第5話

 秋葉原駅東口から総武線に乗って新宿まで出た。車中、おれと大原の会話はなかった。これから夜を徹して飲み明かすのかもしれないのだ。こんなところで無駄口を叩いても、のちに禍根を残すかもしれない。その大原の判断は適切だった。

 おれはスマホで「新宿 バー オーセンティック」をキーワードにこれから行く飲み屋を探した。新宿で、そういったバーなら殴り合いの喧嘩になってもそれを取り押さえられる店員なり何なりがいると思ったからだ。

 候補は三店あった。そのうち最も駅に近い店へ行く事にした。大原には最初から行く店を決めていたかのように振る舞った。

 おれがスマホを眺めている間、大原は総武線の人混みの中に埋没しそうになっていた。

 ややもすると、おれも大原を見失いそうになった。「大原さん、新宿で降りるから」「はい」そう告げるだけにしておいた。

 総武線は時間帯的にもそこそこ混み合い、大原との距離は物理的にも心理的にもやや遠のいた。しかし焦る必要はない。今夜は葉月の話を肴にいくらでも飲む積もりだったからだ。

 新宿駅に着くと、殆どの乗客が降車した。おれと大原はその波に乗ってプラットフォームへ降りた。

「こっちだから」

 おれは大原を新宿駅南口へ誘った。そこから西新宿方面へ五分ほど歩き、雑居ビルの五階へ上がった。

「Bar Water Ruby」とあった。

 おれが扉を開けると「いらっしゃいませ」とバーテンがさらりと言った。大原はおれに続いてカウンター席に着いた。

 店はカウンター席が十席、ボックス席が三つあった。間接照明が店内をやや薄く光っていた。先客はボックス席を占めており、カウンター席はおれと大原だけだった。

 おれはまだ酔いが少し残っていた。大原はもう酔っていないようだった。ひょっとすると、葉月の夫であるおれに説教されるか殴りかかられるか、そんな事を警戒しているようにも見えた。

「メニューください」

「かしこまりました」

 バーテンがそっとおれたち二人の前にメニューを差し置いた。

 バーだけあってウイスキーが豊富に揃っていた。

「オールドパー、ストレートで」

 おれはろくにメニューを見ないで注文した。次いで大原は「グレンフィディック水割りで」と注文した。

 酒が来るまでおれたち二人は無言だった。

 どうも大原は酒の勢いで無駄口を叩く性分ではないようだ。おれもどちらかといえばその口だ。

 酒が来た。おれたちは軽く乾杯して一口のんだ。

 大原が「何に乾杯したらいいんですかね」と問うてきた。

「そりゃ勿論、葉月のグッドデザイン賞受賞にだよ」

 大原は口先だけちょっと笑って見せた。

「それだけではないでしょう?」

 大原はおれの言葉を待った。

「じゃあ、葉月の今後の成功を祈って」

 おれたちは二度目の乾杯をした。

 またしばらくの無言が続いた。店内のBGMにはマイルス・ディビスの「Cookkin'」が流れていた。その音楽はおれたちの無言の穴埋めには丁度良かった。

「吉岡さんから誘われるなんて、思ってもみませんでした」

 それもそうだろう。おれだって葉月が「パートナー」と呼ぶ男とサシで飲むとは思っていなかった。

「吉岡さんが気になさってるのは、僕と葉月さんの関係がどこまで深いかって事ですよね?」

 おれは「ああ。そうだ」と即答した。

「葉月さんはあくまでも仕事仲間です。他にも似たような仕事仲間は十数人います。そのグループの輪の中に入っているんです。僕ぐらいの年齢になると、デザイナーとしてはベテランの方で、何かと後輩たちの面倒を見ています。あ、それは葉月も同じですよ」

 フリーランス同士でもそれなりの仲間内があるって事か。それは確かにありそうだ。

「あ、さっきから葉月って下の名前で呼び捨てにしてるのは許してください。普段そうしていますし、他の連中も同年代の人間はみんなそう言ってますんで。ここへ来て改めてさん付けで呼ぶと、どうも却って吉岡さんに失礼かなと思いまして」

 それはさっきからおれも気にはしていたが、敢えてそれを黙っていた。普段の大原がどう葉月に接しているか、その有り様を知るために黙っていたのだ。

「みんなから下の名前で呼ばれていますから、結構古株の仲間内でも、葉月が結婚して名字が変わったのを知らない人もいるんですよ。聞いたところによれば、吉岡さんと葉月の結婚式は仕事関連の知人を呼んでいなかったそうですね」

 そう。確かにそうした。というのも、おれも葉月も仕事とプライベートを完全に隔てたかったからだ。フリーランスの葉月にとっては結婚式もまたビジネスチャンスを掴む場にできたであろうが、そうはしなかった。そこに葉月の仕事に対する姿勢が窺えた。

 おれは大原の言葉に頷きながら応えた。

「ああ。あの頃はまだ若かったし、プライベートと仕事を切り離すのが大人のやり方だと思い込んでいたんだよ。だけど今となってはどっちでもよかったね。ちょっとした勘違いだったんだよ」

 大原はグラスに一口つけた。

「結婚するのって、大変だって言いますよね。吉岡さんも大変だったんですか」

 大原がついに葉月のプライベートまで踏み込んできた。しかもおれをダシに使って。おれはどこまでを言っていいのか即断できなかった。というのも葉月は未だにプライベートと仕事は完全に切り離している。その手前、夫が葉月の日常を仕事仲間に暴露するのは、せっかく葉月が築き上げてきたビジネス面での葉月の顔に泥を塗るような行為に思われたからだ。

「いや、普通に大変だったよ。赤の他人が急に同居するんだからね。おれはサラリーマンだけど葉月はフリーランス。この違いが一番大きかったかな」

 大原はすっと息を吸い込んだ。

「僕の場合は結婚相手は同業者と決めてるんです」

 ほう、とおれは大原を見た。

「なんせ収入が不安定で家なりマンションなりを買うにしても、銀行の審査で落ちますからね。そういう社会的な利害得失を理解してくれる相手じゃないと結婚できないんです」

 フリーランスはフリーランスでそういった制約もあるのか。知らなかった訳ではないが、いざその張本人を眼の前にすると、現実感がひしひしと伝わってくる。

「ですから、気が付きました? さっきの一次会でその僕の将来の結婚相手がいたのを」

 え? いたのか?

「いや、全く気付かなかった」

 大原は伏し目がちに言った。

「どう考えても僕の結婚は吉岡さんと違って安泰にはいきそうにないんです。なんせ稼げる時に稼いでおかないといけないんで。こんな話、ご存じですか」

 大原は言葉を繋いだ。

「フリーランスは年齢を重ねると仕事が減っていくんです。何故かというと、クライアントのサラリーマンたちは自分より年下のデザイナーを使いたがるんです。そりゃ、そうですよね。無茶な納期を迫ったり、無理なリライトを要求するんですから。そんな事を年上の社会人人生の長いフリーランスにお願いできっこないんですよ。ですからフリーランスもある程度の実績なり、まあ権威じゃないですけど、箔が付いていないと、将来先細りなんですよ」

 おれは葉月がグッドデザイン賞受賞の歓声で「もうこれで食いっぱぐれないわ!」と言っていたのを思い出した。そうか。そういう理由もあったのか。

「で、大原さんはその箔が付く見込みはあるの?」

 大原は俯いてしまった。

「全くですよ。普段の細かい仕事をこなして納期を守るのに必死になってるだけです。デザイナーの生活なんて惨めなもんですよ。一日中PCと睨めっこでマウスを握りしめてるんです。そのお陰で右肩ばっかり凝っちゃって。まあ、その程度なら良いんですが、将来の展望が見込めないんです。この仕事をしていると、いつ誰がヒットしてもおかしくないんですが、そんなのはほんの極一部なんです。言い換えれば誰にでも大成できるチャンスはあるんですが、殆どは世間の底辺で暮らしてるんです。それでいい歳して妻子持ちにもなれず、いつまでも夢ばかり見て作業に追われる生活を送ってるんです。デザイナーに限らず、クリエイティブな仕事をしている人の殆どがそうなんじゃないですか。フリーランスの仕事なんて、結婚できれば御の字、子供までできて生活に困らないようであれば大したものですよ」

 そういった社会的弱者に進んでなったのは自分自身であり、それを予見できなかった自分に全て責があるだろうが、と言ってやりたかったが止めておいた。大原は結婚を考えている相手がいると言っていたからだ。その前途を暗い道しかないぞ、と脅かすのは何か憚られた。

「しかし考えようによっては、同業者と結婚するなら、それはそれでいいじゃないか。お互いのプライベートさえ尊重し合えれば気楽な生活を送れるんじゃないかな」

 大原は気を取り直したというより開き直った顔になった。

「ええ。ですから自分の人生は自分で切り開かなくちゃならないんです。それは結婚相手も同じなんです。どうにかして苦境に陥らないように頑張るしかない。その恐怖を糧に今の仕事に精を出すしかないんです。そう思えば葉月はラッキーですよ。吉岡さんみたいな身持ちの堅い方と結婚できて。もし葉月に何かあったとしても、ちゃんと吉岡さんがフォローできますしね」

 まあ確かにおれは葉月の生活をフォローしている。具体的には家事全般をおれがやっている。その程度で今は済んでいる。しかし、大原の言うように、大病したり老いて体が動けなくなった場合はどうするのか。我々夫婦にはその介護をしてくれる子供がいない。どちらかが先に逝ってしまえば社会の中で孤立無援になるのだ。大原はそこまでうちの事情に通じていないのだろうか? 流石に葉月も夫婦間の込み入った話は仕事仲間には伝えていなかったようだ。

「吉岡さん、それにお子さん何人います?」

「いや、うちに子供はいない」

 大原の顔が驚きに満ちた。

「そうだったんですか。てっきり二人ぐらいはいらっしゃるのかと思ってました」

「どうしてそう思った? 葉月が何か言ってたのか?」

 葉月がプライベートと仕事をほぼ完全に分けているのは知っていた。しかし、子供の事になると葉月はおれに一切を拒否してきた。それが仕事仲間には伝わっていなかったのか。

「葉月が結婚する時、珍しく自分の事を喋ったんですよ。『バンバン子供産むぞー!』って」

 大原は気安くそう言ってくれたが、それはおれと葉月にとっては大問題だ。おれは一息ついてグラスを口に運び、大原に訊いた。

「本当に? それ本当に葉月が言ってたのか?」

「ええ。本当ですよ。あのロジカルでプライベートを一切見せない葉月が、自分語りをしたんですから。あんな葉月を見たのはその時が最初で最後です」

 そうか。そういう事か。

 葉月がおれと大原を引き合わせたのは、かつての自分との決別のためでもあり、その過去の一切を振り切って新たな一歩を踏み出すための助けを欲しているからなのだろう。葉月はおれの体質のせいで子供を諦め、仕事に賭ける道を選ぶしかなかったのだ。そこでプライベートではおれを、仕事では大原をパートナーとして生きていく決心をしたのだろう。

 自分の持つ二面性を互いに暴露し、その一本化を図り、本来の自分を露呈させる――それは過去の自分と現在の自分、ひいては未来の自分を正面から向き合わせ、何も隠し事のない本来の自分を現出させるプロセスに他ならなかったのだ。その過去と現在をまずは引き合わせる。それがおれとこの大原とを対面させる事だったのだ。

 葉月は強い。しかしどんなに強い人間でも弱みの五つや六つはある。その急所すら自ら暴露させて弱みを強みへと変化させる。それが葉月の狙いだったのか。

「葉月がそんな事を言ってたなんて、初めて聞いたよ」

 おれは大原にそう言うと、もう一口グラスから飲んで、大原を見た。

「やっぱりそうだったんですね。葉月、結婚してからも子供の話は一切してませんでした。いくらプライベートと仕事はきっちり区切っていても、赤ん坊がいれば、熱を出したとか保育園から緊急の連絡が入ったとか、色々急な用件が入るのが普通じゃないですか。でも葉月にはそれが一切なかったんです。僕も気にはしていたんですけど、相手があの葉月ですからプライベートな事を聞くに聞けなかったんです」

 大原は大原で気を揉んでいたのか。

 いくら下の名前で呼び合うほど仲が良くても、葉月の性行を知っていればプライベートな部分は出さないと、大原は踏んでいたのだろう。

「どうして子供を作らないのか訊いた事、ある?」

「いえいえ。そんな事、訊けませんよ。葉月と会う時はいつも仕事の時か、その打ち上げの時でしたから、仕事意外の葉月がどんな感じなのか全く知りません。しかし葉月の時間の使い方からすると、本当は誰にも内緒で離婚してるんじゃないかとすら思ってましたから」

 そういった酒の席でさえ、葉月はプロ意識をもって営業活動していた訳か。なるほど、酔って帰ってきても疲れ果てていた様子を見せていた理由が分かった。

 そういう葉月も、何も一人で全てこなせきれていた訳ではない。そう、葉月自身が言っていた通り、仕事のパートナーは大原で、プライベートのパートナーは夫であるおれだ。その両輪が上手く噛み合ってきたからこそ、いままで仕事もプライベートも上手にやってこれたのだ。

 その葉月という一人の人間を支えている二人は、不思議なことに今まで一面識すら持ってこなかった。

 おれと大原は葉月という一人の人間を社会人として起立させるために不可欠な存在の筈だ。だがその裏方の二人は葉月自身の「プライベートと仕事は切り分ける」という信念のもと、互いにそうとは知らずに葉月に助け出していたのだ。

 その裏方同士がここにいる。互いに同じ葉月という人間を見守ってきているが、その葉月の多面性のためにお互いの知っている葉月は別人だ。おれは葉月の仕事に関して口出しはしてこなかったし、どうも大原も葉月のプライベートには無知なようだ。

 葉月はこの二人を会わせて初めて自分自身がどういう人間なのかを知り得るのだ。

 それは葉月自身のアイデンティティの確立でもあり、二人の男に頼り縋って生きてきたことを白状する事でもあった。

「離婚なんて話、今まで一度も出てきた事がないよ。そりゃ、葉月の生活態度は無茶苦茶だよ。だけどそれを知っていて結婚したからね。それに年齢ではおれの方が年上だけど、なんだか姉さん女房をもらった気分なんだ。何て言えば正確なのか分からないけど、葉月はおれより大人で人格者なんだよ。おれらの結婚生活は恋愛の延長線上にあるだけじゃなくて、互いに尊敬している部分もかなり大きいね。だから深夜にへべれけで帰ってきてもフォローはするし、葉月の仕事中は声をかけない。そんな些細な事の積み重ねでおれらは生活しているんだよ」

 大原は感心しきりだった。

「そうだったんですか。いや、いつも葉月は仕事が早いんで、どうやってそれだけの成果物をあげられるのか不思議だったんですよ。締め切り厳守は勿論、パターンAからFまで用意する事も結構ありますし、夜はクライアントと飲みに行きますし、一体いつ机に向かって画を描いてるんだろうと。それに気分の上下もなくいつも上機嫌で自分のメンタルを維持するのも大変だと思ってたんですよ。いや、なんせデザイナーでしょ? 芸術家気取りで不機嫌だったり偉くもないのに偉そうににしたり、この業界、結構面倒くさい連中が多いじゃないですか。でも葉月はそんなところが微塵もない。どうやってそのメンタルや所作・仕草が保てるのか、吉岡さんと会って分かった気がします」

「仕事中の普段の葉月はどうなの?」

「いや、ロジカルで寬容で、正に優秀な人材ですよ。常に笑顔ですしクライアントの要求はすぐに飲み込めますし、何て言ったらいいんでしょうか。誰とでもすぐ阿吽の呼吸ができるんですよ。葉月のコミュ力は抜群です。端から見てると不思議なんですよね。誰とでも垣根を作らないですし、かといって何でも引き受ける訳でもない。ちゃんとノーと言わなければいけないところはノーと言えるんです。言われた側もこちらに不備があったのかな、と思うほど的確な返しをするんです。ですから味方も多いんですよ。ですが……」

「何か?」

「なんせフリーランスですからね。契約が切れればそれでお終い。以後のことは知りませんが、ただクライアントに使い潰されてるんじゃないかと思う事はあります。こう言っては何ですが、時々気の毒に思う事もあるんです。毎日の締め切りに追われて身を粉にして働くのがフリーランスなんです。葉月ほどの人材がフリーランスでいていいものなのか。そう思うんです」

 以前葉月から聞いた事があるのだが、デザイン事務所に入らないか、という誘いを三度断ったのだそうだ。その理由は前述した通り。葉月はあくまで自由でいたい、拘束されるのを非常に嫌がっているからだ。それは本人も自覚があるのだが、大人の判断ではない。その一点のみ、葉月はまだ大人になりきれていなかったのだ。

「しかし、葉月はあの性格だろ? 今からサラリーマンやれって言っても本人が受け入れるとは到底思えないけどね」

 大原は毅然とおれに言った。

「しかし、あの才能を使い潰すには非常に惜しいと思いませんか? 葉月はもっと世に出るべきです。今回のグッドデザイン賞受賞で分かりましたよね? 葉月には才能があるんです。本物の才能です。これを活かさずにいられますか?」

 つまり、葉月を全面的にバックアップして食っていこうという事か?

「しかし、当人にその気がないんだから、いくら口説いたって無理だろう。大原さんとおれは、今まで通り葉月の言うパートナーであれば充分じゃないか。それに今回の受賞で葉月の仕事にも弾みがつくだろう。それをサポートしてやるだけで充分じゃないか。葉月は既に世に出ているんだ。後は本人次第じゃないかな」

 大原はおれが賛同してくれると予想していたらしく、おれの言葉に虚を突かれた態だった。

「そうですか……てっきり吉岡さんなら葉月の才能を押し出してくれると思っていたんですが……」

 おれはその言葉に付け加えた。

「いや、何も葉月に才能がないだとか能力不足だとか言ってるんじゃない。本人の意向の問題なんだ。葉月は葉月で今の生活に充分満足している筈だ。これは夫だから言えるんだが、葉月は確かに過労気味だが、自分の人生を充分に楽しんでいる。大原さんはオフの日の葉月を知らないから意外だろうが、葉月は常に自分の人生を楽しんでいるんだよ。今の葉月は名誉も欲しがっていないし功名心もない。純粋にデザインを、今の仕事を楽しんでいるんだ。そこはちゃんと周囲にいるおれたちが理解してやらなきゃならないんだ」

 大原は俯いた。どうもこの男は葉月を使って金か名誉か、その両方を得ようと企んでいるらしいが、おれがそうはさせない。もし何かしら画策を練るようだったら、葉月を口説いてこいつから縁を切るように言ってやる。仮にもおれは葉月の夫だ。葉月の思うがままにさせてやりたい。

 大原は「何も分かってないんですね」と小さく言った。

「そろそろ本音を吐いたらどうだ。葉月を使って何を企んでいるんだ?」

 大原は溜息混じりで小声で言った。

「もうそろそろ個人事務所を持った方が良いんじゃないかと計画していたんですよ」

 やはり金か。

 ビジネスパートナーとしては、より多くの金を集める方策を練るのは正しい。しかし、それは葉月が本当に望んでいたならば、の話だ。

 葉月は一匹狼に近い。時には折れそうにもなるがデザイナーとして立派に根を張った大木だ。

 葉月の性惰を考えると、個人事務所という手もなくはない。しかし、本来から自由人の葉月にとって、その作品のクライアントと、葉月の間に誰かが挟まるのを良しとしていないのも前述の通りだ。葉月の手腕は、あくまでクライアント側の責任者と直に話をしてきたからこそなしえたものであって、事務所や会社組織の中でちんまりと企画書を眺めて作品を創るタイプではない。葉月の創作の源はそのクライアントの根源と直接対話してきたからこそのものだ。

「大原さん、よく考えてみてください。葉月の今までの仕事のスタイルを。葉月は事務所に鎮座して営業が仕事を持ってくるのを温和しく待ってるタイプじゃないんですよ。葉月も言ってましたが、直接クライアントの担当者と顔を合わせて、何が欲しいのかを確かめてくるのが葉月のやり方なんです。ですから個人事務所を持って、営業に仕事を取ってこさせるスタイルは葉月のやり方にそぐわないんですよ。その点、気付いてました?」

 大原は小首を横に振った。

「何となしですが、その点が気になってました。ですがそのやり方では葉月はいつまでも一フリーランスになってしまいますよ。葉月の作品を広めるためには営業マンと宣伝部隊が必要です。仕事のやり方は変えずに宣伝マンたちに広報活動をさせて営業をかけるんです。それが葉月の創作を世に知らしめるために必要なんだと考えています。グッドデザイン賞を受賞した今、まさにそのチャンスだと思いませんか」

 大原は大原なりに葉月のために戦略的な必要を考えていた、と言いたいらしい。

「しかし、個人事務所を構えて葉月の仕事のやり方を変えるならおれは反対だ。それにその従業員たちを雇って事務所を設立する原資はどこから調達してくるんだ? たかがデザイン事務所に出資してくれるエンジェルはいないと思うが」

 大原は淀みなく反論した。

「そこは我々フリーランスの仲間でなんとかする積もりです。幸い、フリーランスはサラリーマンよりもずっと顔が世間に知れてますから。それに銀行さんの与信調査をパスできる自信はあります。なんせグッドデザイン賞受賞ですからね。今が飛躍のチャンスだと思いませんか? 吉岡さんは葉月の日常生活面しかご存じない。今この瞬間が葉月のビジネス面での最大のチャンスなんです。もし葉月のパートナーとして見るなら、このチャンスを活かす方向で葉月を説得してもらえませんでしょうか」

 おれは即断できなかった。あの天真爛漫・自由奔放な葉月が一国一城の主が務まるのだろうか? それに葉月はデザイナーとしては優秀だが、その経営センスは全くの未知数だ。いや、経営のトップは大原がその座につく心積もりなのだろう。

 つまりは、大原は葉月を使役して金を吸い上げる。そういう見方もできる。

 葉月の自由を守るためには葉月を野放しのフリーランスのままにさせておくか、伽藍に閉じ込めてご神託を告げる巫女にすべきか。

 子供のいない我が家では葉月は母親としての時間を持つ必要がない。それだけに仕事に邁進してきた。それはこれからも変わらないだろう。ならば今後の飛躍を考えて個人事務所設立も悪くない考えだ。しかし、大原もただのデザイナーに過ぎない。その職能が経営者として適任かどうか、なかり疑わしい。加えて、金の流れだけははっきりさせておかなければならない。これらは酒席で話し合うような事ではない。そこに大原は気付いていないのが引っかかった。

「大原さん、もっと具体的な案があってそう言ってるの? 今の話だけだと、取り敢えず会社を作っても仕事がない、なんて状態になりそうだけど。おれはね、そういう無理な独立をする人間を沢山見てきたんだよ。まあサラリーマン生活が長いお陰でね。独立するならまず仕事があって、その税金対策で法人化した方が金銭的に得になるようじゃないと、独立は難しいよ。誰が社長に就いて、誰が宣伝に廻って、誰が営業に廻って、誰がデザインするのか、具体案がないなら、葉月のパートナーとしてその話には乗れないね」

 大原は即答した。

「今の段階ではまだあちこちにオファーをかけてる段階です。ですが実現できそうな手応えはあります。それに急には人間は動けません。皆それなりに今の仕事がありますし、本当にそれで食っていけるのかどうか、その判断に時間がかかるんです。早くて今年の夏、遅くとも秋までには各方面のスタッフから返事がもらえる予定です。それまでに吉岡さんからも葉月を説得していただけないでしょうか。これはチャンスなんです。今が攻め時なんです。葉月がただのフリーのデザイナーで消えていくのを防ぐためでもあるんです。その辺の利害得失をよくよく考えてみてください」

 おれが葉月の夫として言える事は「あまり仕事で無理をするな」。その一言に集約される。

 仕事熱心なのはいい。しかし、その熱が将来の自分のためになるのであれば、だ。

 葉月は何を持って大原をビジネスパートナーとして選んだのか、その理由が今の時点では不明だ。そこが肝心なのだが、もしそれがデザイナーとして優秀だからだとしたら、それはそこまでの話だ。売れる商品を創作できる人物が経営者として有能だとは限らない。いくら製品開発面では優秀でも、それが経営に必要な資質とは異なるのだ、

 ひょっとして葉月が「パートナー」として選んだ理由は、その商品価値の向上であって世渡りや経営センスを見込んでのものではないのではなかろうか?

 時折、サラリーマンの世界ではゴルフ場や喫煙所で重大な決定がなされているのは周知の通りだが、こと会社新設の話を飲み会の二次会でするのはあまりに軽率ではなかろうか。

 実はこの時この瞬間が葉月にとっての正念場なのかも知れない。

 おれは白状すると大原にその経営センスの有無があるかどうか疑った。その疑惑は今日明日で決断できるものではないが、真剣に検討する価値はあるのかもしれない。

 その判断材料を一番多く持っているのは、当人の葉月だ。なんせ「パートナー」と呼ぶぐらいだから、大原を一番よく知っている筈だ。

 これはチャンスか? 転落へのカウントダウンか?

 それは事後にしか分からないが、取り敢えず今夜は大原の話を聞き込んで、どこまで本気か、ロジカルに勝算があるかを調べ尽くしているかを探る事にした。

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