3
今ならどこまでも飛んでいける気がした。
森を抜け、いくつかの町を通り過ぎた。山を越えて、湖畔の村で農民が私の姿を指さすのを見た。大地には針葉樹の緑と、深い雪の白が広がっている。日が傾いていくにつれて積もった雪は黄金に輝き、暗くなった夜を彩るように星月が踊る。
世界はどこまでも広く、私はいつも丸い天球の中心にいた。
地上は絵画のようで、翼を広げて滑空しながら遥か下の風景を堪能し、二日目か三日目で「ホント飛ぶのって飽きるわ」と思った。疲れるし。
話し相手も、旅の道連れもいなかった。
カラスも鷹も、私が近づこうとすると慌てたように逃げていってしまう。
この世界に生まれて一体何年が経っただろう。
私は空の覇者で、だからこそ旅路は孤独だった。
ここしばらくはずっとシキたちと一緒にいたのだから、慣れ親しんだはずの孤独がすっかり牙をむいてきて、翼を重くしているみたいだった。
風景に飽きてからは、できるだけ街道の上空を飛ぶようにした。
代わり映えしない森を眼下に飛ぶよりは、なんにつけあくせく働く人間や馬車が往来するのを眺めている方が、幾分でもこの
人間というのはまめなもので、どんな田舎にも、どんなに険しい場所にも道を敷きたがるらしい。山を割り、森を拓き、崖に橋を渡して、大地を踏み固める。気が遠くなるような仕事ぶりだ。私なら数時間で飽きる。
それをこのミヤクルパ王国では、こんな辺鄙極まりない土地にまで道を敷いているばかりか、商人や冒険者たちが安全に往来できるようにと、定期的にファイヤストップと呼ばれるキャンプ場まで用意している。さすが人間。気が狂っているとしか言いようがない。
冒険者以外は安全のため街道を外れてはならない、というのが今の法律らしいが、街道を外れることの方が難しいんじゃないかと思うくらいだ。
「ミヤクルパ王国はまだ全然だよ」
シキがそう言っていたのはいつの頃だっただろう。「お隣のスペブルク帝国なんて三十分歩けば一回はファイヤストップを見かけるし、二時間に一回は宿場町に出くわすよ。道だってちゃんと整備されてて、こういうぬかるんだところはあんまりないしね」
シキは水溜まりをぴょんと飛び越えた。地平線の先まで誰もいないような田舎道だった。昨晩の雨のせいで道路は柔らかく、馬車の
まだギンがいない頃。確か、私がシキの仲間になってすぐのことだろう。
私はクロの頭に陣取って、ところどころ陥没した道を眺めていた。
「じゃあこんな水溜まりだらけの国なんて出て、さっさと帝国に移動しましょ」
「無理」
「なんで? その……なんとか帝国の方が都会なんでしょ? 人が多ければ、そっちの方が仕事もあるんじゃない?」
「いや、そもそも俺、王国でしか冒険者登録してない『ローカル』だし……」
「なによローカルって」
「その国だけで活動できる冒険者のこと。この国の冒険者と帝国の冒険者は違うんだ。王国でどれだけ有名な冒険者でも、国境を越えたらただの人だよ。俺が帝国のギルドで依頼を受けようとしても、『どちら様ですか?』って言われて追い返されるのがオチ。外国で活動したいのなら、国際冒険者資格を取らないと」
「じゃあ資格取ればいいのよ」
「簡単に言うなあ……国際資格の受験資格は『銀級』以上だし」
シキは首から提げていた「銅級」の冒険者証を見せた。「なにより試験も厳しいんだ」
「シキなら余裕だよ!」
クロが一声吠えると、シキは「ありがとな」と苦笑いを返した。
「そもそも俺みたいな根無し草じゃ受験資格もないんだよ。王国限定の、十三歳超えてりゃほぼフリーパスの登録とは違うの」
「じゃあ拠点を定めればいいのよ」
「俺、今、君たちの食費で文無しなんだよなあ」
シキは馬車代を浮かせるために歩いてきた道を振り返って言った。「ま、こっちの方がのどかでいいよ。向こうは都会だけあって治安が悪いんだ」
「大丈夫。治安の悪さなんて私が粉砕してあげる」
「治安悪いなあ」
そうだ、帝国に行こう。
そう思った。
どこまでが王国で、どこからが帝国なのかはわからないけれど、多分北の方だろう。
スペブルク帝国って、名前的になんか寒そうだし。
「銀級」に上がってもシキは資格を取らなかったし、そうじゃなくても一回目の生が雪山で終わってから、なんとなく寒い場所は避けて生きてきた。きっと私はまだ帝国の空を飛んだことがないはずで、シキの言う「都会」というものがどんな所なのか、まるで知らない。
五十七回目の生は、シキと一緒に過ごして終える予定だったのだ。
シキがいなくなった今、シキが放った言葉を追って世界を回るのもいい。
帝国は治安が悪いと言っていたけれど——でもミヤクルパ王国でだって、私はいつも冒険者やならず者に狙われていた。シキだってきっと、そういう奴らの手にかかって殺されたのだ。じゃあもう、どこにいたって同じだろう。
シキの追悼に、彼の思い出の地を巡る。
素晴らしい思いつきだ。
うん、そうだ。そうしよう。
羽を伸ばし、風を捕まえて方向を変えた。
前方の雪山はまぶしく輝き、手前に広がった樹海は緑に染まっている。
下を見れば、樹海に続く荒れた細い道を馬車が一台、のろのろとした速度で森へ向かっていた。手綱を握るのは行商人なのだろうか、荷台には木箱やら壺やらが積まれている。
はて、この先に村なんてあるのかしら。
こんな深い森、人が暮らしているような気配なんてないけれど……。
だが、よくよく目を凝らすと、木々の間から小さな煙が天に伸びているのが見えた。
まったく、人間というのは本当にどこにでもいる。
下を行く行商人にとっては、通い慣れた道なのだろうか。
護衛もつけずにぽけっと手綱を握る姿がどこかシキと重なった。
そういえば、シキはあの時、馬車代を節約したくてあんなぬかるんだ道を歩くことにしたんだっけ。
それとも御者が魔物を乗せるのを嫌がったからだっけ?
いや、クロが無理やり馬車に乗ろうとして、ぼろぼろの荷台を踏み抜いて壊したからだったかも。
とにかく私は今まで、馬車に乗る機会に恵まれてこなかった。
つまり、今は最高のチャンスってわけね。
そう思って、私は馬車の上空をぐるりと旋回した後で、滑るように馬車に降り立った。
かたん、と木箱の上に降り立つと、甘いリンゴのにおいが鼻をついた。
木箱の蓋が少しずれていて、覗き込めば小ぶりなリンゴがたくさん詰まっている。思わず口に渇きを感じて、くちばしを突っ込んで啄んでみる。
まっず。
一口、二口とつついてから、私はそう思った。
シャキシャキさの欠片もなく、ひたすらにぼそぼそした食感だし、甘いのはにおいばかりでずいぶん酸っぱい。採れたてのみずみずしさなどどこにもなく、倉庫の隅で放置したものを拾ってきたような埃っぽさすら感じる。
「大丈夫? これ死ぬほどまずいけど、売れるわけ?」
通じもしないのに、思わずそう声に出して顔を上げる。
私の声で気づいたのか、手綱を握っていた男がふと荷台を振り返った。そして、次の瞬間、馬車がぴたりと止まった。
「ふ、不死鳥……」
皺が目立つ男だ、と思った。目尻の皺が深く浅黒い肌に刻まれている。ほうれい線もくっきりで、麦わら帽子の影はその皺を余計に際立たせていた。もともと太っていたのだろうか、痩せて余った皮が頬や顎をたるませていた。お世辞にも健康そうには見えない。
行商人かと思ったけど、違うのかも。
男から香る、染みついた野焼きのにおいと甘い香りは商人というよりも農家を思わせた。
「うーん、まあもし本当に農家だとしたら、このリンゴの目利きもできないのはやばいと思うけど……」
男は大きく目を見開き、ぽかんと口を開けている。前歯が一本抜け落ちているのが見えた。
いくつくらいなのだろう。シキと同じくらいにも見えるし(まあシキはもう死んだけど)、棒のように細い腕は六十代にも見える。相変わらず人間の年齢ってのはよくわからない。
「商人ってほどの身なりでもないし……」
手綱の先にいるのは馬ではなくロバらしい。骨が浮き出るほど痩せていて、たてがみは見るからに埃っぽい。その背に提げたヤカンやら鍋やらはベコベコにへこんでいて、焦げ跡が取りきれないほどにくすんでいた。
「なるほど、しがないお茶屋さんね」
そう決めつけた。
「いいわ。ファイヤストップにお茶売りが来ると、シキはよく買ってた。私には熱すぎたけど、今はお茶の気分。さ、出してちょうだい」
私はお茶売り(仮)の男に近づいて、かつかつとくちばしで荷台を叩く。
男は突然近づいてきた伝説の鳥に困惑したのだろうか、私に向かって一瞬手を伸ばし、またすぐに引っ込めた。
「神様……」
男はそうつぶやく。
それから麻のズボンに手のひらをこすりつけると、なぜだか拝むように、ぱんと柏手を打って一礼し、再び私に手を伸ばした。
「どうか、どうかお願いします……」
お茶も出さず、男は祈るように手を伸ばす。
男の手からは少し拭ったくらいでは到底消えない汗のにおいがした。服からは野焼きのにおいがして、背後からは甘いリンゴが香る。
男が小さく口を開く。
息を吸う。
男の頬を汗が伝う。
喉仏が動く。
不意に、空気が揺らめいた気がした。
男の指先で、小さく魔力が揺らめいた気がした。
そして——
「テイム」
魔力とともに、男の声が耳に響いた。
次の更新予定
2024年11月30日 12:00
ぼくらのテイムが切れたあと 水谷浩平 @koheipenguin
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