何回くらい吠えたんだろう。

 喉がひりひりと痛み、声はぼくのものじゃないみたいに掠れていた。


 夜が迫ってきていた。

 天井の穴から差しこむ日差しは次第に弱く傾き、空の青は濃く深く、暗さを増しはじめている。


 いつもならとっくに旅の足を止めて、テントを張っている時間だった。

 こんな時間から野営の準備をするんじゃ遅いのに、ぼくはまだひとりでいる。


 ぼくらはいつも、街道を歩く誰よりも早くキャンプをはじめたものだった。

「だって日が暮れてから歩きたくなんてないだろ?」

 シキはよくそう言っていた。「薪を集めたり、水汲み行ったり……野営の準備って時間かかるからさ、そういうの明るいうちにやりたいじゃん」


 そうは言うけれど、火をおこすのはあっという間で、アカネが枯れ枝にふっと息を吹きかけるだけで良かった。

 薪を集めてくるのはぼくの役目だ。

 みんなの水筒を首から提げて、影から影に移って川まで水を汲みに行くこともあった。


 ギンはいつも手伝ってくれない。

 いつだって人間に化けたまま、本を読んだり、昼寝をしたりして暇を潰していた。少年姿のこともあれば、女の人のこともあったし、腰の曲がった老人を演じていることもあった。

「ねえ、ギンも手伝ってよ」

「いいけど……そしたらクロ、俺の皿洗いも手伝ってくれるんだよな?」

 ギンは読んでいた本から顔を上げて、ぼくの前足をちらりと見た。「何枚割らずにいられるか数えてようか」

 すぐそういうことを言うから、ギンは本当に悪い奴だ。


 シキが料理をはじめると、すぐにいいにおいが漂ってきて、よだれが溢れてきた。

 でも我慢。

「できたよ」と呼ばれるまでは、美味しそうに色づいていく肉のにおいを嗅いだり、焚き火に揺らぐシキの影を追いかけて遊んだり、アカネとおしゃべりしたりして過ごすのがいつもの光景だ。


「もうそろそろ食べられるかな?」

「まだまだ」

 アカネはどこか得意げに胸を膨らませる。「お肉は焦げるくらいが一番美味しいの。特に熊は焦げれば焦げるほど美味しい。肉!って感じがする」

 アカネは誰よりも長く生きているのに、時々ぼくらよりずっと若いんじゃないかと思うことがある。


 食べ終わる頃には日が落ちて、周囲が少し慌ただしくなってくる。


 街道を進んできた荷馬車が止まり、商人や旅客がバタバタと夜支度をはじめる。

 疲れ果てた冒険者たちが「どうも」と小さく会釈をして、少し離れた場所で火を熾しはじめる。

 御者が自分の馬をいたわるのが聞こえ、ギンががちゃがちゃとお皿を洗う音がする。

 アカネはいつもギンにちょっかいをかけるから、ギンが舌打ちしてまたアカネが笑うのが聞こえる。


 ぱちぱちと、焚き火が弾ける。

 ぼくは満腹で眠くて、シキはぼくのお尻を枕にして大あくびをしている。


 見れば焚き火に照らされて、鼻が赤く輝いている。

 ぱたんと一度尻尾を振ると、シキは「くすぐったいな」と小さく笑った。

 シキの頭は心地良い重さで、温かくて、余計に眠くなった。


 もう、誰もいない。

 なんの音も聞こえない。


 暗い廃墟に、音もなく風が吹く。

 土埃が舞い、忍び込んできた蠅が羽音を立てる。

 冬の風は凍えるようで、血に濡れた体から体温を奪っていた。

 横を見ればシキの白い顔が月明かりに照らされていた。


 シキの体はぼくよりもずっと冷たい。

 閉じたまぶたが眼球の形に張りついていて、唇はかぴかぴに乾いている。

 鼻のてっぺんが乾燥してひび割れていて、いたずらに引っ掻きでもしたら、そこからバリッと音を立てて破れてしまいそうだった。


 思わず目を逸らした。

 吠えて、吠えて、夜になるまで吠え続けているうちに、シキだったはずの肉体がシキのものじゃなくなってしまったように思えた。もう絶対離れないと決めたはずなのに、無性にここから逃げ出したくなってくる。


 飲み込んだ唾が、ひりひりと喉を焼いた。


 水が飲みたい。そう思った。


 ひどく喉が渇いていた。

 一度意識してしまうと耐えきれないくらい、体がどんどん渇いていくような気がした。

 

 水筒はキャンプに置いてきてしまった。

「依頼人」に指定されたこの廃墟は人里離れた森にあった。


 ぼくらは昨日のうちに森に入り、廃墟にほど近い涸れた川辺でいつものようにキャンプをした。

 まだテントも張りっぱなしだし、シキのリュックや食材バッグもまだ倒木に立てかけたままだ。

 水筒だってそこにあるはずだ。


「置きっぱなしでいいのか?」

 今朝野営地を出発する前、ギンの言葉にシキは「大丈夫」と頷いた。


「この先の廃墟で十二時に依頼人が待ってるってことしか、まだわからないんだ。依頼内容を聞いているうちに遅くなるかもしれないし、村に戻れるかもわからない。今晩はここでもう一泊しよう」

 シキは中古の短剣をベルトに挟み、にこやかに言っていた。「キャンプはいつだって楽しいしな」


「用心しろよ、どんな依頼かもわからねえんだろ? この手の依頼がまともだったことないだろ」

「ま、大丈夫だよ。いつも通りなんとかなるって」

「でも荷物まで置きっぱなしにするのは、いくらなんでも不用心すぎない?」

 アカネが首を傾げる。「私、残って見てる?」


「平気平気。多分だけど、この森には盗賊なんていないと思うよ」

「そんなのわかってる。こんな森、盗賊どころか人っ子ひとりいないわよ。私の魔力探知は無敵なんだから。私は熊とかゴブリンとか、そういう奴らの心配をしてるの」

「え、近くにゴブリンがいるわけ?」

「いるわけないじゃない。私の魔力見て逃げ出したわ」

「……じゃあいいじゃん。アカネがいればゴブリンだって逃げ出すんだ。熊なんて絶対出てこないよ」

「そもそも熊は今、冬眠してると思うよ」

 ぼくの言葉に、シキは「確かに」と笑った。


 アカネが飛び去ってしまった今、あの荷物は荒らされていないだろうか。

 数日分の食材を詰め込んだバッグはゴブリンにとってお宝だろう。

 あれは在庫わずかな食料品店で、シキが頼み込んで買わせてもらったものだったのに。


 見てこようか。

 ついでに水筒を持ってきて、置きっぱなしにした食材も取ってくればいい。


 そうすればこの渇きを潤して、今よりもずっと長くシキのそばにいられる。

 シキのために捕ってきたウサギも、まだテントの近くに置いてある。

 あれを持ってきてもいい。


 幸い今は夜だ。

 影から影に移動すれば、ほんの十分くらいでキャンプ地までは行って帰ってこられるだろう。


 でも……。

 ぼくはまたシキを見る。


 水分を失い、血を失い、体温を失い、魂すら失った人間の体。

 皮は骨に張りつくようで、皺は折り目をつけたみたいに深く刻まれている。


 取り返しのつかない姿。

 ほんの少し目を離しただけでシキはこうなった。


 あの時、一緒についていっていれば。

 片時も離れなければ。

 きっとこうはならなかった。


 なんで今日に限って、「ここで待ってろ」なんて言ったんだろう。

 いつもみたいに「影に隠れて守っててくれよ」って言ってくれれば。

「ピンチの時には助けてね」って命令してくれれば。


 無理を言ってでもシキのそばを離れなければ、きっとぼくは今頃、あの野営地でウサギ肉の新レシピを食べて、シキの頭の重さを感じながら、うとうとしていたはずだ。


 喉が渇いた。

 お腹が空いた。

 水が飲みたい。

 なにかひとつでも、口に入れたい。


 でも、ぼくは動かなかった。

 また目を離したら、今度は顔の形すら変わってしまうんじゃないか。

 そう思ったら、とてもじゃないけれど動けなかった。

 

 寒風が吹きつける。

 シキの髪が揺れ、乾いた皮膚の上で影が怪しく躍る。

 

 ふと、シキの顔が別の誰かに見えた気がした。

 ぼくはぶんぶんと首を振って、またぺたりと顔を伏せた。

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