8
串焼きのにおいがした。
いや、気のせいだ。
勘違いだとはわかっている。
それでも目やにに覆われた重いまぶたをなんとか持ち上げ、ぴくりと乾ききった鼻をひくひく動かした。
高々と昇った太陽に目が眩み、腐臭が鼻をついただけだった。
辺りには誰もいない。
なにも変わっていない。
飲み込んだ唾が喉を焼き、刺激された腹に鋭い痛みが走った。
くらくらと視界が回った。
平衡感覚が失われ、目の奥がじんじんと痛んだ。
耐えきれず再び目を閉じる。
乾いた血と腐った肉は、毒のように体を蝕んでいた。
体中が痒く、でももう体を動かす元気はない。
目を開けるのも億劫だった。
頭が少しずつ考えることをやめている。
昼と夜がわからなくなり、生きていると死んでいるの垣根が曖昧になった。
どこからが現実で、どこからが夢なのか、もうほとんどわからない。
寒さは感じない。
崩れた天井から降り注ぐ日差しが、辛うじてぼくの体を温めていた。
吹き抜ける風が少しずつ温かくなっているのが、虫の数と腐臭の強さでわかる。
大空を我が物顔で飛び交っているハゲタカは、シキの死体を狙っているのだろうか。
それともぼくの死を待っているんだろうか。
——テイマーが先に死んだ時、テイムされた魔物が……使い魔がどうなるか知ってるか!
声が頭の中に響いてくる。
——教えてやるよ! 殺されるんだ!
殺されるって誰に?
こんな誰も来ない場所で?
——なあクロ、今って誰かの気配、感じたりするか?
今度はシキの声が聞こえた。
でも誰かって? こんなところに誰も来たりしないよ。
だってこの森はもう死んでいるようなものだ。
冬の間に出た新芽はことごとくホラアナジカが食べ尽くしてしまっている。
川はとっくに涸れ果てているし、ゴブリンやオークが大地を汚し、荒らしまわっている。
こんなとこ誰も来たいなんて思わない。
シキだってリュックに大量の食料やら水やらを詰め込んで、この森に入ったのだ。
そんな物好き、ぼくら以外にはいないと思う。
——俺もそう思うけどさ、いいからちょっと調べてみてよ。
頭の奥でシキが言うので、ぼくは仕方なく、魔力を操ってからくんと鼻を鳴らす。
少し離れた場所で弱い魔力を持つなにかが群れで動いているのがわかった。
多分ホラアナジカの群れが枯れ山でご飯を求めて移動しているところだろう。
さらに奥に今にも死にかけているような弱さの魔力があって、これは冬眠したウィーピングラビットだろう。
そしてもうひとつ、魔力の反応。
これは、ひょっとして人間の魔力だろうか。
「あれ? 誰かいる」
目を開けると、ぼくはゴルビンドの森の中にいた。
実りの少ない冬のゴルビンドの森は、下草まですっかり枯れている。
多くの木々が葉を落として、生命の気配すら感じないほどだった。
ぼくの隣を歩くシキが「え、本当に誰かいるの?」と目を丸くして、辺りを見回していた。
テリア村の宿を出て数時間。
まだ東の空にある太陽は薄曇りの中で弱々しい光を放っている。
木々を縫うように吹きあがる北風に足元の腐葉土がかさかさと音を立てている。
「誰もいない気がするけど……どっちの方向?」
シキが確かめるようにそう言うので、ぼくは藪の方を顎で指す。
「あっち。誰かがつけてきてる」
背後をつけ歩いてくる魔力は、時に立ち止まり、時に走りながら、ぼくらの方に近づいてくる。
この広いゴルビンドの森の中、まるでにおいでも覚えているみたいに、ぼくらの方に一直線に近づいてくる。
誰だろう。
宿屋の女将さんが忘れ物を届けに来てくれたとか?
女将さんとこのタレクくんがお見送りに来てくれたとか?
シキに「冒険者のいろは」をいろいろ訊いていたもんな。
いや、でもこんな森にわざわざ?
魔力が近づく。
飛ぶように、駆けるように、なにかが近づいてくる。
シキがその身を少しこわばらせ、腰に差した剣に手を当てた。
「シキ、このバカ犬の魔力探知を信用しない方がいいわよ」
ぼくの背中で巣作りをしていたアカネが半分呆れたように言った。「だってその魔力——」
その時、目の前の茂みががさりと揺れた。
瞬間、鼻腔がにおいを捉えた。
そして——
「あれ? なんだ、ギンじゃん」
茂みを突き破るように出てきたのは、白い狐だった。
走ってきたのか白い体毛のところどころに落ち葉が張りついている。
「……なんでみんなでこっち見てんだよ」
「いや、クロが誰かがつけてきてるって言うから」
「つけてって……そりゃ、ついてくるだろ。というかシキ、お前が怪しい奴がいないか見回ってきてくれって言ったんだろ?」
「まあそうなんだけどクロが……」
ギンの目が睨むようにぼくを見る。
「クロ、いつになったらギンの魔力覚えるわけ?」
アカネが心の底からバカにしたような声を出した。「いい加減覚えてあげなさいよ」
「あ! あっちにウサギもいたよ!」
思わずぼくは話をそらした。魔力探知は難しいのだ。
突然の出発ではあったけれど、久しぶりの行く当てもない気楽な森歩きは楽しかった。
数日分の水や食料はぼくが背負っている鞍に積み込んである。
本当はもっと買うつもりだったのだけど、ここ数日、偉い人のパレード準備とかで流通が滞っているらしく、在庫が少なくなってきているらしい。
「シキさんになら本当はもっと譲ってあげたいんだけどねえ」と雑貨店のおばあちゃんは困ったような顔をしていた。
それでも鞍をつけた体は適度に重くて、また冒険がはじまった感じがして、心はすごく軽かった。
ギンもそうらしい。
「せっかく怪しい奴がいないかどうか警戒してたのにさあ」とぶつぶつ文句を言っている割には、自分の尻尾を追いかけてみたり、無意味に飛び跳ねてみたりしている。
アカネはアカネで相変わらずぼくの背中で毛を編み込んで巣を作っている。
ぼくの毛でどれだけ綺麗な巣を作れるのか試すのが、この冬の迷惑な流行りらしかった。
「そういえばギンの方は怪しい奴、見かけなかった?」
「怪しい奴って誰だよ」
「いや、誰ってわけじゃないんだけど……」
「別にギンに見回らせなくてもこんな森、人っ子ひとりいないわよ」
アカネが魔力探知をしながら言う。「あとクロ。あっちにいるのはウサギじゃなくて、ウィーピングラビットね」
「だいたい同じようなもんじゃん」
「全然違うわね」
ちょっとムカついたので、ぶるぶると体を振る。
背中に組み上げていた巣がばらばらと落ちてきて「ちょっと! 動かないで!」とアカネが悲鳴を上げた。
「つーか、そんな警戒しなきゃいけないことがあるのか? 冬なのにいきなり宿をチェックアウトするなんて、シキらしくもねえ。そんな緊急の依頼だったのか?」
ギンの言葉に、ぼくもアカネも暴れるのをやめてシキの顔をじっと見た。
それはそうだ。
日暮れ前にキャンプをはじめるくらい安全を重視するシキのことだ、雪深い季節に宿を移すなんて、滅多にあることじゃない。
「別に……会って直接話したいって書かれてたからってだけだよ」
「その手紙ってやつ、一回見せてみろよ」
「たいしたことは書いてないって。本当に、会って話したいってだけ」
シキは誤魔化すようにギンの体をなでる。「詳しいことは明日、この森の奥にある廃墟で話すことになってる」
「おいおい、ちょっと待てよ」
ギンがガバッと顔を上げた。「怪しすぎるだろ。廃墟で会おうなんて……。そんなどこの馬の骨かもわからない奴からの依頼なんて受けるためにいきなり宿を出たのか? そんな依頼受けるんじゃねえよ」
「いや、受けるもなにも話を聞く段階だからさ。まずは聞いてみないことには——」
「話も聞くんじゃねえ」
ギンはにべもなく言う。「話なんて聞いたら、シキ、お前絶対受けちゃうだろ。断ったことなんてないだろうが」
「そんなことないって。アカネを譲れって依頼はいつも断ってるだろ」
「当然ね。というか私は誰の所有物でもないの」
アカネはどこか満足したように、またぼくの背中の毛を突いて編み込みはじめた。
別にいいんだけど、時々引っ張られすぎてちょっと痛い。
「ま、クソみたいな奴だったら私が焼き尽くしてあげるだけよ」
「アカネが焼き尽くす前に、俺がかみ砕いてやる」
「いつも言ってるけど、ギルドに怒られるから依頼者に危害を加えるのはやめていただいて……」
シキの言葉に、アカネもギンもふんと顔を背けた。
ぼくも顔を背けておく。シキに危害を加える素振りを見せたら、後ろから吹っ飛ばしてやる。
夕方になる前には小さな川跡に出た。
上流から流れてきた丸い石がごろごろと転がり、倒木が橋を架けるように渡されている。
ただ、肝心の水はほとんど涸れているらしい。
水たまり程度にはあるものの、数日前に降った雪が溶けて流れてきただけだろう。
「今日はここで一泊かな」
シキはそう言って担いでいたキャンプ道具を下ろした。
まだ明るいとはいえ、少しずつ日が傾いてきたところだった。
「手紙で言われた場所ってのはここから近いのか?」
「多分この辺だと思う。この後、薪拾いしながらクロとアカネ連れて下見に行ってくるからさ、ギンはテントの設置頼むよ」
「……毎度毎度なんで俺が居残りなんだよ」
「だって、ぼくはテント建てるの無理だもん!」
シキが口を開く前に、ぼくは叫んだ。
あんな小さくて細々した作業、引っ掻いて破る未来しか見えないと思った。
あんな布きれ、ちょっと力を加えたら壊れるようにできているとしか思えない。
あのテントは高かったらしいので、もし破れてしまったらシキは三日くらいぼくのお腹に顔を埋めて動かなくなる気がする。
「アカネは……」
「行けるわ! 私に任せて! 前からやってみたかったの。私好みの完璧な巣を作りあげてみせるから!」
「……というわけで、ギンしか頼れないんでお願いします……」
シキが苦笑いをしながら、ぽんと白い毛に指を絡めた。
ギンはふんと鼻を鳴らしながら、それでもどこか嬉しそうに尻尾を振って「じゃあもう行ってこい」と投げやりに言った。
上空からのアカネの案内で、廃墟はすぐに見えてきた。
ツタの絡まったうらぶれた建物で、大きな鉄門がひどく威圧的だった。
周囲は高い塀に囲まれていて全容は見えないけれど、このお屋敷は貴族の別荘地だったのか、それともなにかの施設だったのか。
とにかく森の奥にあるには不釣り合いなほど大きな敷地のようだった。
外からは見えなかったが、アカネが言うには天井が一か所崩落していて、部屋の中が丸見えになっているらしかった。「もう見るからに怪しい感じ」とアカネはぼくの頭に着地しながら言った。
「うわ、暗っ」
鉄門をすり抜け、庭を抜け、壊れた扉から中に入った館はひどく真っ暗だった。
シャンデリアは床に砕け散り、窓もないホールはひどく暗く、じめじめとして、必要以上に体が冷えるような気がした。
思わず身震いする。
シキも寒いのか、手のひらに自分の息を吹きかけていた。
「その辺の柱、燃やしてみる?」
アカネが言う。「明るくなるし、寒くもなくなる」
「そんなノリで放火を提案されてもなあ」
シキは笑い、アカネを懐炉代わりに抱きかかえた。
玄関ホールから右手の廊下を進むと、大きな部屋に出た。
じめじめと暗い館の中で、ここだけが妙に明るい。
天井が完全に崩れていて、見上げれば青空の彼方を、カラスが横切っていくのが見えた。
「私には、こんなところで会おうと思う人がまともな神経を持っているとは思えないけど」
アカネがぽつりと零すのに、ぼくは心から頷いた。
「いや、うん、まあ、でもなにかしら事情があるのかもしれないし……」
「そうであったとしても、あんまり知りたくない事情であることは間違いないわね」
ちょっとだけ暖まってから戻ろうか。
そう言ったのは、シキだった。
ぼくらは建物を出て、落ち葉や木の枝、ベッド台の端材やらマットレス、門の外に落ちていた看板やらを引っ張ってきて火を点けた。
火が点くと、途端に体が温かくなる。
ベッド台やら半分に粉砕した木製の看板やらが火に包まれていくのを聞きながら、ぼくはだんだんと眠くなってきた。
朝からばたばたと宿を出て、そのまま歩き通しだった。
ここでお昼寝してからギンのところに戻りたいな。
でも、そうしたらギン、怒るかな。
うとうととそんなことを思いながら薄目を開けると、ふとシキが胸元から手紙を取り出したのが見えた。
シキは手紙をもう一度眺め、きょろきょろと辺りを見回した。
辺りには、誰もいない。
少し離れたところでギンの魔力が動いているのをぼんやりと感じる。
火を点けて満足したアカネは、すっかり飽きたように魔力草を啄んでいる。
薄目を開けていてもぼくは夢見心地で、点々と咲き乱れる草花の魔力がウサギの群れみたいに見えた。
視界の端で、シキが手紙をくしゃりと丸めたような気がした。
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