序章3. ギン


 アカネが飛び立ってしばらくしても、俺は人間に化けたままその場に立ち尽くしていた。


 胸のうちがぶすぶすと燻り、体中から煙が出ているようだった。

 クロの遠吠えが耳鳴りみたいに、がんがんと頭を叩いている。


 ふざけんな。

 それしか言うべき言葉が見つからなかった。


 ふっざけんな。だから俺は怪しいって言っただろうが。

 怪しくないわけがない。こんな人っ子ひとりいない森の中のさびれた廃館で会いたいなんて、まともな依頼とは思えない。


 くそ、と苛立ち紛れに唇を噛むと、血の味が口に広がった。

 

 隠れてでも一緒について行くべきだった。

「依頼人と話してる間、クロたちはここで待っててくれ」なんてあり得ない約束など端から守るべきじゃなかった。

 全部が全部、きな臭すぎた。


 ……でも、シキはきな臭い依頼で食べているようなものだった。


 シキは冒険者として異質だった。

 伝説の不死鳥——アカネのテイムにはじめて成功したテイマーだから、というだけではない。


 どんな影にも隠れられる魔犬に、危険地帯でも死ぬことなく情報を持ち帰る不死鳥、なんにでも化けられ、人間の言葉を話す化け狐。


 そんな俺たちを取りまとめるシキは、冒険者というより探偵に近かった。

 そんなシキに舞い込んでくる依頼が気楽な「ゴブリン退治」なんてことあるわけがない。


 怪しい依頼は山ほどあった。

 それでも成功を積み重ね、成功した数だけ恨まれることになった。

 だからいつだって俺たちはひとところに定住せず、町から町を転々として過ごした。


 感謝されることもあった。

 この町では長く暮らせるかもと思ったことも、そりゃあ、あった。


 だが恨みなど買わなくても、不死鳥を我がものにしようと画策する奴らはどこにだっていた。

 調査が得意な冒険者として売っていたくせに、アカネをテイムしているシキはひどく目立ち、隠密にまるで向いていなかった。


 だからこそ、俺たちがシキを守らなきゃいけなかったんじゃないのか?

 それなのに……。


 くそ、と首を振り、アカネが去った空を見上げる。

 不死鳥の涙は万物を治す。シキに涙を擦りつけたのを見て、まさか、と思った。まさか死者すら蘇らせるほどのものなのか、と。


 だがしばらく待っても、シキはぴくりとも動かなかった。ただアカネが残していった一陣の風が、シキの前髪を軽く揺らしただけ。


 あの涙はアカネなりの感謝だったのだろう。

 紛らわしいことを。


 アカネと過ごすようになってはじめて、「不死鳥の涙は万物を治す」なんて作り話なんだと知ったけれど、こんな場面でやられたら誰だって迷信に縋りたくなってしまう。


 だがもう、シキの魂は永遠に失われた。

 伝説級の魔物をしてなお取り戻せないほど遠くまで逝ってしまった。

 こんなバカみたいに怪しい依頼で、あっけなく。

 

 くそ、くそ、くそ!

 一体誰がシキをやったんだ。

 絶対に見つけ出して殺してやる。


 だが周囲にはなんの気配も残っていない。

 辛うじて転移魔法を使った痕跡はわかる。


 でもそれだけだ。辺りを見回して、五感をすべて使い、慎重に痕跡を見つけようと探っても、血のにおいにすべてが掻き消されている。

 生きた人間の痕跡など、もうどこにもない。


 誰にも気取られず犯人は逃げ去り、そうしてすべてが失われた。

 シキの命が潰え、主従の繋がりが消え、復讐しようにも犯人の手がかりさえない。


 クロがまた吠える。

 クロの遠吠えは痛いくらいに脳を揺らし、神経を逆なでしていく。


「うるせえ! さっさと行くぞ!」

 びくりとクロが体を震わせる。

 だがすぐに悲しさが溢れてきたらしい、喉を鳴らし大きく吠えた。

 黒い毛が逆立ち、靴下を履くように白い四つ足は血で赤く染まっている。


「いつまで鳴いてるつもりだ! ここで吠えててもしょうがねえだろ!」

 言いながら、思いっきりクロの体を押す。「いいから行くぞ!」


 だがクロはびくともしない。やだ、と首を振り、まるで石になったみたいで、頑なに血の海から動こうとしなかった。


 イライラした。

 とにかく、イライラした。


「ふざけんな!」

 思わず叫んだ。「もうどうにもならねえんだよ! ここにはもうなんもない! お前だってわかるだろうが! シキは死に、犯人は逃げおおせた! アカネの涙も、効きゃあしなかった! ここにいて、俺たちにできることはもうなにもないんだ!」


 クロは動かない。 

 だから俺は思いっきりクロを蹴った。

 だがクロは動じない。

 もうなにがあっても、主人の横から離れないと決意するかのように、ぎゅっと体を固くしている。


 ふざけんな! ふざけんな、ふざけんな!


「死にてえのか! 心配してやってんのがわかんねえのかよ! お前自分がどうなるかわかってんのか? テイマーが先に死んだ時、テイムされた魔物が……使い魔がどうなるか知ってんのかよ!」


 クロは動かない。

 それどころか、伏せるように顎の先まで血染めの大理石にぴたりとくっつける。


「教えてやるよ! 殺されるんだ! 人間からしてみりゃ、テイムを外れた使い魔は正真正銘ただの魔物だ。人間社会を知り、能力を磨き、野生の魔物とは知能も違う『名前つき』だ。ビビりの人間どもがそんな魔物を放置できると思うか? ギルドはなんのためにテイムした魔物の登録を義務づけていると思ってる!? お前は逃げるしかないんだよ!」


 それでもクロは動かない。

 まるで亡骸になった主人から離れないことが、忠誠を示す唯一の手段だと思っているみたいだった。


 ふざけんな、と叫びたかった。

 そんなわけないだろ。


 こんな状況で、シキが自分のそばに留まっていてくれなんて言うとでも思うのか?


 危険を犯してでも、死んでしまった自分の体をずっと守ってくれなんて、頼むと思うか?


 シキはそんな薄情な奴だったか?

 そんなのちょっと考えればわかる。わかるだろ!?


 でも俺がなにを言おうと、きっとクロは動かない。

 激情が血管を駆け巡り、むなしさが胸の奥底からごぼごぼと湧き上がった。


「ああ、もう勝手にしろよ」

 そう吐き捨てて、ぐるんと体を捻る。

 視界が低くなり、体が白い体毛に覆われる。

 三本の尾が墨をつけたように赤黒い血で染まっている。


 外に出ようとすると、自分の足跡が赤く点々と染まった。

 

 許せねえ。

 ただ俺はそう思った。


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