第4話

 その週はいやに早く時間が経ち、土曜日の夕方になった。

 おれは葉月と共に地下鉄東西線に乗り、茅場町で日比谷線に乗り換え、秋葉原駅の東口に出た。

 秋葉原はかつて電気街と言われたが、今となっては世界屈指の萌え萌えタウンになっていた。

 電気街当時の面影は家電量販店がそこかしこにあり、往事の盛況ぶりを今に残していた。

 が、それよりもアニメショップやコッテリ系の飲食店が多数建ち並び、昔の面影はごく僅かにしか残っていなかった。

 そんな中の一軒、葉月はおれを焼肉屋へ連れて来た。

 店内は早くも肉を焼く匂いが立ちこめ、酔い客たちが顔を真っ赤にして談笑していた。

 おれたちは奥の座敷席に通された。

 葉月の仕事仲間たちは既に六人ほどいた。男ばかりで二十代から四十代までが雁首揃えていた。

 方々から「お疲れー」の挨拶がした。

 六人は不思議そうにおれを見て、葉月がおれを紹介した。

「うちの旦那よ」

 六人は意外だ、と顔に表した。

「葉月ちゃん、既婚だったの?」

「そうよ。言ってなかったっけ?」

「全然」

「もう結婚して十四年になるわ」

「十四年! よくもまあ、そんなに長い間、隠し通せたね」

 隠し通したとは何事だ。失礼な。

「別にいいじゃない。早速乾杯しましょ!」

 葉月とおれはガラスコップを渡され、ピッチャーからビールを注がれた。

 男Aが笑顔で物々しく言った。

「グッドデザイン賞、受賞おめでとうございます」

 その一言を切っ掛けに方々から、おめでとうの声が掛かった。

 おれは仕事柄、デザイナーたちのその体臭と雰囲気をよく知っていたので、初対面の相手であってもその場の空気を読めた。

 つまり、大はしゃぎはしなかった。

 葉月は皆におれを紹介して廻った。

「どうも。葉月の旦那の涼介です」

「こちらこそいつもお世話になってます」

 そんな形ばかりの挨拶を繰り返していると、三々五々、他の仕事仲間たちが集まり始めた。

 結局、おれたち夫婦を入れて十五名になった。男十人、女五人。何だかんだで結構な人数だ。

 話を聞いてみると、おれを除いた全員がフリーのグラフィックデザイナーだそうだ。全く同じ職業の人間がこれだけ集まるのも珍しい。

 話の輪はあちこちで開き、最近のデザイナーはコンピュータに頼りすぎだとか、誰それの画集が良かっただとか、何かと仕事に関連した話ばかりだった。

 それもそうだ。フリーランスは会社員と違い、仕事に関連した話題を同業者同士で語り合う機会は少ないのだ。みな個人事業主であり、普段は自宅か自分専用の個室に籠もっての作業が多い。だからこういった飲み会での話は、実は貴重な情報交換の場でもあるのだ。

 そういったデザイナーたちの会話は奇妙ではあるが面白かった。

 まずマウス派かトラックボール派に別れる。

 マウス派は標準搭載のインターフェースを用いるのが当然だ、と主張する。

 しかしトラックボール派は、身体の構造上、最も運動能力の優れた利き手の親指を使わないのは非合理的だ、と反論する。

 いやいや、親指でのオペレーションでは細かい操作は無理でしょ、とマウス派。

 それができないのはただ不器用なだけで、慣れてしまえばトラックボールは無敵だ、とトラックボール派。

 トラックボールは高価だ。仕事の道具としてそれだけで用いるべきではない。

 いや、価格以上の価値はある。生産性にも優れていてトラックボールを使わない理由が見当たらない。

 等々……。

 その光景はSEがviかemacsかで揉めるのと同じように見えた。

 それぞれがお互いに自分の主張が正しいと信じて疑わない様は、よく言われるように宗教論争そのものだ。しかし本物の宗教論争ではなく、お互いがお互いの意見の違いを楽しんでいるように見えた。

 おれとしてはどちらであれ、成果物である作品を納期通りにプロのクオリティで仕上げてくれれば、その道具まで言及する積もりはない。

 おれはその論争を高みの見物をして楽しんだ。

 次に来た話題は納期についてだった。

 クリエイターは常に納期の追われている。

 そんな中で妥協と拘りの両岸に渡されたロープの上を綱渡りしている、との事だった。

「でも締め切りがないと手が動かないんだよねー」

 男Bが言った。

「何よそれ。プロなら締め切り前に提出して手直しの時間を貰うのが当たり前じゃない」

 女Aが反駁した。

「でもさあ、やっぱ夏休みの宿題は八月最終日から始めちゃうタイプなんだよね」

「そんな事が通じるのは学生の時だけよ。プロなんだからお金と時間は守らなきゃ駄目じゃない」

「それがねえ……締め切りの誤魔化し方って、あるじゃん」

 女Aはきっとした顔になり沈黙した。

「例えばさ、本命を一つ描いて、あと二つデッチ上げる訳。その三つを見せて『どれを納品しますか』って、クライアントに言うの。勿論クライアントは本命を選ぶでしょ。そこで『じゃ、追加の修正が必要ならまたお時間ください』って言うの。みんな、何だかんだで似たような事、してるでしょ?」

 苦笑いしながら男Bと男C、女Bが笑った。

 女Aは眉根を顰めた。

「駄作を二つもデッチあげる暇があるなら、その時間を本命の制作にあてればいいのに」

 男Cが笑った。

「できないんだなそれが。もし本当に制作に集中してたら、体力も保たないじゃない。仕事には休息が必要でしょ? その合間にやっつけ仕事をこなしちゃうんだよね」

 これは全員が頷いた。

 女Bが全員に訊いた。

「仕事が平行してる時って、みんなどうやってその仕事の切り替えをしてるの?」

 男Dが即答した。

「飲む。これに限る」

「真っ昼間から飲んでるの? あたし、お酒飲むとすぐ寝ちゃうわよ」

 と、女E。

「うん。昼夜構わず飲んでる」

「不健康ねー」

「創作の秘訣は酒にあり。昔のフランスの芸術家はアブサンを好んだって言うじゃないか。だからおれは飲む」

 女Eは男Dの言葉にドン引きした。

「いや、人には薦めないけどね」

 男Dは取り繕ったつもりだったらしいが、時既に遅し。女Eにはそれが不摂生でもあり怠惰でもあり、プロ意識の欠如にも思われたらしい。

「酒なんて好きな時に飲めばいいじゃないか。それができるのがフリーランスの醍醐味じゃないか」

 と男F。

「お酒なんてたまに飲むから美味しいんじゃない。普段から飲んでたら、ただのアル中よ」

 女Eはあくまで禁酒派だ。

「酒は百薬の長って言うだろ? 適度に付き合えばこれほど体に良いものはないんじゃないかな」

「そうかしら」

「これは薬全般に言えるんだけど、薬には効能と副作用が必ずあるでしょ? 飲み過ぎれば副作用が多めに出て、これじゃマズいってことになる。だから効能の方が多い分だけ飲む分には問題ないんだ!」

 女Eは「要するに飲みたいだけでしょ?」と男Fに言った。男Fは「そういう事」と白状した。

 男Hが真っ赤な顔で女Eと男Fの仲裁の入った。

「まあまあ、今日はお祝いなんだから、固い事言いっこなしでいこうよ。では改めて乾杯!」

 また一同が乾杯した。

「それでは今日の主役、相原葉月さんから一言!」

 葉月は話が振られてちょっと動揺していたが、のっそりと立ち上がった。

「えーと……皆さん、今日は私のためにお集まりいただきありがとうございます。今回のグッドデザイン賞の受賞は私になりますが、半分くらいはご指導・ご鞭撻いただいた大原泰治さんの功績です。大原さんのアドバイスや、特に色指定に関しては全くの大原のご指示によるものです。ですから私一人の受賞ではなく、大原さんにもこの栄誉があります。とはいっても書類上は私だけの受賞になりましたが、ちょっとそこは引目を感じています」

 その大原という男が「いいのいいの!」と声を上げた。葉月はその声の方を向いて軽くお辞儀した。

「大原さんはそう仰いますが、私にとってはかけがえのない師匠、いやパートナーです。これからもお世話になると思いますが、どうぞよろしくお願いします」

 葉月は一礼して満場の拍手の中、着席した。

 男Hが「じゃあ、次、大原さん!」と発した。

 その大原という男は全身黒ずくめのやや長い髪に髭、長身痩躯の男だ。歳で言えば大体葉月と同年代に見えた。

「まずは葉月さん、グッドデザイン賞受賞おめでとうございます」

 大原が一礼すると一同が一礼した。

 この男が葉月の浮気相手? いや、葉月はパートナーと呼んでいた。

 公衆の面前で下の名前で呼ぶぐらいだから、葉月とはもうかなり深い仲なのだろう。

「今回の受賞のお手伝いさせていただきありがとうございます。最初に葉月さんからピクトグラムの仕事の相談が来た時、私の中で『これはいけるな』という直感がありました」

 一同黙って大原の言葉を聞いた。

「葉月さんは常に多忙ですが、周囲の人々にも気を配り、して欲しい事は事前に察知して気を利かせるタイプなのは皆さんご存じでしょう。ですから、その洞察力には人並み外れたものを持っている、と思います。その葉月さんがあらゆる人を図案化するのは、葉月さんにとって容易い事なのではなかったかと思われます」

 葉月がいいえ、いいえ、と首を横に振った。

「葉月さん自身はどう思われているか知りませんが、葉月さんは人を見て、世間を見て、世界を見ている貴重な観察眼を持った方です。まずデザイナーに必要なのは――いや、絵描きに必要なのは――その対象物をよく観察する事です。思い込みや既成概念を廃して自分の眼でよく見るのが大事なんです。葉月さんはそういった能力に長けている方です。ですから今回の受賞も、私から見れば当然の結果だったと思います」

 みな大原の話を真剣に聞き入っていた。お世辞ではなくフリーランスの同業者というのは仲間でもあり商売敵でもある筈だ。その敵が敵を褒めているのだ。これはお世辞なんかじゃない。

「最初に葉月さんから手伝って欲しいとの連絡が来た時には、全ての図案が完成していました。葉月さんは色に悩んでいました。カラフルな色を配するだけなら誰でもできますが、例えば視力の弱った老人でも見えやすく、色弱の方でもはっきり見える色を付けたい、との事でした。私も色々調べました。老化すると青と黒が判別し辛くなる事、色弱の方は三原色のどれか一つだけが見えない訳ではない事など、私自身の勉強になりました。配色一つにしてもそういった心配りができる。それが葉月さんのデザインの特徴の一つだと思います。それを見抜いたグッドデザイン賞の選考委員もやはりデザインのプロなんだと思った次第です。今回の受賞は偶然ではなく必然だと思います。それでは皆さん、もう一度乾杯を!」

 大原の発声でまた乾杯した。

 乾杯が終わると葉月は大原の元へ行き、何か二言三言言葉を交わし、二人揃って私のところへ来た。

 話は葉月から始まった。

「涼介、紹介するわ。私の仕事のパートナー、大原泰治さんです」

 大原は小声で「大原です」と言って頭を下げた。おれもつられて「どうも」と会釈した。

「大原さん、こちらが私のプライベートのパートナー、吉岡涼介さんです」

 おれは葉月の「私のプライベート」という言葉を奇妙に思ったが、取り敢えず「吉岡涼介です」と名乗った。

 宴会は賑やかに進行していったが、我々三人だけは蚊帳の外で、実に微妙な雰囲気になっていた。

 葉月はどう思っているのか知らないが、葉月がパートナーと呼ぶ人物が二人鉢合わせているのだ。

 おれも大原という男も、葉月を知悉している積もりでいたのだが、その葉月の二面性のお互いが知らない部分を突き合わされた感がして、大の大人が二人して、どう接して良いのか分からなくなった。葉月にしてみればいつも顔を突き合わせている二人なのだから、全くの違和感を感じなかっただろうが、こっちは違和感だらけだ。

 おれの知らない葉月の社会人としての顔を、この大原という男は知っている。逆にこの男は葉月のプライベートを知らないらしい。

 おれと大原の知る葉月の情報を合致させて、初めて葉月の人となりが形成される。

 葉月はこの大原という人間が口を開くのを待った。こっちは法律的にも認められた正式な葉月の夫だ。葉月の正式なパートナーはおれの方だ。ここで先手を切るのは相手の下手に出るのを意味する。

 おれはひたすら大原が話しかけて来るのを待った。恐らくおれの表情は不機嫌だっただろう。

「吉岡さん、初めまして。大原泰治と言います」

「こちらこそどうも。吉岡涼介です」

 言う事に事欠いて、また自己紹介した。

 何故か大原が葉月の間男のような態度をとる形になっていた。。

「葉月とは長い付き合いなのかね」

 大上段から大原へものを言ってみた。葉月は不思議そうな顔をしていた。

「ええ、葉月さんが専門学校に行ってたときからですから、かれこれ二十年ぐらいになります」

 という事は、おれより付き合いが長いのか。確かにそれだけ長ければ下の名前で呼んでいてもおかしくはない。しかしその長い付き合いをしているという事実が、またおれを不愉快にさせた。

「二人とも、なに意固地になってるのよ。あなたたち二人揃って、初めてあたしっていう人間が成り立ってるのに」

 葉月はそう笑顔で言って大原とおれの肩を叩いた。

 言われてみればその通りだ。この大原という男とおれとで、葉月という人間のほぼ全てが集約されているのを、葉月は白状したのだ。

 葉月のプライベートとビジネスが、ここで邂逅したのだ。無論、葉月にしてみればいつもの二人としか思っていないのだろうが、こっちとしては、同じ女の人生を支えている者同士なのだ。この二人がかち合って不愉快になるのは当然だ。

 葉月はそれをどうして見抜けなかった?

 葉月はまだ男性心理に対して深い洞察を持っていなかった。そう結論づけるしかない。

 大原はおれの態度に気後れしたのか、下手に出ておずおずと訊いてきた。

「ご結婚されたのは何年前でしたっけ。確か十年以上前だったと聞いていますが……」

「十四年前だ。大原さんは結婚は?」

 ここが大事なポイントだ。

「いえ、まだです」

「何故結婚しない?」

「二回ほど結婚話があったんですが、どちらも私の不安定な収入のせいでポシャりました」

「これからも独身を貫く積もりで?」

「いえ、今の交際相手とは将来を真剣に考えてます」

 その一言でおれは大原を間男扱いするのを止めた。

「そうですか。いや、葉月のやる事だからひょっとして大原さんと葉月はただならぬ関係にあるのかと」

 大原は真面目に応えた。

「いえ。一度もそんな関係になった事はありません。一緒にいる時間は長かったですけれども、同じ釜の飯を食った戦友といったところです」

 戦友か。普通は男同士で使う言葉だが、大原は敢えて葉月と男女の関係のないのを強調したくて戦友となぞらえたのだろう。葉月は大原が戦友と言ったのに対して大笑いした。

「そうね。不思議なものよね。これだけ付き合いが長いのに、本当に何もないんだから不思議よね」

 今の葉月の顔はプライベートの顔に見えた。つまり、おれが知っている顔だ。葉月は酒の酔いもあっていやにご機嫌だった。ここに大原とおれがいる。つまり、葉月にとっては自分の生活の半分、いや、それ以上を知っている二人が居合わせている訳だ。それは葉月が裏表のない性格で、ビジネスの顔もプライベートでの顔も、一緒くたにされても問題ない行いしか日頃から積んでいるという自信からの笑いだったのだろう。

 しかし、葉月が大原を「パートナー」と呼ぶのがおれには気に食わない。

 男の嫉妬ほどみっともないものはないが、おれの裡で何かあまりよろしくない感情が湧き起こっているのは事実だ。

 大原とおれの共通点は葉月一人にのみ集約している。つまり、葉月にしてみればこの二人の反りが合わない筈はない、と計算したのだろう。

 だがやはり妻を介しての初対面の男同士の対面は、どこか複雑な感情の縺れが伴っていた。

 その一端をおれが負っているのは確かだ。

 縺れはそうそう解きほぐせるものではないし、酒の勢いだけで何とかなるものでもない。

 おれと大原は訥々とグラフィックデザインに関する世間話をした。

 酒は充分に廻ってるが、ちっとも酔えない。それは大原も同様らしかった。

 宴会は二時間の時間制で、お開きとなった。皆、ばらならと帰宅するのかと思ったが、半九人が二次会をやろうと、その場に立ち淀んだ。

 おれは大原を捕まえて「二人で飲みにいかないか」とすごんだ。大原は狼狽気味に「ええ。行きましょう」と言った。

 それを聞いた葉月が「あたしも行く!」と無邪気に言ったがそれは断った。

「今日の主役は葉月なんだからみんなと二次会に行けよ。それに男同士の大事な話があるんだ」

 普段はこんな事は一切口にしないのだが、おれは葉月にきつめにそう言った。葉月はその言に少々驚いたのか、シュンとなって「分かった」と言った。

「それじゃお先です」

 おれは二次会待ちの連中にそういって大原を連れてその場を立ち去った。

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