブリンの臓物が散乱し、血で濡れた床はぬるぬるしている。
墜落したシャンデリアに覆い被さるように、右手と左足を失ったオークが倒れている。
なにかから逃げようとして、そのまま力尽きたらしい、血が辺り一面に飛び散っていて、死出虫が血を吸うように体中を這いまわっていた。
蠅の羽音がうるさいくらいに耳をつき、強烈な腐臭が鼻腔を焼いた。
思わず息を止めた。
息を吸ったら、その瞬間に死が体中を満たしてしまいそうだった。
その時、ほんのわずかに、なにかが動く気配を感じた。
あっちだ。
あの、右側の部屋から聞こえた。
唇を噛む。
足が勝手に、右手の廊下を進む。
廊下の先、突き当りの部屋から明るい光が漏れてきていた。
漏れた光が、廊下に倒れたゴブリンの死体を逆光の中に照らしている。
血だまりに倒れるゴブリンたちは、どれも腹部を一噛みされていて、臓物が飛び出していた。
うっと吐きそうになったのを、ぐっとこらえた。
ゴブリンの山を飛び越えると、血でずるりと体が滑った。
その音に反応してか、廊下の先の部屋でなにかがまた動いた。
吐息が聞こえた。
乾いた鼻を鳴らすような、唸るような、規則的な小さな吐息。
その吐息に急かされるように、震える足に力を入れる。
また一歩廊下を進む。
かつん、かつん、と足音が反響する。
息を止め、耳元でうるさい鼓動を無視し、逆光に目を細めて暗い通路を歩く。
もうすぐ突き当りの部屋が見える。
あのゴブリンの山を越えれば。
あと三歩、もう一歩。
そして——。
まるですべての音が止まってしまったみたいだった。
崩れ落ちた天井から、冬の陽が降り注いでいる。
空気中の埃はきらきらと反射して輝き、無機質な壁がひどくまぶしく見える。
息をすることさえできなかった。
沈黙が体を縫いつけてしまったみたいに、その場から一歩も動けなかった。
誰も動かない。
なにも、動いていない。
ここが、この死の館の中心。
ゴブリンの死体がある。オークの死体も。
ハゲタカの羽根が床一面に散らばっていて、無数の骨まで転がっている。
すべてに虫が集り、蛆が食い荒らし、強烈なにおいを放っていた。
そして、その中心には人間の死体。
もう誰のものかもわからない。
目はなく、骨が露出し、溜まったガスが体を突き破り皮膚はただれ、破れている。
肉は腐り、輪郭は溶け、生命の痕跡はすべて失われている。
優しかった面影なんて、もうどこにもない。
——そっか。ずっとひとりだったんだね。
そうやって慰めてくれた声を発する舌はもうない。
——……実はさ、そろそろ誰かパーティを増やそうかなって考えてたんだ。
そうはにかむように笑った唇は、もうどこにもない。
——それじゃあ、これからもよろしくな。
そうやって差し出した右手は乾き、まとっていた優しい魔力はもう霧散している。
今も変わらないのは、ただひとつ。
隣に、大きな黒い犬がいること。
「クロ」
小さく呟いた瞬間、クロがぴくりと耳を揺らした。
きっとまだ聞こえている。
でももう、それ以上動く元気もないらしい。
痩せ衰え、自身もノミに食われ、蠅が集り、蛆が体をうごめいている。
空を舞うハゲタカは、今か今かとクロが死ぬ瞬間を待ちわびている。
ビロードのようになめらかだった黒い毛は、ごわごわで、血と砂にまみれている。
死臭がした。
この屋敷にある、どの死体よりも強烈なにおいがした。
弱々しく吐き出された息を浴び、息が詰まった。
耐えきれず細めた目の隙間から、クロの口元が見えた。
血で濡れた毛。
肉片。
何度も何度も、胃液を吐き出した跡。
そして、周囲に積み上がり、一噛みされたゴブリンの死体。
思わず胸が揺さぶられた。
「バカクロ」
そう言うのがやっとだった。「バカじゃん」
水なんてキャンプに戻ればいくらでも飲めただろう。
いくら実りの少ない森だって、オークやゴブリンよりマシなものなんていくらでもあっただろう。
そんなものを食べていれば、すぐに体力が尽きてしまうことくらいわかっただろう。
それでもクロは動きたくなかったのだ。
どんな目に遭っても、どんな姿になってしまっても、それで自分の命が尽きてしまったとしても、もう絶対に動かないって決めたのだ。
もはや誰のものかもわからなくなってしまったシキの死体の横から。
命の灯火が尽きてしまった主人の横から。
誰になにを言われようと、もうここから動かないと固く決意していたのだろう。
「バカ」
それしか、言う言葉が見つからなかった。
目の奥が熱くなった。
こんな姿のクロ、見たくなかった。
六年間ずっと一緒だった仲間がこんな衰えて、死にかけている姿なんて見たくなかった。
こんな死に際のクロになんて、会いたくなかった。
「バカだろ」
もっと早くここに来るべきだった。
いや、こんなことなら、あの時、力ずくでもクロを連れ出せば良かった。
あの日……シキの死体を目にした時、アカネが旅立っていった時、意地でもクロと一緒に廃墟を出るべきだった。
どんな手段を講じてでも、なんとかクロを動かすべきだった。
でも、後悔したってもう遅い。
第一、どうやってクロを動かすことができた?
蹴り飛ばしたって、クロは動じなかった。
なにを言ってもクロは動かなかった。
あんなに脅したのに。殺されるぞって言ったのに。
そうしたらもう、人間みたいな魔力しか持たない魔物に、なにができる?
人間に化けることしかできない魔物に、なにができる?
人間のふりして冒険者になっただけの化け狐に、一体、なにができる?
できるのはせいぜい、ほかの冒険者が討伐依頼を受けないようにすることだけ。
大切な仲間が、殺されないようにするだけ。
それなのに、今にも死にそうになっているなんて——
「バカじゃん」
そう繰り返した言葉に、クロが小さくなにか言った気がした。
もうシキの魔力はない。
だからクロの声は「ワン」とも「クン」ともつかないような音がしただけだ。
通じる言葉なんて、あの瞬間から、なくなってしまった。
それなのに——。
——うるさい、ギン。
クロの声が、俺にははっきり聞こえたような気がした。
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