廃墟に訪れるのは虫とハゲタカばかりだった。


 できるだけ体力を使わないよう、ぼくは一日の大半を寝て過ごし、たまに起き上がると廃墟の影に隠れてハゲタカを狩った。


 たいていはうまくいかなかった。

 本当に、全然うまくいかなかった。


 影の外のまぶしさに眩暈がして、あまりの空腹で頭に靄がかかったみたいで、頑張って飛びかかったところでシキの死体を漁るハゲタカたちはぼくをあざ笑うように飛び去っていった。


 仕方なく、最初に運よく狩れたハゲタカの骨を咥えて、なんとか空腹を誤魔化した。


 ハゲタカの骨まで食べ尽くしたある日、ゴブリンが数匹、血のにおいに誘われてやってきた。

 ぼくを見ても怖がることも、逃げ出すこともしない。

 それどころか、シキの死肉を見て興奮しはじめた。


 体が一気に熱くなった。

 怒りに任せてゴブリンの腕を噛み砕き、力を振り絞って吹き飛ばした。


 絶対にこいつらを生かしておくものか。

 逃げ惑うゴブリンの腹に噛みつく。

 途端に饐えたにおいが口内に広がり、本能が胃の中のものをすべて吐き出しそうになった。


 でも、ぐっとこらえた。

 吐くわけにはいかなかった。

 もう何日もなにも食べていなかった。

 腐っていても、どんなにまずくても、今、この廃墟で食べられるものはこれしかなかった。


 ゴブリンの臓物を食べ命を繋ぐ。

 それだけが、この廃墟で生き永らえる方法だった。


 死肉を求めて、ゴブリンは何度も何度も廃墟を襲ってきた。

 一度はオークまでやってきた。

 食べるたびに腹痛に襲われ、頭痛がひどくなった。

 無意識のうちに目から涙がこぼれ、水分を補うようにゴブリンの血を啜った。


 強烈な酸味がして、口がねちゃねちゃする。

 口をゆすぎたくて、でも新鮮な水はここにはなかった。

 

 眩暈がした。


 喉は痛いくらいに渇き、空腹は腹痛と吐き気に変わり、それが日常になった。


 焦点も合わなくなった。

 日が経つに連れてすべてがぼんやりと霞んだようになり、景色は二重、三重に見えた。

 腐臭は体から取れなくなった。

 体を動かすのも億劫になり、口内に入り込んだ蛆を咀嚼するのにも骨が折れた。


 そうしてまでシキの死体を守り続け、でももう、シキは見る影もなくなった。


 肉は腐り、虫に食われ、鳥に啄まれ、骨が見えるほどに分解され、シキと世界を隔てていた輪郭は曖昧にぼやけている。


 小さい頃からずっと一緒だった。

 どこに行くにも一緒だった。

 そうして飽きるほど見たはずのシキの顔は、もう記憶の中にしかない。

 

 人間は誰も来ない。

 シキを探しに来る人もいなければ、ぼくを始末しに来る冒険者もいない。

 もちろん犯人が現場に戻ってくることもない。


 誰かの鎧が擦れる音もしないし、誰かがキャンプをするにおいもない。

 人間が魔力を放つ時の、空気を揺らすような感覚もない。


 ここはただ静かで、誰もいなくて、ぼくだけの孤独な縄張りだった。


 人間の世界が懐かしいと思った。

 路傍のゴミ、串焼きのにおい、温かい体温。


 人いきれのする狭い道には所狭しと屋台が立ち並んでいる。

 リンゴやらオレンジやら、季節の果物を浮遊魔法で器用に陳列していく商人がいれば、「これで銅貨二枚は高過ぎだな」と訳知り顔で串焼き肉を一口で頬張って、ぽいっと道端に捨てる旅人もいる。

「冒険者にぴったりの防護服だよ!」と偽物の革鎧を掲げる詐欺師がいて、「ドラゴンの革鎧はねえの?」とぶっきらぼうに言うエセ冒険者がいる。

 鍋から立ち昇るもわっとする湯気の前には人だかりができていて、「銅貨一枚! スープ一杯で銅貨一枚!」と声を張る男がおたまを振り回し、「ねえ、私の方が先に注文したんだけど!」と騒ぐ女が横の男を突き飛ばしている。


 シキの魔力を通じて、人間の鳴き声はテレパシーのように、意味あるものとして頭の中でがんがん響き渡り、四方八方から漂ってくる強烈なにおいが鼻の中で混ざり合って、感覚のすべてが麻痺していく。


 シキにテイムされて、はじめて足を踏み入れた町はとにかく恐ろしかった。


「人間」という動物がこんなにいるとは想像もしていなかった。

 もちろん熊みたいに大きい人間はいなかったし、どいつもシキと似たり寄ったりの大きさだった。


 だが、その数は圧倒的だった。

 そうじゃなくたって、誇示するように身につける魔石の大きさや、森の中では見たこともないような色遣いの服は、ぼくを萎縮させるに十分だった。


 自然と尻尾が垂れ下がり、後ろ足の間に入れていないと落ち着かなくなった。

 それでも耐えきれなくなって思わず自分よりもずっと小さなシキの影に逃げ込んだのを覚えている。

「すご、お前そんなことできんの!?」と褒めてくれるのが聞こえたけれど、不安はまるで消えなかった。


 森の中でだって、ぼくは一番弱かった。

 でもここは完全に人間の縄張りで、ぼくの場所ではない。


 シキの影の中で、ぼくはできるだけ小さく丸まって、外から聞こえてくる喧噪に震えていた。


 そうやってしばらく丸まっていると、ふと影の外から「おーい!」とぼくを呼ぶのが聞こえた。


 おそるおそる影から顔だけ出してみる。

 さっきよりもずっと静かだった。

 人の気配はするけれど、耐えられないほどじゃない。


 ここなら出てもいいのかな。

 前足を出してみる。

 鼻をひくつかせる。うん、ここなら大丈夫そう。


 安心してぼくは顔を上げる。

 そしてそのまま、体が固まった。


 頭上には幾百もの魔石が取りつけられた巨大なシャンデリアが浮かんでいた。

 ステンドグラスで描かれた絵はきらきらと光り輝いている。

 壁や床は魔力を含んだ岩石でできているのか、ひび割れのひとつもない程丁寧に磨き上げられていて、そのひとつひとつに細かく魔方陣が刻まれていた。


 頭が痛くなるくらい、すべてに魔力がこもった空間だった。


「あ、ちょっと待って!」

 慌てて影の中に戻ろうとした途端、そう呼び止められた。

 ふと気づけば、別の人間がカウンターから身を乗り出すようにしてぼくの方を見ていた。


 これが人間の女かな。

 長い毛が、顔から垂れて影を作っていた。

 それにずいぶんと綺麗な身なりをしていた。


「……確かに魔物ですね。魔力慣れしていないのは、若いからでしょうか」

 高い声だった。なんだか甘いにおいがする。「本当にテイムできているか、いくつか簡単な命令をしてもらっても?」


「わ、わかりました。えっと、俺の言葉わかるよな?」

 シキは確かめるようにそう言って、「影から出て」とか「後ろ足だけで立って」とか「一回影の中に戻ってすぐ出てきて」とか次々口にして、ぼくは言われるがままに動いた。


 これも魔法なのだろうか、魔力を込めて言葉を発されると逆らおうとする気が失せて、体がその通りに動いてしまった。


 女の人はじろじろとぼくの様子を見て、それから小さく頷いた。

「結構です。そうすると先ほど申し上げた通り、ご希望されている冒険者登録とは別にテイムした魔物の登録も必要になります。……ですが、えっと、お名前はなんでしたっけ?」


「シキです。シキ・カラード」

 シキがそう言った瞬間だった。


 室内の魔力が急に緊張したような気がして、びくりと毛が逆立った。

 刺すような、とげとげした魔力が体を突く。

 慌ててシキの影に逃げ隠れながら、ぼくは辺りを見渡した。


 急にどうしたんだろう? 突然魔物が現れたとか?


 いや、違う。あそこだ。壁や床の魔方陣。

 あそこから強い魔力が発されている。

 見ればシキと相対する女の人の目が、獲物を見つけたみたいにぎらりと光っていた。


「シキさんね……失礼ながら冒険者登録にあたってあなたの魔力照合を行ったんですけどね」

 その言葉を聞いた途端、シキの体が急に固くなったような気がした。

 ちらりと目が泳ぎ、まるで逃げだそうとするように足が一歩下がる。


「その反応を見ると、ご自身でも自覚されているようですが——シキさん、あなた、自分の魔力を国に登録していませんよね。十二歳での魔力診断と魔力登録は国民の義務です。どういうことかご説明いただいてもよろしいですか?」


 しんとした冷たい空気が包み込んだ。

 周りにいた別の人間も話すのをやめて、ちらちらとこちらの方を見ているような気がする。


 シキが生唾を飲む音がした。


「……間違いなく、俺は王国の生まれです。普通の村で育って……十二の時にちゃんと魔力診断も受けました。みんなと同じように教会に行って、魔力調査官の前で魔力計測器に手を当てました。ちゃんと全部やったんです」


「だったら——」

「俺だって登録したかったですよ。でもできなかった。登録のしようがなかったんです。だって計測の結果……俺の魔力量はゼロでしたから」

 ほとんど聞こえないくらいの声でシキは言った。


「魔力が少ないとかいうレベルじゃなくて、体の中に、ほんの一欠片も魔力がないみたいなんです。魔力計にどれだけ長い間手を当てても、なんの反応もありませんでした」

 シキは思い出すように目を閉じる。


「最初は魔力計の故障かと思ったんです。だって、魔力がない人間なんているはずがないでしょう。それに計測器もひどく古いものだったから、きっとそのせいに違いないって。でも魔力計を変えても、何度測り直してみても同じでした。魔力計の針はぴくりとも動いてくれなかった。動けって念じても、お願いって祈っても、全然。みんなにバカにされて、親の目の鋭さと沈黙があまりにも痛くて、ほとんど泣きながら何十分も測定し続けて、でも結局、なんの意味もなかった」


 シキの手がぎゅっと硬く握られる。

 小さな爪が、柔らかい手のひらに食い込まれるくらい、ぎゅっと。


「魔力がない奴なんか人間じゃない。誰もがそう言いました。だってそうですよね。生まれたばかりの赤子が持っているほどの魔力すら、俺にはないんです。誰も味方なんてしてくれなかった。昨日まで仲良く遊んでいたはずの子だってひとり残らず嘲るような顔だった……。親には捨てられました。『野犬以下の魔力』って罵られ、家を追い出され、実際、その日から野犬以下の存在になり下がりました。毎日が地獄みたいで、ろくにご飯も食べられなかった。魔法が使えれば、魔力があればこんなことにはならなかったのにってずっと思ってました。空き家で雨風を凌いだこともあるし、スラムに隠れたこともあります。そうやって誰かに見つかりそうになるたびに逃げて……だからそう、魔力登録はできなかった」


 ぼくは影から顔を出してシキを見た。

 今にも、泣きそうな顔。


「いや、でもあなた実際……」

「俺も驚いたんです。これからの人生に絶望して歩いているうちに、森から引き上げるのが遅くなっちゃって……そしたら突然魔物が出てきて、ああ俺はもうだめなんだ、ここで死ぬんだって思って……それで『この魔物がテイムでもできたら……』って、ほとんど諦めの気持ちでやってみたんです。そしたら、なんか、できちゃって……」


 同じだ、と思った。

 同じなんだ。

 この人もぼくと同じだ。


 この人は魔力がなくて捨てられ、ぼくは魔力が強すぎたから捨てられた。


 そうして子どもの頃からたったひとりでこの世界に放り出されてしまった。薄汚れて、お腹を空かせて、世界で一番弱い存在として生きるしかなくなってしまった。

 そうして彷徨って、彷徨って、そして、奇跡が起きた。


「シキ……」

 さっき聞いたばかりの、シキの名前を口に出した。

 シキははっとしたようにぼくを見て、それから固く握りしめていた拳をほどいて頭をなでてくれた。

 大切なものに触れるように、優しく。


「……まあいいでしょう」

 シキの話をじっと聞いていた女の人は、やがてそう言った。「無魔力症の人が、後年突然魔力に目覚めたという前例がないわけではありません。そうした方々は特別な魔力を持つと言われています……まずは、おめでとうございます」


 シキがガバッと顔を上げた。

「し、信じてくれるんですか?」


「信じるもなにも、から。ご存じないですか? 建物全体に真偽判定の魔方陣が刻まれているので、嘘はたちどころにわかるんですよ。それなのに紙級も鉄級も、依頼達成の経費が嵩んだだの、失敗したのは依頼者の横暴のせいだの……」


 受付嬢は小さくため息をつき、それから気が抜けたように笑った。

「まあとにかく、あなたの話には一点を除き、嘘はありませんでした。お名前には嘘を感じましたけど……まあ事情が事情ですからね」


 その言葉にシキは「捨てられた時に昔の名前も捨てました」と苦虫を噛み潰したような顔をした。


「だから、そうです、さっき名乗ったのは親からつけられた名前じゃないんです。大切な名前ではあるんですけど……」

 受付嬢はしばらくシキを見て、それからふっと力を緩めた。


「わかりました。嘘もないようですね。魔力の登録を行いましょう。それからご希望の冒険者登録も。シキさん、字は書けます?」

 シキは勢い込んで頷いた。


 そこからはすごく長い時間、シキは受付嬢と話していた。

 しっかりと魔力が発現していること。

 この魔力をシキ名義として登録できるということ。

 家名については空欄でかまわないし、愛着があるのであればカラードと書いておいても良いということ。

 冒険者ギルドは王国法やギルド規則を逸脱しない限り、過去について詮索することはないから心配しなくて良いということ。

 依頼をこなす前に、まずはどんな魔法に適性がありそうか、細かく調べてみてもいいかもしれないということ。

 でもあなたは真面目そうだし、非力に見えるし、冒険者が向いているかどうか——。


「でも俺、冒険者になるの、魔力がない頃からずっと夢だったんです」 

 シキは渡された紙の冒険者証を眺めながら、本当に夢見るみたいに言った。


「登録は終わりましたが、まだまだ冒険者とは言えませんね。紙の冒険者証所持者——いわゆる紙級はまだ試用期間みたいなものです。素行や依頼遂行能力に問題ないとわかれば、鉄製の冒険者証をお渡しします。まあ鉄級なんてまだまだ半人前で、銅級でようやく一人前でしょうか。金級は厳しいかもしれませんが、銀級を目標にされると良いと思います」


 でも、シキは紙の冒険者証をほころんだ顔で見るばかりで、受付嬢の話なんてろくに聞いてもいなかった。


 ぼくは置いてけぼりで、なにもすることがなくて、シキの影の中でうつらうつら丸くなりながら、でも冒険者証を眺めるシキが嬉しそうで、なんだかぼくまで嬉しくなってきた。


 これもテイムの効果なのかな。

 感情まで、シキと繋がっているのかな。

 シキの近くにいるとすごく安心する。

 それがテイムされるということなのか、それともシキの境遇がぼくに似ているからなのか、それはよくわからなかった。


 でも時々影から頭を出してみると、シキはすぐに話を止めてぼくの頭をなでてくれて、それがまた嬉しかった。


「そういえば、この子の名前はどうします?」

 シキは「そっか、名前か」と手の甲でぼくの毛を優しくなでながら黙り、それから小さくつぶやくように「クロ」と呼んだ。

 

 あれは、ぼくにとってもシキにとっても、本当に特別な日だった。


 ぼくはシキと出会い、シキは冒険者になる夢まで叶えた。

 夢見心地でふらふらと冒険者ギルドを出て、ぼくたちは盛大にお祝いをした。

 今になって思えばささやかなものだ。

 屋台で売れ残っていた串焼き一本ずつ。


 シキは瓶ビールをどこからか調達してきて、ついでに「クロはこっちの方がいいだろ?」と陶器にミルクを入れてきてくれた。「全然足りないかもしれないけどさ」


 はじめて飲んだミルクはすごく甘くて、ただの水とは全然違っていて、あまりに美味しくてほとんどひと舐めでなくなってしまった。

 シキは吹き出すように笑って「じゃあもうちょっと貰ってくるよ」と、ぽんぽんと優しくなでた。


 幸せだなあと思った。

 本当に幸せだって、生まれてはじめて思った。


 シキはいつも優しかった。

 きっとシキは、ぼくをテイムする前からずっと優しかったんだろう。

 だからぼくはシキにテイムしてもらったんだ。


 だって最初にぼくを目にして、「もう俺はここで死ぬんだ」って思ったのに、ぼくを攻撃しようとは思わなかったんだから。


 一か八かで魔法を使ってみようとした時、攻撃魔法を選ばなかったんだから。


 暗闇からふっと現れた魔物に命の危機を感じたのに、火魔法でも雷魔法でもなく、その場から逃げだせるような転移魔法でもなく、「テイム」を試そうと思ったんだから。


 全部シキが優しかったからだ。


 それともシキの本能が告げていたのかな。

 テイムならうまくいくって。

 絶対絶対、テイムなら成功するって。


 肉体の輪郭は溶け、肉は悪臭とともに腐りはじめている。

 シキの顔は、もうわからない。

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