4
ほんの少し影から顔を出しただけで、強烈なにおいが鼻を覆った。
きっと、ここしばらく晴れてばっかりだったのがいけなかったのだ。
シキの体は崩れた天井の下で太陽光に晒され、温められ、妙に膨らんでいた。
時々、ぶすぶすと破裂するようにガスが漏れ出て、言い表せない悪臭が周囲に広がった。
アンデッドが潜む沼地を凝縮してぶちまけたようなにおい。
皮膚が乾き、肉が腐り落ち、体液が蒸発して空気に混ざったにおい。
これに比べれば、ゴブリンの返り血つきのズボンなんて、なんてことなかった。
いよいよ悪臭に耐えきれなくなって、廃墟の影に潜みはじめたのは昨日のことだ。
ひんやりとした影の中は無臭だったけれど、自分の体についた死臭はこびりついて、どうしたって取れなかった。
それどころか、じっと丸まっていると自分の体から死臭がどんどんと漏れだして影の中を染め上げていくような気がした。
だから時々、こうして息継ぎをするみたいに顔を出す。
新鮮な空気とはほど遠い強烈な悪臭を肺に入れ、死臭で死臭を上書きした。
でも今、顔を出したのは、なにも息継ぎをするためじゃない。
ぼくは息を殺し、気配を絶って、シキの死体に近づいていく。
影を泳ぐように顔だけ出して、ゆっくりゆっくり距離を詰めていく。
耳元でぶんぶん羽音がする。
思わず振り払いたくなった。
でも、我慢する。
絶対にそんなことはしない。
そんなことをしたら、気づかれてしまうから。
上機嫌にシキの死体を漁るこいつに、気づかれるわけにはいかないから。
こいつはまだぼくの存在に気づいていない。
影の中に潜んでいた魔物になどまったく気づかず、シキの顔を踏みつけ、死体を漁っている。
ふつふつと怒りが沸いてきた。
シキの肉体を汚すなんて、ぼくが許さない。
相手の背後を取る。
影の中で足に力を入れる。
一瞬相手が顔を上げた。
その瞬間、ぼくは思いっきり影の中から飛び出して、相手の首根っこに噛みついた。
声を出す隙さえ与えなかった。
一気に口に力を入れると、首の骨が折れた音がして、ぶしゅり、と血が口の中に溢れ出た。
瞬間、細い首がだらりと垂れ下がる。
念のため、もう一度首に噛みついてぶんぶんと振り回すと、死に絶えたハゲタカの翼から羽根がばらばらと抜け落ちて宙を舞った。
シキの肉体に、血がびしゃっと降りかかる。
そのままハゲタカの首根っこを食いちぎる。
なんの味つけもされていない、血生臭くて固い肉。
羽毛が混ざり、ごわごわとして、今すぐ吐き出したいくらいまずかった。
シキの料理が恋しい。そう思った。
最後にこうやって獲物をそのまま食べたのはいつのことだろう。
まだほんの仔犬だった頃、空腹の中、森を彷徨っていた時だろうか。
いや、あの頃はそもそも獲物を捕まえることすらできなかったような気がする——。
どこにでもいる野犬の集団にぼくは生まれた。
兄弟は六匹。
みんな茶色くて、ぼくだけが真っ黒で、そしてぼくだけが「魔物」と呼ばれるくらい強い魔力を持っていた。
それなのに、ぼくは兄弟の中では一番弱い存在だった。
みんなと違うというのは野生の世界では致命的だ。
色が黒いことも、強い魔力も、ぼくをいじめる理由としては十分だったらしい。
一緒に生まれたはずの兄弟たちはぼくを見るたびに吠え、代わる代わる噛みついてきた。
お母さんも止めてくれなかった。
まるでぼくのことを遠ざけているようで、お乳を飲むことも許されなかったし、柔らかく噛み潰した獲物も分けてはくれなかった。
お父さんはどこにもいなかった。
ずっとひもじくて、兄弟たちが怖くて、とにかく震えていた。
ある日、体を魔力で包むと影に隠れられることがわかった。
それからはいつだってみんなが来られない影に逃げ込んで、いつもお腹を空かせていた。
そうして、わずかな雨水と兄弟の残り物をかすめ取るようにして生き永らえた。
だが、そんな生活はすぐに限界が来た。
とうとう空腹に耐えきれなくなった。
その日に限って、兄弟たちが与えられていたウサギがとんでもなく美味しそうに見えたのだ。
だからぼくはなりふり構わず影から飛び出て兄弟が食べていたものを奪い取った。
だが、その瞬間、お母さんから信じられないほどの殺気が溢れ出た。
本当に殺す気だったのかもしれない。
噛みつかれ、吠え立てられ、ほとんど突き飛ばされるように追い立てられた。
そうして、みんなから離れた見覚えもない場所まで連れてこられると、お母さんは踵を返し、その姿はあっという間に見えなくなってしまった。
そうして「ひとりの夜」がはじまった。
誰もいない夜の森。
風が吹けば木々は襲いかかってくるみたいに揺れた。
味方なんて誰もいなかった。
ひどく孤独で、この世にはぼくのほかに誰もいないような気がした。
でも、それと同時に、どんな場所にいても誰かが息を殺してぼくに狙いを定めているような気もした。
生まれてから、まだ一年も経っていなかった。
ぼくは生まれ落ちた家族以外の世界をなにも知らなかった。
影の中に隠れられる時間も短く、影から影に移動するなんてこともできなかった。
余り物をくすねることしか知らないぼくに、森は容赦なかった。
追いかけたところでウサギはすぐ逃げてしまうし、牙をむいたところで鳥は空に羽ばたいていく。
ぼくが食べられるのは、枯れ木に巣くっていた幼虫と小さな木の実くらい。
水を飲みに川まで出た時に小魚が捕まえられると、それが一番のごちそうになった。
時々、枯れ枝が焦げた跡が森にあった。
山火事ではない。
なにものかがわざと枯れ枝を集めて燃やしたような跡。
そういう場所には決まって、変わった足跡がついていた。
ぼくとは全然違う平べったい足跡で、なぜか四つ足でなく、二足で歩いているみたいに見えた。
四つ足でもなく、蛇みたいに足がないわけでもなく、猿よりもずっと大きく平たい足をしている。
知らない動物だ。
きっと、危険な動物だと思った。
絶対に近づくべきじゃない。
でも、その足跡の近くはいつも美味しそうなにおいがした。
よく探すと、食べ残しが落ちていることもあった。
干乾びた肉、焦げついた串。
ほんの欠片しか残っていないことがほとんどで、でも口に含むと舌が弾けるくらい魅力的な味だった。
その味は強烈にぼくを誘惑した。
ぼくは森の中では一番弱い存在で、常に空腹だった。
危険を冒してでも、美味しいものを食べたかった。
なにより、この動物からは魔力の気配がした。
魔力があるのは、ぼくだけじゃないらしい。
ある日の夕暮れだった。
森を彷徨っていると、突然、踏み固められた場所に出た。
ただの獣道じゃない。
ひどく広い道で、平らな石がはるか先まで綺麗に並べられている。
一目でわかった。
ここは明らかに別の動物の縄張りだと。
それも多分、例の「危険な動物」の縄張り。
森に戻ろうかと思った。
でも少し先に、すごく明るい光が集まっているのが見えた。
美味しそうなにおいが、その光が集まった場所から流れてくる。
お腹が鳴った。
ここ数日、獲物を狩れずに過ごしていて、もう耐えられないくらいだった。
あそこに行ってみようかと足を向ける。
すると——
「ひっ」と変な鳴き声がした。
変な動物だった。
多分、これが二足歩行の動物なんだと思った。
体毛が頭の上にしかない。
顔はつるつるしていて、驚いた目はぎょろぎょろしている。
体は薄汚れた皮みたいなものに覆われていて、不思議なことに上半分と下半分で色も違うし切り離されているみたいだった(後になって「毛皮」ではなく「服」だとわかった)。
怖くはなかった。
思っていたよりずっと小さな動物だった。
もしかして子どもなのかも。そう思った。
それともオスとメスで大きさが違ったり? 大人になると熊を超える巨体になったり?
わからない。でも確かに体からは魔力と美味しそうなにおいを感じた。
ちょっと臭いけれど……。
ただ、いずれにしても思ったほど危険な動物には見えなかった。
小さいし、いきなり襲ってきたりしないし、毒があるようなけばけばしい色もしていなかった。
ぼくがまじまじ観察していると、突然、そいつがふっと力を緩めたような気がした。
そいつは毛のないつるつるの手をぼくに向かって突き出し、なにかぶつぶつと小さく鳴いた。
その瞬間、ふとそいつから魔力の気配を感じた。
体の中で練り込まれた魔力。
その気配がどんどん高まっていく。
思わずぼくは近づいた。
ぼく以外の動物が魔力を操るのを見るのははじめてだった。
魔力自体はぼくが持つものとまるで変わらない。
それなのに、魔力の使い方は全然違うんだと思った。
魔力というのはこんなに練れるものなんだ。
こんなにしっかり操れるものなんだ。
ぽーっと見惚れている間に、そいつは魔力を少しずつ大きくしていった。
それからゆっくりと魔力がそいつの体を離れ、綺麗な一本の線となってぼくに向かってきた。
敵意は感じなかった。
殺意なんて全然感じなかった。
だからぼくは鼻先で、ぴたりと線に触れた。
その瞬間だった。
体中に電流が走った。
毛の先まで震え、精神が強く揺さぶられた。
ぼくの体の中に、そいつの魔力が入り込んできたみたいだった。
すごくむずむずした。ものすごく、むずむずした。
「くすぐったい!」
ぼくがそう体を掻くと、そいつはびっくりしたように、ぎょろぎょろした目を余計に大きく見開いていた。
そして——。
「え、嘘」
そいつの声が、意味のある響きとして頭の中に流れてきた。
「もしかして、できた?」
そいつは呆然としていた。
自分のちっちゃな前足をまじまじと見て、それから「できた……」と自分のしたことに驚くように言った。
「え」とか「うわ」とかつぶやくたびに、体から声が響いてくる。
そのたびに体が震えるようで、痒くて痒くてしょうがなかった。
「あの……もしかして俺の声、聞こえてる?」
そうやって、ぼくはシキと出会った。
それからはずっと一緒にいた。
ぼくらはその足で一緒に町に入って冒険者になり、ふたりでいろんな場所に行った。
しばらくしてアカネが仲間になり、もうしばらくするとギンも一緒になった。
何年も、何年も一緒だった。
シキが行く場所は、どんな場所でも一緒だった。シキが行くといえば、ぼくも絶対に行った。
シキのことはなんでも知っていた。
知らないことなんて、なにもなかった。
最期の、あの瞬間までは。
蠅の羽音がする。
腐敗臭がする。
でもぼくは、ずっとここにいる。
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