10
「依頼人と話してる間、クロたちはここで待っててくれ」
そうシキの声がした瞬間、ぼくはまた夢を見ているのだとすぐに気がついた。
雲ひとつない、よく晴れた日だった。
太陽は高々と昇っていて、時折穏やかな風が吹いていた。
ぼくらは廃墟の前にいて、錆びた鉄門の隙間から青い花が風に揺れているのが見えた。
「待ってろって……そんなことできるわけないだろ」
ぼくの隣で、ギンが呆れたように吠えた。「相手がどんな奴かもわからないんだ。丸腰でなんて行かせられるわけないだろ」
丸腰どころか、昨日の下見で来た時の方がまだしっかりした格好だった。
シャツに革のジャケット。腰に差しているのは護身用としても物足りない中古の短剣。ジャケットからは染みついて取れない汗のにおいがした。
「そうかもしれないけど、依頼人が魔物嫌いみたいでさ。今までだって『使い魔を連れてこないこと』って指定してきた貴族だっていただろ? 覚えてる? レイクウォーク家の横領調査のやつとかさ」
「そういう奴は、密会場所に廃墟なんて指定してこなかったけどな」
「それにあの時はぼく、シキの影に隠れてたよ」
今回もそうすればいい、と思った。不意打ちで影から飛び出て引っ掻いてやるだけでも結構なダメージにはなる。たとえ防がれても、ひとりじゃないということは牽制にはなりそうだ。
「今回はクロも連れて行けないんだ」
「なんで?」
「あのなあ、横領調査の依頼を受けた時だって、飼い犬に吠えられて気づかれただろ? たまたま優しい人だったから許してくれたけど、今回もそうとは限らない。ちゃんと話を聞くためにも、あんまり警戒されたくない」
「こんなドがつくくらい怪しい依頼、ご破算になったって別に困らなくない?」
ぼくの頭の上に乗ったアカネも言う。「また宿に戻って、冬が明けるまで寝て暮らしましょ」
「もしかしてアカネさん、宿は無料だと思っていらっしゃる?」
シキがはあとため息をついておでこに手を当てた。「実はそろそろお金が厳しくて——厳しくてっていうか、君らが食べ過ぎというか——ここらで大きめの依頼を受けるしかないわけ。テリア村での依頼は報酬が食べ物とかばっかりで現金収入がないんだよ」
「だからってなにもこんな依頼じゃなくてもいいだろうが」
「まあそれを判断するのは話を聞いてからでも遅くないだろ? 大丈夫、なんとかなるって。ほら、護身用の剣もあるし」
「シキの剣術は頼りにならないと思う」
ぼくはぴしゃりと言った。
いつも持ち歩いているくせに、実際に武器として使っている姿なんて見たことがない。
知らない人からすれば『銀級冒険者が剣を持っている』だけで十分脅威なのかもしれないけれど、それ以上の効果はまるでない気がする。
多分抜いた瞬間に使い慣れていないのがバレる。
だがシキは「そうかなあ……」とへっぴり腰の素振りをしてみせた。「でもほら、ライラより良くない?」
「どこがだ」
ギンが鼻で笑うように言った。「『魔剣のライラ』を舐めるな。銀級冒険者だぞ?」
「実は俺も銀級なんですけど……」
「私に言わせれば、ふたりとも五十歩百歩だけどね。一回死んだくらいで死んじゃうなんて、修行が足りない」
「だいたいはそうじゃないかな?」
シキが苦笑するのに、アカネはなぜか勝ち誇ったように胸を張った。
「まあ剣の腕はともかく、いくつか護身アイテムは持ってきたんだ」
シキはそう言ってポケットからガラス製の試験管を取り出す。「催涙薬とか混乱薬とか。目くらましの発煙筒もあるし、魔物除けだって持ってるから、どんな事態でもなんとか逃げ出せると思うよ。だから大丈夫」
「相変わらず抜けてんのか、用意周到なのかわかんねえな」
ギンが呆れたように言った。「ある程度考えてんのはわかったけどさ、それでも俺はクロくらい影に隠しておいてもいいと思うけどな。安全策はあればあるだけいい」
「ぼくもそう思う」
そんなぼくの声に、シキは肩をすくめた。
「ひとりで大丈夫だよ。向こうにも事情はあるだろうし……ほらそんな顔すんなって。大丈夫、すぐ戻ってくるから」
シキはぼくの顎を掻きながら笑った。「あ、ついでに今晩の夕食にウサギでも取ってきてくれると嬉しいんだけどなあ。この前いいレシピを教えてもらってさ。楽しみにしててよ」
「そんなのんきなこと言ってる場合かっての」
「じゃあギンは食べなくてもいいです」
シキがそう言うと、ギンはためらうように少しだけ顔を背けた。
「ともかく俺は行ってくるから。クロ、アカネ、ギン。頑張ってみんなで協力して肉づきのいいウサギ、捕ってきてくれよ」
シキは気軽にそう言って、背を向ける。
本当に大丈夫かな。
そう思って、魔力探知をしてみる。
どうやらまだ『依頼人』とやらは来ていないらしい。周辺の森にも誰もいない。反応するのは庭の魔力草ばかりだった。
「転移魔法でも使えるのかしらね」
アカネも同じように魔力探知をしていたのか、ぼそりと小さくつぶやいた。
壊れたドアから滑り込む直前、シキが一度振り返ってぼくらを見た。
いつも通りの、にこやかな顔だった。冬の日を受けてシキの髪は栗色に輝いている。まぶしいのか優しく垂れた瞳を細めていて、はにかむような口元に八重歯が見える。髭を剃ったばかりの頬や顎の輪郭が少し丸いのは、ぼくらの食費に文句を言うくせに自分だっていっぱい食べているからだ。
「行ってきます!」
シキがそう言って手を振るのに、ぼくは尻尾だけ振って答えた。
それが、ぼくが見たシキの最後の姿。
ぼくらは言いつけ通り、のんきにウサギを狩り、そしてすべてを失った。
シキが最期に発した言葉を、ぼくは知らない。
最期になにを目に映して、走馬灯になにを見たのかもわからない。
走馬灯に、ぼくは登場しただろうか。
アカネは? ギンは?
ずっと一緒だったのに、シキの最期をぼくは知らない。
シキのことならなんだって知っていたのに、最期の瞬間だけが、すっぽりと抜け落ちてしまったようだった。
これからどんな冒険をするつもりだったのだろう。
冬が明けたらどこへ行くつもりだったのだろう。
どんな美味しいものを食べて、財布が空っぽになったら、どこへ向かう馬車道を歩くつもりだったのだろう。
知らない。
わからない。
なんで、シキが最期に会ったのが、ぼくじゃないのだろう。
なんで隣にいたのが、ぼくじゃなかったんだろう。
なんでシキは、連れていってくれなかったんだろう。
なんでぼくは、ついていかなかったんだろう。
また喉が熱くなる。
でももう泣き叫ぶ力はない。
出せるだけの声はもう出し尽くした。
涙を流せるほどの水分はもう、なくなった。
肉を咀嚼する力もない。
影に隠れられるほどの魔力もない。
鼻はからからに乾いている。
鼻先を舐めると、かさついてひりひりと痛み、自分の唾液のにおいに吐き気がした。
血の渇いたゴブリンのにおい。蛆のたかったオークのにおい。もう長くない体から漏れだしてしまった、生命のにおい。
気持ち悪い。
苦しい。
辛い。
あと、どのくらいシキの隣にいられるだろう。
いや、このまま死んだら、またシキと一緒に遊べるかな。
そうだといいな。
本当にそうだといい。
そう思って、また深い眠りにつこうと思った時だった。
ぎぎっと表の鉄門が動く音がした。
それから腐臭に混じって、懐かしいにおいがしたような気がした。
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