第28話 『何もするな』……?
side エバンス(トロリーズの監督)
監督のエバンスは、ショートのアンジェにサインを送っていた。
『何もするな』
もちろん、そのサインは動くなとか守備をするなとか、そういうネガティブな意味合いのものではない。
単に、極端なことをするな、と念押ししただけだ。
例えば…………
『頭上を越えていくホームランボールを手づかみすること』
『レフトとセンター間を越えてフェンスに到達する二塁打性の当たりをフェンスでキャッチすること』
『セカンドの頭上をライナーで越えて、ライト前に落ちるヒット性の当たりをダイレクトにキャッチすること』
このどれもが、ショートの守備範囲ではない。絶対に。
だが、アンジェならやりかねない。いや、その気になれば簡単にできてしまうだろう。
例えそれが、3メートルの頭上を越えるレフトスタンドに向かって放たれたライナー性のホームランボールであっても…………
例えそれが、レフトとセンターが追い付かないフェンスに直撃する当たりであっても…………
例えそれが、セカンドが一歩も動けない頭上を越える鋭い打球であっても…………
なぜ、そんなことが分かるのかと言えば、実際にそのシーンを見たからだ。もちろん公開された中での出来事ではない。あくまで彼女の能力値を計るために設けられた
おそらく、彼女は世界一のスピードで走れて、そして世界一のジャンプ力を誇っている。無論、その「世界一」とは女性相手の称号ではない。男女関係なく彼女は世界一のスポーツ選手と言ってよい。
しかも、その事実を知る者は多くはない。実態を知るのはごく僅かな人々だ。しかし、その実態を知る僅かな人々は確信している。彼女の有する能力が「dumb(呆れるぐらい馬鹿げている)」であることを。
おそらくジャンプすれば5メートルでも簡単に手が届くだろう。もしかすると10メートルですら可能ではないかと思うぐらいだ。走塁を見ても、100メートル走なら間違いなく8秒台だ。それも最低で。プライベートテストのとき、ダイヤモンド一周を11秒台で走ったのを見た時、とてもそのタイムが信じられなかった。
間違いなく彼女はスーパーウーマン、いや「スーパーガール」だ。
アンジェにその気がないことは分かっているが、もしも陸上競技に出たなら、出場した競技全てにおいて驚異的な世界新記録を樹立することは間違いない。さらに言えば、彼女が出来ない競技は、おそらくない。
例えば、彼女が砲丸投げにチャレンジすれば、どうなるのか?
砲丸投げの、女子の世界記録は23メートル弱、そして男子の世界記録が23メートル強だ。
ホームベースからセカンドベースまでの距離が38.795メートル。つまり、世界王者の砲丸投げの選手でも、投げた砲丸がセカンドベースをオーバーすることは絶対にない。
だが…………エバンスはある出来事で、アンジェが「
競技で使用される砲丸の重さは男子が7.26キロ、女子が4キロ。
アンジェが投げたダンベルの重しは10キロだった。
その10キロもの鉄の塊を放り込んだバックスクリーンまでの距離は、120メートルを遥かに超える。
だが、こうした信じられないような
それこそ、彼女の打撃、走塁、守備のいずれもが驚きに満ちている。
もしも、二番目に「驚いたランク」をエバンスが挙げるとするなら、入団テストで行われた彼女のバッティングだ。
トロリーズのエースが投げた
打った打球が変形した、縫い目がほどけた、そういった話なら過去に聞いたことがある。だが、打った瞬間、ボールが爆発したのを見たのはあの時が初めてだった。硬い硬球が、一つが数センチ四方内の屑に砕け散ることがある、ということも知らなかった。
何より、バラバラに飛び散ったボールの破片が、キャッチャーや審判に当たっても怪我をさせなかったのは僥倖だった。
なぜ、怪我がなかったのかは分からない。
どうしてそういうことを指摘するのか言えば、バックネットを越えたその破片は、バックネット裏の座席を破壊していたからだ。穴だらけになった座席の数は50を越えていた。あれがシーズン終了直後の出来事だったのは幸いだった。バックネット裏の補修工事に一か月ほどかかったのだから。
そして一番驚いたのは…………
いや、それは言うまい。少なくとも、彼女がそれをしたいと言いだすまで、封印すべきことだ。
とにかく、アンジェは間違いなくベースボールの「愛し子」だった。彼女ほど、野球の神様に愛された人間はいないと、エバンスは信じていた。
そして、その神様は、アンジェが行う信じられないプレーの数々を見て、おそらく輝くようなな笑みを浮かべていたに違いない。
カキン
乾いた打撃の音が聞こえると、セカンドとファーストの間をボールが抜けていくのが見えた。ライト前のヒットだ。さすがに、あの位置のボールにアンジェは手を出さなかった。さっきの「何もするな」のサインが役立ったのだろう。
メートの先頭打者が、観客に向かって一塁ベースで手をあげていた。
アンジェは、特に視線を向けてはいない。
今夜のゲームはやはり乱打戦のようだ。
■□■□
アンジェの守備は一言で言えば「堅実」だ。それも頭に「超」の文字が付く。
メジャーリーグにおける、ショートの1ゲーム当たりの守備機会は平均で10回弱。だがアンジェの場合、1ゲーム当たりの守備機会は13回だ。
その理由は簡単だった。
守備範囲が異常に広い。その一言に尽きる。
ほぼ二塁手と三塁手の間、その全てが彼女の守備範囲だった。
さらに、併殺も含めて失策はゼロ。守備率は100%。
――――考えられるか?
二塁ベースより一塁寄りの強烈なゴロを当然のようにキャッチする。
三塁側も同様だ。
もちろん、その場所は全て一般的なショートの「守備位置」ではない。
さらに、地上3メートル近くのライナーも全てキャッチしていた。それも、自身の真上というわけではない。彼女の守備範囲、全てにおいてだ。
なぜ、アンジェの守備がそれだけ強力なのか?
その理由は明らかだった。
彼女は、打者が打ってから動くのではない。打者がスイングした瞬間から動く。それも、打球が飛んでくる正確な位置に。
イレギュラーバウンド?
アンジェにとって、全ての打球は「レギュラー」だ。「イレギュラー」と言う言葉は、アンジェには不要だ。なぜなら、どんなバウンドをしようとも彼女がボールを逃したことなど一度もないからだ。横に逸れようと、上に跳ね上がろうと関係ない。
彼女が取れる範囲のボールは、いかなる場合も必ずキャッチする。一切のミスをせずに。それがアンジェだった。
そして、その正確性は送球についても同じだ。悪送球は一度もない。投げられた側が落球したことはあるが、それはアンジェの責任ではない。実際、エラーの表示が彼女に示されたことは一度もない。
まるで針の穴を通すかのように、毎回、同じ位置に正確にボールを投げる。ファーストであろうとサードであろうと、もちろんホームベースも同じだ。
MLBが、彼女のこれまでの送球を調べたところ、なんとその球速は100マイルを越えたのが7割だった。最高は110マイルに近い球速で投げており、彼女にピッチャーとして投げて欲しいと言う要望が数多く球団に寄せられている。
だが、エバンスは絶対にその指示をすることはない。いや、できないといった方が良いだろう。ある理由で。
とにかく、アンジェの守備もバッティング同様に「常識」という言葉を置き去りにしているのは確かだった。
■□■□
アンジェの守備のことに気を取られていたエバンスは、ピッチャーがファーボールを与え事に気がついた。
「どうだ?」
側にいるベンチコーチのゲイルに尋ねる。もしかすると、早々に次のピッチャーの準備に入る必要があるのかと思ったからだ。
「問題ない。ファーボールは審判との相性だ」
なるほど。確かにメジャーリーグの審判は絶対的と言える。
そして審判にはどうしても癖がある。
今、ゲイルが言ったのは、その審判の癖、いわば相性に合わずにファーボールの判定を受けた、ということだろう。
それならば修正が効く。
「いいだろう」
今日はブルペンデーだ。まだ登板予定のピッチャーは控えているが、できれば引き締まった乱打戦の今夜のゲームは、ポイントをしっかり押さえた上で任せたい。そして、審判との「相性」は十分その押さえを修正できるポイントだ。
エバンスは様子を見ることにした。
グラウンドに視線を送り守備陣の気配を見ると、良好なことがわかる。ファーボールにイラつく者はいないし、皆がヤル気に満ちている。
アンジェもいつもと変わらない。
だが…………
今日はすでに、アンジェに3回の打席が回っている。いずれも申告敬遠だった。彼女の表情に変化は見られないが、間違いなく何かを溜めているはずだ。彼女は、ああ見えて意外と「熱い」心を持っている。
エバンスは、もう一度アンジェにサインを送ることにした。
『何もするな』
いや、さすがにピンチの場面でこれはないか…………
だが、「何をしてもいい」などと言い出したら、本当に何をするかわからない。もちろん、ファンは絶賛して大喜びするような出来事が目の前に展開するわけだが、明日は久しぶりの休日だ。
なんとしても明日こそは、ゆっくりとした休日を過ごしたい。
前回の休日は、ひどかった。その原因はアンジェだ。もっとも、ひどいと言う言い方はおかしいのかもしれないが…………
監督であるエバンスが何故か賞賛されまくった出来事により、休日に関わらず、マスコミが殺到したのだ。まあ、マスコミが訪れる理由は理解できるので文句は言わないが…………
とにかく、放っておくと、アンジェがとんでもない「活躍」を見せてしまう可能性があるので「何もしていい」とは絶対言えない。いや言ってはいけない。
『普通のプレーで』
これでいいか。アンジェも、やりすぎが良くないことは分かっているはず。
しかし――――
「え?」
いつもならサインをチラリと見るだけでリアクションをしないアンジェが、なぜか頷いた。
嫌な予感をエバンスは覚えていた。
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