失恋
5年前の夏。僕にはみっつの選択肢があった。
ひとつは叔父夫妻の養子になって東京で暮らすこと。
ひとつは南米のシシメル共和国で父と共に暮らすこと。
そしてもうひとつ。それが杜兎市の祖母の元に戻ること。
祖母が足を患った時、僕はまだ幼くて、祖母も慣れない車椅子生活に不安があったんだと思う。僕が東京の母方の祖父母の元に預けられることになったのは仕方のないことだった。でも、それから2年が過ぎて、祖母の生活も落ち着いてきた。
祖母……麻生識子はお茶と習字の教室を開いている。正座するのが辛くなったことで、指導はお弟子さんに任せているみたいだけど、お弟子さんと介助に来てくれるヘルパーさんの手を借りて、日常生活はそれで何とかなるらしい。
僕も10歳になって、力のいる介助は無理でも、食事や洗濯、掃除など日常の手伝いも出来る年頃だ。今なら再び僕と生活しても問題無いと考えて、祖母が声をかけてくれたのだ。
東京で暮らしていた2年の間も、僕は長期の休みに入ると、決まって祖母の家に帰省していた。東京にいると、どうしても叔父夫婦がキャンプだの旅行だの誘ってくる。叔父夫婦の事は決して嫌いではない。ただ、どうにも居心地が悪くて、僕は杜兎市の祖母の元に逃げていた。祖母は、そんな僕の気持ちを汲んでくれたんだと思う。
僕は祖母のいる杜兎市に帰る事を決め、夏休みになると祖母の家に引っ越す準備を始めた。学校も、2学期から以前通っていた小学校に転校する予定だ。
机や本棚なんかは元々使ってたやつが祖母の家に残してあったから、大した手間もかからない。荷物は段ボールに入れて送り、僕は最低限の着替えだけ鞄に入れて、いつものようにひとりで電車に乗って杜兎市へと向かう。
東京から杜兎市までは新幹線と特急を乗り継いで片道4時間くらいかかる。温泉の町である杜兎市は、数年後には新幹線の停車駅になるらしい。そうなればもっと早く行けるようになるけれど、その頃の僕は、もうずっと杜兎市に住むつもりでいたから、東京に行くこともそうそう無いだろうと、あまり気にしていなかった。
純和風だった祖母の家は去年バリアフリーにリフォームされて、居間はお洒落なリビングに。祖母の部屋もフローリングの上にベッドと仏壇が置かれ、亡き祖父の遺影がかけられている。今や畳のある部屋は縁側に面した座敷と、教室として使っている離れのみ。僕が使っていた2階の部屋もフローリングに改装されていた。祖母はもう2階に上がることはできないし、畳を干したりも出来ないから仕方が無い。
改築の後、初めて入った時はあまりの変わりように少し寂しくなったりもした。
けれど、いつ来ても変わらないのは大好きなあの子の声。
「あーやたくん! あーそーぼ!」
玄関先から聞こえてくる元気いっぱいの声。
普段は“あやた”って呼ぶくせに、この時だけは“あやたくん”なんだよな。
もう小学校4年生だってのに、これも幼稚園の時から変わらない。
「来たみたいだね。行ってあげなさい」
「うん」
どこで嗅ぎつけるのか、あの子は僕が帰省するとすぐに駆け付けて来る。今日だって、まだ着いてから15分も経っていない。
僕は持ってきた荷物もそのままに玄関に向かう。
引き戸の玄関を開けると、真っ黒に日焼けした肌の幼馴染が待っていた。ノースリーブのシャツから覗く日焼け跡。短いホットパンツから伸びるのは黒光りするカモシカのような(逞しい)足。
まるでわんぱく少年を絵に描いたかのような見た目だけど、れっきとした女の子だ。ひょこひょこ揺れる頭のポニーテールと、ノースリーブの胸元が僅かに膨らんでいる事がそれを示している。
「ただいま。みらいちゃん」
「おかえりあやたー!」
満面の笑みを浮かべて飛びついてくるみらい。僕は押し倒されそうになるのを何とか耐えた。
「こら。いきなり飛びつくなよ。危ないだろ」
「もー! 相変わらず細いなー。ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ。みらいちゃんは太ったんじゃないの?」
なんだか以前会った時より、みらいの身体がぷにぷにと丸みを帯びてきている気がする。
今も、何か柔らかい感触が腕に当たってるし。
「言ったなこのー! 気にしてたのに!」
「うわっ! 苦しいって! ギブギブー!」
みらいがヘッドロックをかけてくる。いつも通りのじゃれあい、いつも通りの関係。
でも、その年の夏休みはいつもと決定的に違っていた。
みらいちゃんはひとりではなかった。
「ねえ? ボクの事はいつ紹介してもらえるの?」
その時、みらいは見たことのない男の子と一緒だったのだ。
僕やみらいちゃんより背が高くて、髪を襟足で縛っているやたら顔の良い男の子。それががマサキだった。
「おばあちゃんせんせーこんにちわー!」
「お邪魔します」
「はい、こんにちわ。みらいさん。マサキさんも」
やんちゃなみらいだけど、一応祖母の教室に通うお弟子さんのひとりだ。祖母はマサキの事も知ってる様子だから、彼もそうなのかもしれない。
「せんせー。お庭で遊んでもいい?」
「ええ。怪我しないようにね」
「はーい!」
祖母に断りを入れると、みらいは勝手知ったるといった風に、僕の手を引いて庭へと向かう。
「ひが~し~、みらい~う~み~! に~し~あやたや~ま~!」
僕が帰省すると必ず行う恒例行事がある。それがみらいとの相撲勝負だ。
お互いの成長を確かめ合うって感じで始まったんだけど、今のところ僕の全敗中。
祖母の家の庭は、子供が遊ぶのに十分な広さがある。日本の庭は景観を楽しむ為に、植木や石を置いたりする場合が多いが、祖母はそれをしなかった。お弟子さんと外でお茶をしたり、バーベキューをするのが好きだったからだ。
庭に丸く土俵代わりに線を引いて、向かい合う僕とみらいちゃん。
「さあ、あやた山は連敗記録を脱出することが出来るのでしょうか?」
いつもの事だけど、みらいは力士と呼び出しと行事と実況をひとりでやり始めて騒がしい。
その様子をマサキが縁側に腰を掛けて眺めている。
マサキは僕やみらいと同じ学年で、隣町の小学校に通っているらしい。
みらいちゃんからは、「この子はマサキって言って、友達」というざっくりとした紹介を受けて、当の本人からは「ボクはマサキ。よろしく」といった感じだった。
「はっけよ~い! のこった!」
みらいちゃんは男子が相手でも気後れしない。ぎゅっと僕をホールドすると、持ち上げるように押してくる。
みらいの髪の毛が顔に押し当てられてくすぐったい。引き離そうと肩を押すけれど、みらいは僕を離さない。力も運動神経もみらいの方が上だ。僕はつま先立ちの状態で、土俵際へとずるずる追い込まれていく。
「うーん! のこったぁー!」
「うわぁ!?」
みらいに持ち上げられた僕は、地面へと投げ落とされた。
「どーん! 吊り落としが決まったー! みらい海の勝ち! たぶんだいたい10連勝! あやた山弱っ! ざぁこざぁこ~!」
ひとり行事、解説のみらい海は、地面で大の字になっている僕のすぐ横で足を開いて座ると(蹲踞というらしい)、大相撲の力士のようにちょんちょんと手刀を切る真似をする。
いつも通りの光景。
みらいとの勝負に勝てないのもいつも通り。これまではしょうがないくらいに思っていた。
でも、今年は違った。
「あはは。やりすぎだよみらい。手加減しないと」
「えー。これでも優しく投げたんだけどなー」
それはマサキがいたからだ。
マサキに笑われた。
みらいちゃんに負けて他の男に笑われたのが、どうしようもなく恥ずかしくて、悔しかったんだ。
「お前も、みらいちゃんに投げられればいいよ」
僕が言うと、マサキは余裕そうな笑みを浮かべて立ち上がった。
「面白そうだね。ねぇ、みらい。ボクと勝負してくれる?」
「うん。いいよ!」
アキレス腱を伸ばして準備運動を始めるマサキ。Tシャツとショートパンツからすらりと伸びる手足は、やたらと白くて日焼けの後も見えない。
きっとインドア派なのだろう。そんな細くて白い足でみらいに勝てるはずがない。
「ひが~し~、みらいう~み~! に~し~、マサキ~ふ~じ~!」
マサキのしこ名はマサキ富士に決まったらしい。しこ名はみらいによって決められて拒否は許されない。
「みあって、みあって! はっけよい、のこった~!」
みらいとマサキの取り組みがはじまる。
噓だろ?
そして僕は目を疑った。みらいが苦戦していたからだ。
身長はあるけど、マサキは痩せ型だ。足なんて絶対みらいの方が太い。それなのにマサキは力でみらいを圧倒していた。
やがて、みらいがマサキに押し倒されて勝負が決まる。
「うにゃあ! みらい山敗れたり~! 勝者はマサキ富士!」
負けても実況を止めないみらいちゃん。でも、僕はそれも耳に入っていなかった。
みらいちゃんが負けた?
信じられない気持ちで僕はそれを見ていた。
僕にとって、みらいちゃんはヒーローだった。内気な僕を、明るい世界に引っ張ってくれるみらいちゃん。いじめっこから守ってくれたみらいちゃん。
そんな僕のヒーローが負けてしまった事がショックで、僕は言葉を失っていた。
「今度は麻生君とやってみたいな」
マサキの目が僕に向けられる。
なんで? みらいちゃんが勝てないのに、僕に勝てるわけが無い。
断ろうと思った。でも……
「おー! あやたガンバレ! あたしの仇をとってくれ!」
みらいちゃんに言われてはもう引き下がれない。
「わかった」
「よし!」
僕とマサキは土俵の上で向かい合う。
突然現れて、僕とみらいちゃんの関係に割り込んできたマサキ。その時の僕にはマサキが得体の知れない怪物のように見えていた。
マサキと向かい合った時、僕は逃げ出したくなるくらい怖かった。
「ひが~し~、マサキふ~じ~! に~し~、あやた~や~ま~!」
みらいちゃんは相変わらずだ。でも僕より先にマサキが先に呼ばれた。そんな小さなことが、僕の心に棘のように突き刺ささる。
なんで、こんな奴を! 僕は決意を込めて構える。
「はっけよ~い、のこった!」
僕とみらいちゃんの間から出ていけ!
僕はマサキに突っ込んだ。吹っ飛ばしてやるつもりで突っ込んだ。
だけど、僕の身体はマサキに届かなかった。
マサキの手が、拒絶するように僕の肩を突いたのだ。僕の全力はあっさりとはじかれて、僕の心が折れた。
勝てない。そう思った瞬間、もう一度突かれて尻もちをついた。
「まさき富士~!」
行事の真似をするみらいちゃんの声も、今は聞こえていない。
あっけなく負けて、悔しくて、悲しくて、僕は泣きそうになっていた。
「大丈夫だった?」
マサキは僕の手を取ると強引に立ち上がらせる。僕と大して変わらない白くて細い腕なのに凄い力だ。
そして、みらいちゃんに聞こえないように、顔を近づけて耳元で囁く。
「あんまり情けないと、ボクがみらいのこと貰っちゃうぞ?」
目の前が真っ黒になったような気がした。
僕はみらいちゃんが好きだ。ずっと一緒にいたい。
でも、マサキもみらいちゃんを狙っている。
無理だよ。絶対に取られる。
勝てない。勝てる気が全然しない。
その時、縁側から祖母の声がした。
「皆さん。宮津さんからお昼を食べに帰って来なさいと電話があったわ。彩昂も一緒にと言っているから行ってきなさい」
「はーい! 行こうあやた!」
「う、うん。いってきます」
「いってらっしゃい」
「おじゃましましたー!」
「おじゃましました」
手を振る祖母に見送られて僕は流されるままにみらいの家に向かう。みらいの家は温泉街にある一番大きな旅館で、歩いて15分くらいのところにある。
「あやた! マサキ! うちまで競争ね! よーいどん!」
走り出すみらいとマサキ。僕との間はあっという間に開いていく。みらいも足は速いけど、マサキがリードしているみたいだ。僕はといえば、すぐにわき腹が痛くなって足を止めてしまう。
遥か先を走るみらいちゃんとマサキの背中に、ついに堪えていた涙が溢れ出した。
僕はなんて弱くて格好悪いんだろう。それに比べて……
マサキはみらいちゃんより強くて足も速い。しかも格好良い。僕とマサキのどっちが好きかと聞かれたら、きっと誰だってマサキを選ぶ。みらいちゃんだって……
そんなの見たくない。
「おーい!」
みらいちゃんが手を振っている。でも、その横にはマサキがいる。
みらいの隣という僕の特等席だった場所は、既にマサキによって奪われていた。この町にいたら、みらいちゃんとマサキが並んで歩くのを、僕は後ろから眺めて過ごすことになる。そう思った。
そんなの……嫌だ。
心の中が真っ黒になったまま、みらいの家でお昼ご飯をご馳走になった。みらいは、夕飯までうちで遊ぼうと言ってくれたけど、僕は朝早くから電車に乗って疲れているからと言って、早めにみらいの家を後にした。その間も、みらいの隣にはマサキがいた。マサキはみらいの両親からも気に入られているようで、夏休みの間、みらいの家に泊まる事になっているらしい。
その日の夜、散々に枕を涙で濡らし、僕は父にメールを送った。
一緒に暮らしたいと。
これが、僕が南米へと渡ることになった顛末である。
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