血のついた尾を振り回し、怒りに身を任せて森を駆けていたのに、気がつけばキャンプまで戻ってきていた。

 心臓はばくばくと脈打ち、息が上がり、頭ががんがん痛んだ。

 細かいことはなにも気にせず藪に突っ込んだから、体中に擦り傷がついていた。走って走って、クロの遠吠えが聞こえなくなるまで遠くに行くつもりだった。

 それなのに足は自然と帰る場所を覚えていたらしい。

 今朝までみんな一緒だったキャンプ。

 ここにもう一泊する予定だった。高かったというスライム液加工の防水テントはまだ川縁にしっかり張られている。全員分の荷物や水筒もまだ倒木に立てかけられたままだ。


 荒い息を落ち着かせ、涸れて雪解け水が溜まっているだけの川面に口を近づける。

 舌に水を絡ませて渇いた喉を潤していると、落葉した冬木を縫うようにクロの遠吠えが響いてきた。

 聞こえないようにぺたりと耳を塞ぐ。

 あいつはいつまでシキのところにいるつもりだろう。

 クロは子どもの頃からずっとシキと一緒だったらしい。だから余計に離れがたいのだろうが……今はそれが余計にむしゃくしゃした。

 クロの姿を振り払うように頭を振って、キャンプ跡を見る。

 水筒も焚火の炭も積み上げた薪も、すべてが時空魔法で閉じ込められてしまったかのように、出発した時そのままの光景だった。

 シキも俺たちも、荷物はここに置きっぱなしにしていた。短剣くらいは持っていたけれど、それ以外は身ひとつで出かけた。

——いつも通りなんとかなるって。

 結局、そうはならなかった。

 こんな怪しい依頼に、たったひとりで乗り込んで、そうして戻ってこなかった。


 いつかこういう日が来るんじゃないか。

 心のどこかで、そう思っていた。

「不死鳥のシキ」

 そんな大層なふたつ名で呼ばれていたけれど、「銀級」冒険者として、シキはちょっと抜けていた。

 のんきというか楽観的というか。

 面倒くさがりで、いつだって「まあ、なんとかなるでしょ」と思っているようで、たいていのことは笑って済ませようとしていた。

 貴族から受けた大きい依頼も、雑用みたいな仕事も、日常の些細なことまで、全部そう。

 伸びてきたひげを指摘すれば「これでいいか」と剣先を不器用に顎に当てて血だらけになったこともあったし、ゴブリンの返り血でどろどろになったズボンをちょっと水洗いしただけで「オッケー」と履こうとしたこともあった。

「それを履くつもりなら、俺は今すぐこのパーティから離れるからな」

 俺がそう言うと、シキはがっくりと肩を落とした。

「そんなに言わなくてもいいじゃん……なあ、アカネ」

「安心して。ギンが出ていく前に私が消し炭にしてあげる」

「……おい、クロ? なんでそんな遠くにいるんだよ」

「ねえこっち来ないで。くさい」

「別に履いたって死なないのになあ」

 渋々ズボンを捨てて、シキはため息をつくようにそう言った。


 別に死なないのに。

 シキはよくそう言った。

 そのお気楽さに救われたこともあるし、心底嫌になったこともある。

 依頼に失敗して命を狙われたこともあるし、真っ暗な森の中で迷子になって焦ったことなんて何度もある。

 それなのにシキはいつも楽しそうだった。

 全力で走る俺の背にまたがって、時にどこかのお偉いさんが雇った暗殺者から逃れながら、シキはいつだって「急げ! ギン!」と歓声を上げた。

「そんなに速いのが好きなら、今度からクロの方に乗れば?」

 一息ついて俺の背中から滑り降りたシキに、そう言ったことがある。

 だがシキは「ギンいいか」と隠された秘密を語るかのように真面目な顔をして言った。

「大きくて速い馬車が、安全な馬車とは限らないんだ」

 なるほど、そう言われると興奮したクロに連れ回されるシキが目に浮かぶようだった。

 納得して言葉を失くした俺に、シキはふっと笑って「だから俺、ギンの乗り心地好きだよ」とクロに聞こえないようにつけ足した。

 抜けていて、よく失敗して、でも仲間想いだから憎みきれない。

 そう、シキには本当に、そういうところがあった。

 

 背中がむずむずした。

 何度か体を震わせ、精一杯顔を背中に向けて掻きむしってみても直らない。なんとなく、背中に重さを感じるような気がした。

 舌打ちして、人間の姿を強く思い浮かべてから、魔力を体に行き渡らせる。

 尻尾が千切れ、空気中に溶けるのを想像し、後ろ足がすっと伸びて背骨がまっすぐになるのをイメージする。体を包む白い毛が、そのまま固く編み込まれて服やズボンになるように意識する。

 そのままひょいっと体を捻ると、あっという間に生まれてから何千回と化けてきた銀髪の少年姿に変わった。


 可動域の広がった人間の長い手でぽりぽりと背中を掻きながら、小さく息をつく。

 とにかくこれからどうするか考えなければ。

 シキはあの世へ旅立ち、パーティは解散した。

 シキを殺した奴の手がかりはなにもない。俺が知っているのは「依頼人が十二時に森の廃墟で待っている」ということだけ。それだけが書かれた手紙を信じて、この森に入ったということだけ。どんな奴からの、どんな依頼だったのかもわからない。

 そもそも本当に依頼したかったのかすら疑わしい。シキを殺すつもりで、適当なことを言っておびき寄せただけなんじゃないか。


 森の日暮れは早く、宵闇が迫っていた。

 今日のところはここに泊まるしかないだろう。

 そう思って倒木に立てかけたリュックをまさぐる。中に入っていたのは着替えや虫除け、ロープや巾着。何気なく手に取った巾着には、くしゃくしゃのお札や硬貨が無造作に入っていた。

 ……ちょっと待てシキ、これは俺たちの全財産だったんじゃないか? いくら人里離れた場所とはいえ、万が一ってことがある。盗まれたら一体どうするつもりだったんだ。バカなのか?

 ため息を押し殺しながら巾着を漁っていると、ひとつ、変な形のものを見つけた。

 色艶はまるで銀貨そのものだ。

 だが丸い銀貨とは違い六角形で、上部に空いた穴にはチェーンが通されている。指先で摘まむと虹色に輝き、表面にはふたつ星に祈りを捧げる修道女が描かれていた。縁に沿って「汝、誇りを忘るる勿れ」と彫られている。裏返すと、「シキ・カラード」の文字。

 

 わかった、やっぱりバカだ。金を置きっぱなしにしたばかりか、あのバカ、冒険者証まで置いていきやがった! なんでだよ! 貴重品くらい肌身離さず身につけてろよ!

 誰にともなく心のうちでそう吠えて、でもそれがシキらしくて少し笑えた。


 誰に聞かせるわけでもないのに「ったく」とつぶやき、焚き火跡に向かうと薪や小枝を組み直し、シキの冒険者証を半ば投げ捨てるようにその中へ置いた。

「火よ」

 そう唱えると、冒険者証からぼっと青い光が出て、小枝に火が燃え移った。


 冒険者証は簡易的な魔力マッチとしても機能するようにできている。野宿を余儀なくされることもある冒険者がいつでも火を熾せるようにという配慮らしい。はじめて俺が実践してみた時、シキは「え、なにその機能」と驚くように言った。「知らなかった」

「知らないって、冒険者証もらう時にギルドで説明されただろ?」

「ずっと前のことだから覚えてないけどさ、そんな機能言われたら真っ先に試してみたくなるのに知らないってことは、やっぱ言われてないんじゃないかな。うん、ギルドのミスな気がしてきた」

「あのね、ぼくはシキがギルドに登録する時も一緒だったけど、シキ、細かい説明なんて全然聞いてなかったよ。なんか受付の人がいろいろ言っている間も、子どもみたいに目をきらきらさせて、冒険者証眺めてただけだもん」

「ほら、そんなことだろうと思った」

「いやだって、冒険者証なんてさ、普通身分証明にしか使わないじゃん。それにアカネが仲間になってから火に困ることなんてなかったし」

「なに? 私はマッチ代わりなわけ?」

「いやそうじゃないけどさ」

「あんたコミュ障テイマーだから、ほかの冒険者との交流もないもんね。誰も教えてくれなかったんだね」

「うっさいよ」


 メラメラと火が揺れる。夢うつつに、過去の思い出が脳裡をよぎる。

 夜の帳が下り、星が瞬く。焚火に向けた顔と膝を抱える手の甲は燃えそうなほど熱く、吹き抜けていく風と底冷えに背中と尻がひどく冷たかった。

 ひとりの夜は久々だった。

 誰の笑い声もなく、誰の寝息も聞こえないというのが、こんなにさみしいものかと思った。

 さみしすぎて、悔しくて、悲しくて、喉が痛くなる。

 いい仲間だった。そう思う。

 俺には仲間以上の存在だった。

 影の中に潜める魔犬、人の姿を借りられる化け狐、そして伝説の不死鳥。

 それを束ねるシキは、まったく主人という感じがしなかったが、誰よりも俺たちのことを考えているのは知っていた。普段は抜けているシキが、極力俺たちを危険に晒さないよう立ち回っているのはわかっていた。

 だから本来気づくべきだったのだ。

「ここで待ってろ」と廃墟の前でシキが言った時に。

「今回はクロも連れて行けないんだ」と告げた時に。

 多分、シキは依頼者の狙いが、俺たちだとわかっていた。

 テイムされた魔物を——特に不死鳥のアカネを狙うならず者どもが実力行使に出てきたのだろう。

 だから俺たちをできるだけ遠ざけたかった。

 それで自分の身が危なくなることくらい、シキにだってわかっていただろう。

 だがあいつは「まあなんとかなるでしょ」と思ったに違い。

 

 ぱちん、と薪が弾けて崩れた。

 小枝に引っかけるようにして、シキの冒険者証を炭の中から引っ張り出して握りしめる。

 バカだな。

 本当に、死ぬほどのバカだ。

 焼けるほどの熱が手のひらを焦がし、喉が、目の奥が、少し熱くなった。

 また遠くから、クロの声が聞こえた。

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