第一章 イタル
ナルキッソスΝάρκισσος(古代ギリシアの美少年。ナルシシストの語源となった)じみた演技。人が眉を顰(しか)め、皺寄せ蹙(しじ)ませ、苦笑し、愚弄嘲笑さえし兼ねないと知っていても、いや、知るからこそ、彼は敢えてやる。
それがイタルStyleだった。たとえば、涎を垂らし、白眼を剥いて痴態を晒すことによって、自虐的に世間の良識を凌辱する行為に酷似する。髪を緋色に染めたことなど、後々のことを思えば序章に過ぎない。
青龍が曼荼羅のごとく生々しく膚を這い飾るのはそれより後のこと。緋色の髪など序章に過ぎなかった。しかしすべてはその萌えいずる兆しのときが美しい。黎明の兆しが星辰の闇空を、薄青い透き通った穹へと変え、きよらさやかに広がり澄み渉らせるように。生誕のときこそその最も本質の時なのである。交響管弦楽の序曲や映画のプロローグや小説の冒頭のように。
天平普蕭(あまひらふしょう)がイタルとつるむのは高校生になってからが初めてではない。
二回目だった。
最初は小学生のときだ。とても短い期間で、大人の眼から見ればほんの一瞬でしかない時間だ。
十一歳であったそのとき、イタルがでたらめにブルース・ハープBlues Harpを吹きまくり(いま思えば、なぜ彼はホーナーHOHNER社の単音十穴ハーモニカ、ブルース・ハープBLUES HARPなんかを持っていたのだろう。それは小学校の授業で使うものではなかった。学校ではダイアトニック・ハーモニカdiatonic harmonicaが使われていた。しかしその頃、不思議に思わなかった)、普蕭は幼少から習っていたバイオリンを弾いた。
曲はイタルが鼻歌で作った滅茶苦茶なもので、楽曲と言える代物ではなく、普蕭はその超々前衛的な曲に苦心して拍子や節をつけた。どういう経緯(いきさつ)でそんな役割分担になったのか、音楽を理解している普蕭の曲ではなく、でたらめで捨て置くべきイタルの『曲』をなぜ取り上げることとなったのか、まったく記憶がない。
ともかく放課後、一週間だけ二人は熱心に練習した。いや、イタルは熱心ではなかった。熱心ではなかったが、小学生らしからぬ執著を示し、異様な、不気味な、暗鬱な情念を注いだ。
であったにも拘らず、長く続かなかったのはイタルの気まぐれのせいである。
以来しばらくは空白の期間だった。特に中学時代はまったく接触がなく、高校も一年の頃は顔を見たかどうかさえ定かではなかった。
復活したのは二年の五月である。
普蕭が学校の授業を終え、きれいに櫛の入った長髪で、制服のブレザーの下にミントグリーンのサテン地シャツとピンクと黄緑と紫と黄のペーズリーpaisley柄のシルク・タイをし、サイケデリックな雰囲気で、学校と同じく眞神村にある自宅の前を見向きもせずに通り過ぎて鉄道に乗り、薙久簑町の駅で降りて古本屋に行こうと、いつも横切る公園を考えもなく通ったときだった。
どこからか、チューニングの狂ったギターをかき鳴らす音が聞こえる。あまりのひどさに足を止め、道を変え、近づいてしまった。
いたのはイタルだ。しゃがみ込んでアコースティック・ギターを抱え、がなっていた。
歌っているのかどうかすらわからない。
「ロバート・ジョンソンRobert Leroy Johnson(1911.5.8‐1938.8.16)」
普蕭の問いに対し、それが答のすべてだと言わんばかりぶつりと独り言のようにイタルがつぶやいた。
聞いたこともない、1930年代のアメリカ南部のブルース・ミュージシャンの名前。
「おまえにはわからないさ。
わかるわけがない。ふ。そういうことさ。
おまえにはロバート・ジョンソンは理解できない。おれ以外には理解できる人間などいない。誰にも理解できない」
普蕭は戸惑いながらも言う、
「音が合っていないよ」
正確に言うとそれ以前だ。相変わらず音楽というものを理解していない。ギターを取り上げ、調律した。
「これでいい」
何となく安心した。
「へー。
そんなことって、できるもんなんだ」
イタルが無感動に感心する。普蕭から無造作に奪い取り、爪弾(つまび)く。
「ふ。
味がなくなっちまったな」
確かにそんな気もした。
「イタル、小学生の頃、憶えているか」
「どんなことだ?」
「僕がバイオリンを弾いた」
「ああ、憶えてるよ。
おれはハープだった」
そのときのサウンドはスマートフォンで撮影した動画でYouTubeにアップされ、イタルの死後、削除されたが、少数の人間がダウンロードしていて、そのデータがマニア垂涎の的となっている。
追悼盤の『The Remastering of vvw』の冒頭にも収録されたその動画から垣間見られる彼らの最も初期のサウンドには、稚拙で音楽的に破綻しながらも、迸るイタルの剥き出しの特異性の萌芽が見られた。誰も教えていないのに、直感的にミュートやベンディングを行い、不思議な、即物的で、異教的な音質を尖らせ、音楽というよりは音による金属片コラージュのようであった。
音に関する即物性へのこだわりを問われて彼はかつてこう応えたことがあったという。「おれの遺伝子の中にあったのさ。性癖なんだ」
この公園での再会の時点で、普蕭は既に同級生らとバンドを作っていた。
イデーン、それがバンド名だ。2ドラムス、ヴォーカル、ベース、2キーボード、3ギターの9人編成でプログレッシヴ・グランジともいうべきヘヴィー・サウンドのバンドだった。長い曲が多く、20分以上も続く曲もあった。サンプリングや打ち込みも多用し、民族楽器なども取り入れてレーコディングしたので、ライブでの演奏不可の曲も幾つかあった。
普蕭はその中ではギタリストだった。
中学校一年生から独学で始めたギターの技術が、中二の頃には超絶の早弾きができるほどになっていて、高校生になる頃にはイングヴェイ・マルムスティーンの演奏さえ、アコースティックで完全にコピーができる腕になっていた。薙久簑町神中洲のライブハウスのステージに数回立っただけだが、眞神郡では有名人であった。むろん、バンド系の人たちだけにではあるが。
「時々思い出すぜ、最近な。
あの頃は純粋でよかった。
何も考えず、表現したいものを剥き出しで出していた。誰にもわからなくたって、かまわなかった」
いまでもそうじゃないか・・・・普蕭は思ったが、言わなかった。気を遣ったのではない。イタルにとっては、きっとそうなのだ。イタルでさえ大人になるんだ、と思っただけだった。
「僕もだ。
よく考えるんだ。この頃は」
「へえ。おまえがねー」
「あるさ」
「どういうことを?」
「音楽が作れないんだ。作っても虚しいからだ。何をしていいか、わからない。何をしたって、何にもならない」
彼はここ数カ月、曲を作りながら、曲をアレンジしながら、常に一心不乱に追究していた。「人はなぜ生きるのか」と。
しかしその問いはかたちだけのものでしかなかった。問いが感覚にリアルじゃなかった。その方向性は合っているが、それが欲しいものズバリではないという感覚。問い自体が空疎であっては答などあるはずがない。
フラストレーションは募る一方で、普蕭はどんなサウンドにも満足できなかった。真実が欲しい。
バンドにも嫌気が差し、遂に昨日、言ったばかりであった。
「辞めるよ。
君らだけでやってくれ」
普蕭の脱退はバンドの崩壊を意味した。それでも彼は辞めずにいられなかった。
「イタル、また一緒にやらないか?」
「ああ、いいぜ。
おれもいまそう思っていたところだ」
こうしてQuadruple V(クヮドルプル・ヴィ)は生誕したが、二人だけの時点ではまだバンド名がなかった。追い求めるものしか見ていなくて、体裁のことなどまったく気にしていなかったからだ。
その名が決まるのは叭羅蜜斗(ぱらみと)の出現を待たなくてはならない。
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