「ああ、シキさんね。ライラ嬢ちゃんの言う通りだ。来た来た。来たよ」


 ブルットさんは差し入れに持ってきた葉巻を美味しそうにふかしながら、なんでもないことのようにそう言った。


「いつも通り、不死鳥様たちも一緒でね。新年からこっちのいつだったか……ああそうだ。ありゃあ、二十二日の朝方だな。ちょうど今くらいの時間だった」


 思わず舌を巻いた。

 とうに隠居してもおかしくない年齢だ。

 前歯はガタガタで、吐息は煙草とアルコールを混ぜたようなにおいがする。


 実際森番小屋には酒瓶が転がり、床は書類で足の踏み場もないくらいだ。

 だがなるほど、仮にも王国直轄領の森番を長年任されているだけある。


「……すごい記憶力ですね」

「あのなあ嬢ちゃん、ジジイだからと舐めてもらっちゃあ困る。そうじゃなくたって、この冬、散々お世話になった冒険者を忘れるほど耄碌しちゃいないつもりだ。うちの屋根の雨漏りも急ごしらえで直してもらったからなあ。もちろん、お嬢ちゃんのことも忘れちゃいないぜ?」

 そう言いながらブルットさんは天井を見上げる。


 スノードームのように壁から天井までなだらかに繋がった土魔法製の小屋の頂点にはぽっかりと穴が開いていた。


 どうやら村の子どもがいたずらして開けてしまったらしい。

 建築魔法職人の予約が取れるまでの取り急ぎでいいから穴を塞いでほしいという依頼だったはずだ。

 だが、こんな春先になってもまだ予約が取れないらしい。

 シキが悪戦苦闘しながら固定したスライムシートがまだ張られていて、穴を塞ぐように太陽の光を緑色に染めていた。


「ま、私はシキが雨漏り直すところを『頑張れー』って見てただけですけどね」

「それで十分、お嬢ちゃんみたいな別嬪さんは一目見て忘れる方が難しいってもんよ。知ってるか? 村の男どもといやあ、この冬は酒場に行っちゃあ、お嬢ちゃんのことばっかりよ。さすがにシキさんのいい人に手は出さなかったみたいだがな」


「あはは、でも私、そういうんじゃないですよ」

 ブルットさんは「ありゃ、そうなのかい?」ときょとんと目を丸くした。


「てっきり俺ぁ、シキさんとライラさん、連れ合いふたりで組んでるパーティなのかと……」

「ふたり組なんて言ったら、クロに噛まれちゃいますよ。クロなんか小さい頃からずっと一緒みたいですから」

「違ぇねえ、あのわんこにかかりゃあ、俺なんてひとたまりもなさそうだ」


 ブルットさんはそう豪快に笑ってから、「おっといけねえ、世間話すんなら茶のひとつも出せって話だよなあ」と葉巻の火を消して立ち上がると、ふたり分の湯飲みを手に取った。


 湯飲みに乾燥茶葉を入れ、ポットから水を注ぐ。

 それから引き出しから取り出した火魔石に魔力を込め、そのまま湯呑に落とす。

 するとたちまち沸騰しはじめ、どこか磯の香りのような、深い新緑のにおいが辺りに立ちこめた。

 湯を吸い込んだ茶葉が、少しずつ開いて葉の形を取り戻していく。


「嬢ちゃんだって一緒に活動してだいぶ長かったんだろ?」

 スプーンで魔石を取り出し、蒸らすように茶葉が底に沈むのを待つ間、ブルットさんは言う。「あのわんこほどじゃないにしてもさ」


「そうですね。かれこれ六年ほどでしょうか」

 そう頷いて続ける。「もちろん、お互い冒険者ですから別行動も多かったですけど」


「確かに俺が最後にシキさんを森に通した時は、嬢ちゃんはいなかったもんな。だがな、そんだけ一緒にいりゃあ、どうだい、ちったぁ思うところもあったんじゃないのか? 俺の見立てじゃあ——」

「別にシキと恋仲になりたいなんて思ったことはないです。そんな顔しても本当ですよ。……なんていうか、その……ああ、そう、シキは家族みたいなものでした」


 そう言いながら、淹れてもらった茶をずずっと啜った。

 


 血の繋がった家族のことはよく知らない。

 生まれてすぐに親に捨てられたのだと思う。


 もちろん記憶なんてない。

 親の顔なんて覚えていないし、兄弟がいたのかもわからない。


 とにかく物心つく頃にはひとりでスラムにいて、息を殺し、気配を消すようにして生きていた。

 鼻が曲がりそうな悪臭の中、雨水を啜り、残飯をなんとか口に入れるようにして生を繋いだ。


 頼れる人なんていなかった。

 周りにいたのは気を許したら取って食われそうな強面ばかりだったし、みんな自分が生きるので手一杯のようだった。


 近づけこうとすれば追い払われて、手を差し伸べてくれる優しい人なんて誰もいなかった。

 雨風を凌げる場所はなく、食べ物は足りず、体は常に震えていた。


 暖を取るように野犬と一緒に寝起きして、元気に走り回る町の子の笑い声や、果物売りが客寄せに出す大声に耳を傾けながら、いつも今日死ぬんだと思っていた。


 辛うじて無事だったのは、足りないエネルギーを本能的に魔力が補ってくれたのかもしれない。


 気づきはしなかったけど……体が成長するのと同じように、少しずつ体内の魔力も大きくなっていったらしい。


 空腹で動けなかったある日、とうとう体の奥底になにかぐらぐらと熱いものがあると気がついた。

 その熱は自在に動かせるということもすぐにわかった。


 魔力の使い方なんて、習ったことなんてない。

 でも教わらなくとも、手足を動かすのと同じくらい当たり前に、魔力は思い通りに体を覆った。


 強い魔力ではなかった。

 だからといって弱いわけでもなかった。

 なんというか、人間のド平均みたいな特徴のない魔力で、でも自分の思い通りになる魔力は裏切らない味方みたいなものだった。


 体も魔力も育ち出すと、スラムの子どもを真似て見よう見まねで万引きやらスリやらができるようになった。


 最初は上手くいかなかった。

 心臓がばくばくして、手が震えて、真っ赤なリンゴを手に取った瞬間「なにしてる!」と店主の怒声が響きわたった。

 あまりの気迫に尻尾を巻いて逃げだし、でも奪い取ったリンゴは決して離さなかった。


 大事に食べよう。

 走りながらそう思った。

 でもスラムに戻った途端、リンゴは大人たちに奪い取られてしまった。


 それからはスラムに帰ることもせず、住処を点々としながらスリをして過ごした。

 大きな家の軒下、埃だらけの空き家の片隅、修道院の庭先で枝葉を広げるクスノキの下。


 家族もなく、友人もなく、ひとりきりで誰も信用せず、盗ったもので腹を満たし続けた。

 雨はいつも冷たく、太陽は常に喉を渇かせた。



 そいつは見るからにトロそうな男だった。

 ひとりで鼻歌交じりに歩きながら、肩の上に乗せた鳥に時々なにか話しかけては笑っていた。


 背は高くも低くもない。

 猫背気味で、無警戒に鞄を肩からぷらぷら提げている。

 腰に剣を差してはいたが、有能な冒険者には見えない。

 足だって速くはなさそうだ。


 ベルトからはすぐに切れそうな細いチェーンが尻ポケットまで伸びていて、財布のありかが一目でわかった。

 カモだと思った。

 それも特大の。


——アカネも眠いなら別に宿で待ってても良かったのに……

 息を殺して近づくと、男はひとりぼそぼそと話しているのが聞こえてきた。

 肩に乗せた鳥がまるで相づちを打つように「キュウ」と鳴いている。


——いや、食事に出たわけじゃないし、なにも買わないよ? ギルドに依頼達成の報告しにいくだけ。クロもついてきたけど結局影の中で寝てるし……


 また鳥が「キュウ」とどこか不満そうに鳴くと、男は「うん、だから寝てなって」と首を振った。


 変な男。

 そう思った。


 でも、鳥と話す不思議な男はまるで警戒心がないみたいで、背後まで忍び寄ってもまるで気がつかなかった。


 素早く近づき、手のひらに隠したミニペンチで素早くチェーンを切断する。

 それから指を尻ポケットに入れて抜き取り、背を向けて——。


 次の瞬間だった。


 ずどん、と背中にひどい衝撃を受けた。

 ひとたまりもなく倒れ込み、「ぐっ」と喉から変な声が出た。

 財布が手から転がり、息が止まった。


 ひどく重いものが背中を押さえつけていた。


——うお、クロ! どうした!? あ、お前! 町の子に乱暴しちゃだめだって!

 背後から唸り声がした。


 振り返ってみれば、巨大な真っ黒い犬が牙を剥いてこちらを睨みつけていた。

「ひっ」と声が漏れ、慌てて逃げようともがくと、ぐにっと余計に力を入れてくる。


——落ち着けって! どうしたいきなり!? え、財布? あれ……?

 目の前で鳥が羽ばたき、道に転がっていた財布をこつこつと突いて、また「キュウキュウ」と鳴いた。


——でも俺、財布にはちゃんとチェーンつけてたんだけどな

 その言葉に呆れたような鳥と犬の鳴き声が重なった。


 責め立てるように、犬がなにか吠えて、鳥がキュウキュウと騒ぎだした。

 周りに人が集まってきていた。

「え、なにあれ?」「テイマーだってさ」「なに、あいつスリってこと?」「あれ不死鳥じゃねえ?」「おい、誰か衛兵呼んでこいよ」


 逃げなきゃ。そう思った。今すぐ。

 このまま捕まったらきっと殺されちゃう。早く逃げないと。


 でも、背中にはまだ大きな前足が乗っていて、離してくれる気配はまるでなかった。

——え、こ、この子が!?

 やがて周囲から少し遅れて状況を把握したらしい男が、そう声を上げた。


——すごい、全然気づかなかった!

 財布を盗られかけてなお、そいつはきらきらと目を輝かせた。



 男はシキと名乗った。

——いや、本当にうちのクロがごめん。マジでごめん。ほら、クロも謝って!

 シキは衛兵を呼ばなかった。

 それどころか温かい食事を振る舞ってくれた。

 とろけるくらい美味しいスープと、いまだに夢に見るような柔らかいパンとともに、生まれてはじめて、誰かとまともに会話しながら胃を満たした。


 クロはずっと拗ねてそっぽを向いていたけれど。


——そっか。ずっとひとりだったんだね。

——うん。

——ひとりは辛いよね。

——うん。

——俺もクロも、親に捨てられてさ。絶望的にひとりでさ。だから一緒だよ、俺たち。

——うん。

——ねえ、君、帰る場所はある? 

——……。

——……実はさ、そろそろ誰かパーティを増やそうかなって考えてたんだ。もちろん、君が良ければだけど……。


 優しくされたのははじめてだった。


 一緒に誰かと食事を共にするのも、それがすごく温かいことも、楽しかったことも、全部はじめてだった。

 でも、それを伝える言葉はまだ全然わからなくて、「うん」以外に答えることもできなかった。


——それじゃあ、これからもよろしくな。

 握り返したシキの手はとても温かく、柔らかい魔力がお湯のように体を包んだ。



「なるほどなあ」

 一通り話を聞いたブルットさんは腕組みをしながらしきりに頷いた。


「そりゃあまあ、単なる想い人以上のものだよなあ。人生を変えてもらったちゅうか。嬢ちゃんが、好きになるのも頷ける」


 だから恋愛感情じゃないって。

 話を聞いていたのかいないのか。それともわざとやっているんだろうか。

 むっとして口を挟もうとするのを、ブルットさんは手で制した。


「好きっちゅうのもいろいろあるだろ。抱きてえ抱かれてえって好きもあれば、こいつと一緒にいると落ちつくっちゅう好きもある。ずっとそばにいてほしいなあって好きもあれば、毎日一緒は厳しいがたまに会うとやっぱ面白いから好きだってのもある。うちの息子なんかなあ、生意気でムカつくことばっかだが、好きか嫌いかで言ったらそりゃもう圧倒的に好きよ」


 ブルットさんはそう言って、すっかり冷めたお茶を飲み干した。


「そういう好きな奴が、突然行方知れずってのはさみしいもんだよな。生きていてほしいって思うよな。なにがあったかそりゃ知りたいと思うよな。だがすまんな、嬢ちゃん。話を聞きながら、どうにかシキさんの手がかりに繋がることはねえかって考えてはみたんだが、まったく思い当たらんのよ」


「……謝らないでください。むしろ、シキがここに来た日まで覚えているだけで驚きなんですから」

 ブルットさんはそれでも「すまねえ」と小さく首を横に振った。


「……それで、嬢ちゃんはこの冬に棲みついた魔物の調査だったな」

 ブルットさんはいささか無理やり「森番」としての業務に話を移した。首から提げていた老眼鏡をかけて台帳を開く。


「名前はライラで、家名の方は、ああ、そう、アーモンドさんか。はいはい、依頼書はこれね。依頼主は『止まり木亭』のモニカさん。ま、モニカさんに限らずこの依頼は村の総意ではあるがね。うん、確かに」


 そうぶつぶつと言いながら、達筆とも悪筆とも言いがたい文字が台帳に刻まれていく。それを見ていると、ふと思いついたことがあった。


「あの……シキもこんなふうにブルットさんに依頼書を見せたりしたんですか?」

 ふと思いついて、そう尋ねてみた。

 ここを通った時、シキは依頼書代わりにその手紙をブルットさんに見せたりしていないだろうか。


 シキが来た日まで覚えているほどの記憶力だ。

 ひょっとして、その中身を覚えていたりするんじゃないだろうか?


 だが、ブルットさんは恥ずかしそうに頭を掻くばかりだった。

「いやあ、本当に嬢ちゃんには申し訳ないんだが、あの時はなんにも確認しなかったんだ。『不死鳥のシキ』がテリア村の依頼をいろいろ消化してくれてるってのは聞いてたし、うちの屋根も直してもらって……いい人だってのは知ってるから、まあいいかって、ほとんど素通りさせちまってよ」


「……そうですか」

 残念。そう思ったのが顔に出たのか、ブルットさんはまた「すまねえな」と謝った。

 

 ブルットさんが台帳に書き込む音がする。

 南向きの窓から春風が吹き込んで床に落ちた書類をかさりと揺らす。


 朝もやが終わり、森の輪郭は次第に濃淡がはっきりとしていく。

 すべてが溶けだすような、春のにおいがする。

 シキと会ったのも、こんな春の日だった。


——なんで仲間にしたかって?

 頭でシキの声が響く。


——足手まといにならないかって?


——心配ないよ。


——その力は、俺に必要だもの。

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