第二章(現在) ベースボールは打つだけが仕事じゃない

第27話 最速バッターが放った打球を……



 side アーウィン(メートの監督)



 アメリカ、ニューヨーク市、クイーンズ区。メートの本拠地であるメートスタジアムは熱気に包まれていた。今日は同じナショナルリーグの西地区首位に立つトロリーズとの対戦だ。

 熱気の原因は言うまでもない。

 もはや、アメリカの体現できるヒーローといえるアンジェのせいだ。


「「「エンジェル!!」」」


 球場全体から、アンジェを呼ぶ声援が繰り返し上がる。


 昨年からメートの監督を務めているアーウィンは、その歓声を聞きながら小さなため息をついていた。もはやこの現象――――球場全体がアンジェに声援を送る現象は、アメリカ中の球場で起きている。


 メジャーリーグの応援席は、スタジアム全体で混じり合っている。アンジェの故郷である日本のプロ野球では、一塁側がホームチーム、そして三塁側がビジターチームとなっていたが、メジャーリーグは違う。ホームチームのベンチも、メジャーリーグではホームチーム側が自由に決めてよい。

 ちなみに、メートスタジアムではメートのベンチは一塁側だ。アンジェが所属するチーム、トロリーズの本拠地トロリースタジアムでのトロリーズのベンチは三塁側となる。

 なお、メジャーリーグではビジター(お客さん)という感覚はなく、アウェイ(敵地)と呼ぶが、日本のプロ野球を経験したアーウィンにとって、その違いが現すところの意味合いは理解できている。


 それでも、トロリーズとの試合は毎ゲーム驚かされてばかりだ。


 5月頃までの対戦は、まあ普通だった。アンジェへの声援は毎試合、尻上がりに増加していたが、自軍の声援もしっかり聞こえていた。


 ニューヨークに本拠地を持つメートはトロリーズとは同じナショナルリーグだが、トロリーズが西地区なのに対して、メートは東地区になる。

 地区が違うので、一シーズンでのトロリーズとの対戦は、今シーズン6試合だ。そして本試合はトロリーズとの今シーズン4試合目となる。

 8月後半となった今、シーズンは終盤戦へと足を踏み入れたが、この段階で球場の声援は9割がアンジェに対するものと言ってよかっただろう。



 ――――ここは、カリフォルニアじゃない。the Big apple(ニューヨーク)なんだぞ!?しかも、5回裏。これからメートの攻撃が始まると言うのに…………



 アーウィンは、盛り上がりを見せる球場全体を見ながら、再びため息をついていた。


 両チームともにブルベンデーとなった本ゲームだったが、なぜか乱打戦となっていた。すでに両チームとも打順は4巡目に入っている。それでもゲームが壊れてはおらず、5回表のトロリーズの攻撃が終わった時点で5対7。点差はたった2点。見ているファンにとっては、大味ではない乱打戦はこの上ない最高のゲームとなっているに違いない。

 今のところメートがリードしているが、一発が出ればすぐにひっくり返るだろう。


 それでもリードしていることは事実だ。とにかく点差を広げれば、なんとかなるはず。

 ちょうどこの回は、一番バッターから始まる。

 トロリーズのピッチャーは、4番手がマウンドに上がっている。今日がブルベンデーとは言え、さすがに交代が早い。もっとも、メートのピッチャーもすでに3人が交代したので同じ状況だったのだが。


 まあ、こんな日もある。


 それにしても…………


 今日の驚きは、アンジェだけではない。なんと大統領が観覧席に登場したのだ。

 いや、メジャーリーグにおいて大統領の観戦は珍しくはない。過去にも、野球好きの大統領が、シーズン中に何度も足を運んだこともある。

 だが、その観戦は普通ならMLBが招待するはずだ。

 元大統領なら分かるが、現役大統領が予告なく観戦に訪れることなど滅多にあるものではない。

 大統領の観覧試合に、アンジェの登場が加わることで、このゲームは異様な盛り上がりを見せている。


 もっとも、そのせいで今、アーウィンは胃痛が激しくなっていたのだが…………


 5回表までのアンジェの打席は3回あったが、その全てで申告敬遠を選んだからだ。

 申告敬遠が宣告されるたびに、球場で沸き上がったのはもちろんブーイングだ。それも、トロリーズファンだけじゃない。メートのファンからもだった。


 さすがに、このまま最終回まで全ての打席に対して申告敬遠を宣告するのはまずいだろう。だが、申告敬遠を選ばないということは、追加点を覚悟することと同義語になる。特に今夜は、3回ともアンジェの打席は塁にランナーがいる状態だった。満塁でなかったことだけが救いだったが……


「お!」


 アーウィンがポンと手を叩いた。先頭バッターが、ライト前のヒットで出塁したからだ。

 ショートを守るアンジェの表情に変わりはない。



 ――――もし、これが日本の野球なら送りバントなのだが…………



 アーウィンの脳裏に、スコアリングポジションにランナーを進める策がチラリと浮かぶが、この乱打戦の中で、その選択が愚策であることは分かっている。

 もともとメジャーリーグでは、「犠牲バント」が支持されていない。1980年には1試合で平均0.45回だった犠打は、2023年には0.09回まで激減している。

 1試合の平均で0.09回ということは、送りバントを見ることができるのは10試合に1試合でしかない。つまり、ほぼ「犠牲バント」のサインが出ることがないことを意味しているといってよいだろう。


 アーウィンは日本での野球の経験も長いので、犠打に対して強い否定を感じることはなかったが、それでも現在のメジャーリーグの「犠牲バントは、ほとんどの場合で間違った戦術」とする考え方も否定していない。

 ベースボールのゲームそのものは、プレーする人が支配するものであったが、それが永続的に支持されるために必要なのは、いうまでもなく「ファン」だ。そしてそのファンの支持を受け続けるためには、商業的な側面を否定し続けることは許されない。


 特に今シーズン、その側面を強く打ち出していたのがアンジェだ。


 彼女が放つホームランは、見る者を魅了する。それも深く、強く、だ。

 それは、敵チームの監督であるアーウィンも同じだった。

 これまでトロリーズとの対戦は3試合。そして、毎試合、必ずアンジェはホームランを打っていた。きれいな弧を描くそのホームランは、敵味方関係なく、その場にいる野球選手全ての目を捉える。ファンも同様だ。そして、もちろん監督も。


 アーウィンがこれまで見た最上のホームランは、間違いなくアンジェが放ったホームランになる。ただ、ではアンジェの何号が一番素晴らしいのか、と問われると即答は難しかったのだが。それぐらい、彼女が放った全てのホームランが芸術性を高く帯びていたことは確かだった。


 いろいろ考えながらゲームを見ていると、次打者の2番バッターがファーボールを選んだ。

 これでノーアウト一、二塁。

 しかもcenter of the order(オーダーの中心)に繋がったことになる。日本のプロ野球ではクリーンアップと呼ばれていた打順が3番、4番、5番の打者のことだ。塁に出ている選手を一掃する長打を放つ打者という意味になる。ちなみに、メジャーリーグでクリーンアップとは4番打者のことを指している。

 そして今日は乱打戦だ。この回も得点が入るのは、ほぼ確実だろう。


 少し安堵しながら、それでもアーウィンは知らず知らずのうちにアンジェを見ていた。

 もし、この回のメートの得点を防ぐとしたなら、そこにはやはりアンジェの影がちらついていると感じていたからだ。



 ――――ダメだ、ダメだ



 なぜか背筋がゾッとしたアーウィンは、強く首を横に振った。

 こんな思いを抱えていてはいけない。まるでそれが現実になるかのように思えてしまう。


 打席では、三番バッターが右バッターボックスで構えている。


 彼はメートを代表するスラッガーだ。メート一の怪力でもある。平均の打球速度は97マイル。この数字はメジャーリーグで最も速い打球を放っていることを示している。アンジェよりも速い。

 さらに、彼は今シーズンも打撃の主要部門で全てトップに立っている。もっともメートではナンバー1ということに過ぎないのだが…………

 ホームランの数は34本。通常のシーズンなら十分、トップを争える数字と言えた。 だが、今シーズンは言うまでもない。その4倍近いホームラン数をアンジェが放っているからだ。



 ――――その時



 ガキン!!


 力強い音が響き割った。


「お!!!」


 時速120マイルを越える鋭い速度で放たれた打球は、ピッチャーの横をすり抜けてセカンドベース上を越え、センターに抜けるかと思われたその瞬間――――


 アンジェが、で打球を捕まえていた。


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