7
「待たせたね」
テリア村の宿屋「止まり木」の女将さんはそう肩を揉みながら「よっこいせ」と体を椅子に沈み込ませた。「暇だったろう?」
「いえ、お話を伺いたいって頼んだのは私ですから」
そう言って、がらんどうになった宿併設の食堂を見渡すと、壁掛け時計がかーんと軽い音を立てた。
午後十一時。
先ほどまでの喧噪が嘘のように静かな店内に、時計の音がひどく大きく響く。
「それに女将さんが屈強な冒険者の食欲を次々捌いていく姿、見ていてまったく飽きなかったですよ」
「やだよ、屈強な冒険者だなんて」
女将さんは恥ずかしそうに手を振って笑った。
「『魔剣のライラ』に比べりゃあ、どうしようもない奴らばっかりなんだから。木っ端も木っ端の鉄級だらけで、やれ飯が足りねえだの、酒を持ってこいだの、食い意地ばっかり一丁前で困っちゃう。なーんでうちの息子も冒険者になんて憧れたのかわからないわ」
「あら、息子さんもとうとう冒険者に?」
そう訊いてみると、女将さんは鼻を鳴らし肩をすくめた。
「とても冒険者とは呼べないね。ひよっこもひよっこの紙級。まだ十五にもならないのに登録祝いだってこっそりビール飲もうとして、私の拳骨食らって泣いてるくらいの赤ん坊よ」
頬杖をついて、女将さんは続ける。
「……あたしは反対なんだ。この前、十二歳検診で魔力登録したばっかりの子だよ? 私と同じちょっと火魔法に適性があるくらいのさ。それが冒険者なんて、ねえ」
女将さんはそう言って、人差し指の先に小さな炎を宿した。
火の玉のように輝く炎は、ちらちらと女将さんの姿を壁に大きく映して揺らめいている。
「『冒険者』なんて言うけれど、『未踏の地を冒険しよう』なんて時代はもう何百年も前に終わったでしょう。今となっては『なんでも屋』みたいなもの。危ない仕事だし、安定しているわけでもない。成功者なんて一握りの厳しい世界。だからこそ息子にはこの宿を継いでもらって、平和に暮らしてほしかったんだけど……でも宿屋なんて絶対継がねえって言って聞きゃあしないもんでね。仕方ないさ。しがない村だもの。家業を継がず、どっかに弟子入りするんでもなきゃ、冒険者ギルドのお世話になるしかないのよ」
「十三を超えていれば、ギルドは来るもの拒まず、ですからね」
「それだって、もう時代錯誤な規則なんじゃないかと思うよ」
女将さんはやれやれと首を振り、テーブルに置かれていたランプのガラス蓋を開けて、人差し指に灯していた炎をそっとランプに移した。
「でもほら、銅級までの依頼って、工事現場作業とか鍛冶屋手伝いとか職業紹介みたいなものじゃない。そういう平凡な依頼をこなしていくうちに、どこかの職人さんに弟子入りして、そっちの道にでも進んでくれればいいんだけどね」
それからすぐにはっとしたように「ああ、ごめん。こんなこと、ちゃんと冒険者やってるライラさんに言うべきじゃなかったね」と首を振った。
「ちゃんとなんてしてないです。私はシキから冒険者としての生き方を教えられて、それ以外の生き方を知らないまま育っちゃっただけですから」
「またまた。ライラさんなんてどこ行ってもやっていけそうじゃない」
「……そんなことないですよ」
そう言いながら、小さく目をつぶる。
本当に、そんなことはない。
今、この冒険者という楔から解き放たれたら、きっとすぐにでもスラム街まで流されていってしまうような気がする。
物乞いをして、ゴミを漁り、スリでお金を稼ぎ、ようやく死なない程度の腹を満たす。
そういう生活に、また戻ってしまうような気がする。
救いの手はないだろう。
次にスラム街まで堕ちたら、もう二度と、這い上がって来られない。
たまたま財布を盗んだ相手が、バカなくらいお人好しなテイマーなんて幸運、そうあることじゃない。
あっさり捕まえておきながら守衛に突きださず、「君も親に捨てられたんだ」「俺も同じだよ」と親身になって話を聞いてくれるバカなんて、もう二度と現れない気がする。
——俺もクロも、親に捨てられてさ。だから一緒だよ、俺たち。
シキはそう言って手を取ってくれた。
——俺が冒険者になれたんだ。だったら、お前もなれるって。その魔力ならきっと、魔力登録もできるって。なあ? クロ。
そう言って道を示してくれた。
——そんな心配そうな顔するなって。俺が保証する。
そうやって、背中を押してくれた。
「……私がちゃんとした冒険者に見えるとしたら、それはきっとシキがちゃんとしてたおかげです。私に冒険者のことを教えてくれたのは、全部シキだったから……」
そう言ってまた過去の思い出に囚われそうになるのを、首を振って振り払う。
時間は限られている。本題に入らなければ。
「あの、今日、お話を伺いたいと言ったのは、実はシキのことなんです」
言った瞬間、テーブルに置いたランプ越しに、女将さんの顔に不安そうな影が揺れた。
「……もしかしてシキさん、亡くなったのかい?」
女将さんの声は十分に小さかったはずだ。
誰もいない食堂で、最低限目の前の相手に届くだけの声だったはずだ。
それなのに、女将さんが発した言葉は耳に突き刺さるようで、頭の中を何重にも響き渡った。
「なんで——」
「こういう仕事をしているとね、会話の節々から『この人になにかあったんだな』ってわかる瞬間があるのさ。……そうかい、シキさんがねえ」
「……ギルドも、シキの死体を確認したわけじゃないそうなんです」
そうぎゅっと膝の上に置いた手を握りしめる。「でもこの宿を出てから、シキを見たって人が誰もいないみたいで……。不死鳥が別の場所で目撃されていて、使い魔の討伐依頼が出てて、それで、私——」
「ああ、ライラさん、あんまり気にしすぎちゃだめよ」
女将さんが静かに言った。「あなたにとってシキさんが大切な人だったのはわかる。端から見てても痛いほど伝わってきた。でもそんな調子で依頼なんて受けたら、ライラさんまでだめになっちゃうかもしれない。銀級の依頼ってのは、ちょっとの油断が命取りなんでしょう?」
「……そうですね」
そう言う声が、自分でも格好悪いくらい震えたのがわかった。
誤魔化すように「あの、だから女将さんの目線で、シキがこの宿を出た日のことを知りたくって」と早口で続けると、女将さんは「そうねえ」と太った顎に手を当てて考えはじめた。
「チェックアウトしたいって言われたのは本当に突然だったのよ。もともと『冬の間はこの村に滞在するつもりです』って言われてたからね、春先の……少なくとも今くらいの時期まではいるものだと思ってた。実際、二ヶ月くらいはここにいて、うちの息子とも仲良くしてくれたし、日々村の依頼もこなして村の共用備蓄を増やしてくれたのなんて大助かりだったわ。ちょうど懇意の行商人が通行止めに巻き込まれて村に来られないかもって連絡を寄越してきた時期だったから、本当にありがたかった。失礼だけど、やっぱり紙切れ鉄クズの冒険者とは違うわね。ずっといてくれればいいのにって本当に思った。まあ、ベッドシーツが毛で真っ黒けになっているのは困っちゃったけど……クロちゃん、大きい体してシキさんにべったりの甘えん坊さんだったものね」
女将さんはそう言って笑った。
だが話を本題に戻すように、すぐに真面目な顔になる。
「チェックアウトする日の朝、シキさん宛に封筒が一通届いてたの」
思わず身を乗り出した。
そう、そういう話が聞きたかった。
「ほら、冒険者が長逗留している時って、お手紙とか小包はギルドか宿屋に送られてくるでしょう。シキさんに届いてたのはお手紙だったと思うわ。差出人は書いてなかった」
「どんなことが書いてあったか、見ましたか?」
「さあねえ、封筒に入っていたから見えなかったし……まあ、そうじゃなくても人様のお手紙を読みゃあしないけどね」
納得したように頷くと、女将さんは続けた。
「クロちゃんのお散歩から帰ってきたシキさんに『お届けものですよ』ってお渡ししたの。シキさん、不思議そうな顔してた。心当たりがなかったのかしらね。でも間違いなく封筒には綺麗な字で『シキ・カラード様』って書かれてた」
女将さんは振り返って、宿のカウンターの方を見る。
多分、その辺りにシキが立っていたのだろう。
「『ありがとうございます』って頭を下げたシキさんは一度クロちゃんを影に忍ばせて部屋に戻っていって、でもすぐにひとりで戻ってきたの。そしたら『すみません、ペーパーカッターお借りしてもいいですか』って言うじゃない。私、感心しちゃって。ほら、うちって鉄級ばっかりの冒険者宿だからね、まさかそんなもの使う人がいるとは思ってなくて。『用意不足でごめんなさい』って手渡しながら、やっぱり銀級は違うわねえって思った。そうよね、銀級ともなればお貴族様の依頼を受けることもあるでしょうから、その辺の所作をきちんとしているのは当然なのよね。ライラさんもそうでしょう?」
「あー、えっと、まあ、そんな感じですね」
そういえば銀級に上がる時に礼儀作法研修を受けさせられた。
お辞儀の仕方とかお茶の飲み方とか死ぬほど退屈な研修で、貴族というのはあらゆる人間の中でも群を抜いて面倒な生き物なんだと思ったのを覚えている。
言われてみれば、その時に封筒を開ける時にはペーパーカッターを使えみたいなことも言われたような気がしないでもない。
でもまあ、うん、実際に守ってたのは、シキだけかもしれないけど。
「それで、シキは手紙を読みはじめたんですよね?」
「そうそう。あまり厚い封筒でもなかったから、その場ですぐ読み終えたみたいだったけど。私はあんまり見ないようにしてた。だってねえ、じろじろと手紙の内容が気になってます、みたいな顔するのも嫌じゃない。それでもすぐわかるくらい、シキさんの顔色が変わったの。急に真面目な険しい顔になった。『大丈夫?』って尋ねると、シキさんは『ああ、ええ』ってなんだか上の空で、首から提げた冒険者証を何度も無意識に握ってた。それから『すみません、今日中にチェックアウトしないといけなくなっちゃって』って、突然」
話し終えて女将さんはふうっと息をついた。
「今思うと、あれはなにかひどく厄介な依頼だったのかもしれないね。そもそもギルドを通していない裏依頼だ。ちょっとの油断が命取りになっちゃったのかもしれない。ばたばたと出ていったから、きっと準備する時間もなかったんだろうしさ。こんなことだったら、あの時あり合わせの安っぽい朝食になんてしなきゃ良かったよ。でも、あの時は冷蔵庫に残っているのがそれくらいでねえ……」
女将さんはそう言って、キッチンの方、氷魔法つきの大きな冷蔵庫を見た。
「……依頼について、シキはなにか言っていましたか? なにをしなきゃいけないとか、どこへ行かなきゃいけないとか……。どんな些細なことでもいいんです」
「ライラさんが知らないなら、私に言えることはほとんどないけれど……ただこの宿を出てから、シキさんを見た人はいないんだろう? だったら東の森の方に入ったのは間違いないと思うよ。ご存じの通りここは陸の孤島でさ、ほかの町に行くには西の森沿いの街道まで出るか、そうじゃなけりゃ東の森に踏み入るしかないんだ。アカネちゃんは目立つから、街道に出たんなら誰かしらの目には留まっていたと思うよ」
女将さんは一度黙り、それから自分の記憶を確かめるように何度か頷いた。
「それにほら、ライラさん覚えてるかい? シキさんが出ていった頃って、西の街道は王族のパレードで人通りが何倍にも膨れ上がってたろ? この辺も通行止めばっかりで、行商人も冒険者もぜーんぶ止められちまってさ。おかげで仕入れもできないし、だーれも村に来ないしで、商売あがったりだった。あの数日は、二度と経験したくないねえ。まあともかく、あの頃は東の森にしか行き場がなかったし、東の森に行ったんなら誰も見てないのだって頷ける。東の方は荒れてるし、実りも少ないし、誰も入ろうなんて思わないからねえ」
東の森——ゴルビンドの森。
この辺の冒険者には「泣き寝入りの森」と呼ばれている。
ホラアナジカの獣害で野草は食い尽くされ、オークやらゴブリンやら、食料にもならない魔物が住み着き、川の水はほとんど涸れ果てている。
どこにでもいるはずのウィーピングラビット一匹見つけるのすら一苦労だし、だからと言ってホラアナジカの肉は臭くて固く、食えたものではない。
もともとどこかの貴族が管理していたらしいのだが、ろくに管理する気もなく森は荒れ果て、その貴族が手放して王国直轄領になってからはもっと放置され続けているらしい。
申し訳程度に出ている害獣駆除依頼は食料も水も冒険者の持ち出しで赤字確定だし、薬草は獣害で食い尽くされているから採集依頼も失敗確定。
冒険者にはまったくうまみがない森だ。
シキはそこに行った。
そして——。
「そうだ、もし……もしだよ、東の森に行くなら、ついでにライラさんに片付けてほしい依頼があってさ」
顔を上げると、女将さんがどうにも言いにくそうな顔をしてこちらを見ていた。
「依頼、ですか?」
「ああ、いや、依頼と言っても、まだ正式にギルドに出してるわけじゃないんだ。実は東の森に強力な魔物が棲みはじめちゃったかもしれなくってね」
「……どんな魔物ですか?」
安請け合いせず、慎重にそう訊く。
世間では銀級ならなんでも倒せると思っている人が多いけれど、もちろんそんなことは決してない。
相性の問題もあるし、そもそも単独討伐が厳しい魔物の可能性もある。
そりゃあゴブリン程度なら誰でも大丈夫。
オークでも、まあ、なんとかなるだろう。
だがコカトリスだとかポイズンフロッグとか言われたら、ちょっと厳しい。
地竜とか言われたら、金級か魔石級を要請してくれという話になる。
だが女将さんは腕を組んで「うーん」と鼻から息を出すばかりだった。
「それがわからないんだ」
「……わからない? でも魔物がいるのはわかるんですか?」
「村に下りてくるゴブリンの数が最近やたらと多くてね。しかもなにかから逃げるように慌てているみたいで。状況を考えると強い魔物がいると考えた方が辻褄が合うだろ? でも本当に魔物を見た人は誰がいないから、依頼を出すかどうか迷っててね……。だってほら、依頼を出したのに勘違いでしたってなったら申し訳が立たないだろう? しかも東の森でだよ? それによくしてもらってた銀級冒険者がいなくなっちゃったタイミングで現れたもんだから、余計にね」
女将さんはそう言ってちょっとウインクをしてみせた。
「ただゴブリンが東の森から逃げてきて畑を荒らすのは事実だし、夜な夜な聞こえてくる咆哮にみんな怯えているのも確かだからさ」
思わずびくりとした。
シキが入った東の森。
シキがいなくなったタイミングで現れた魔物。
夜な夜な聞こえてくる咆哮。
もしかして、それって——。
——遠吠え。
「なにせどれくらい強い魔物かわからないからね。いざ依頼を出して、度胸試しに村の奴らが——うちの息子が依頼を受けて返り討ちにあったらと思うと……。せっかくライラさんが来てくれたんなら、お任せしたいんだ」
——クロちゃん、大きい体してシキさんにべったりの甘えん坊さんだったものね。
女将さんはそう言った。
もしかして、クロはまだ、シキが死んだ場所にいるのだろうか。
ずっとシキが死んだ場所に留まり続けているのだろうか。
シキがこの宿を出たのは冬だ。
もう春になろうとしているこの時期になっても、まだシキの隣にいるのだろうか。
「その魔物の声、最後に聞いたのはいつです?」
「一週間前だったか、二週間前だったか。少しずつ減っては来ているんだけどね」
「……わかりました」
ごくりと唾を飲み込みながら言った。「明日ギルドに一緒に行きましょう。裏依頼扱いにならないよう正式に依頼を出していただいて、その場で私が受注します」
「そりゃあ良かった! ライラさんなら安心してお任せできるよ! いやあ、この村には銅級以上の冒険者がいないから本当にどうしたものかとみんな困ってたんだ」
女将さんは破顔して「だってそうだろう?」と手を叩いた。
「シキさんが宿を出ていった日に、ライラさん、あなたまでチェックアウトしちゃったんだもの」
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