第20話 少年たちとアンジェの穏やかな午後



 アンジェから渡された巾着袋はずっしりと重い。

 受け取ったファルークは、その重さに体を硬直させていた。


「食べるのは今日と明日の朝まで。今日二食、明日の朝一食に分けて二人で食べる。それ以上は腐るからダメ。それまでに食べて。欲しかったからまた昼過ぎに来て」


「え?」


「救助が来るまで一週間はかかる。それまでは渡してあげる」


 今の話しから、ファルークはアンジェが救助を待っていることが分かった。そして、渡された食糧がちょうど一日分であることを。さらに、アンジェは明日も食糧をくれると言っているが、本当にそれでいいのだろうか?


「そ、それでいいの? お姉ちゃんは何か困っていない?」


「大丈夫…………」


 大丈夫と答えたアンジェが、少し何かを考えた。そして――――


「もしよければ乾いた木があれば持ってきて欲しい。それと交換でどう?」


 日中の気温が嘘のようにサバンナの夜は冷える。ここは川だからまだマシだろうけれど寒いはずだ。

 ファルークは、アンジェが火を起こして温まるために乾燥材を必要としているのだと思った。


「わ、分かった。じゃあ明日持ってくるね」


「ん」


 そして、ファルークは急いで小舟を漕ぎ始めた。穏やかな流れの川だし、舟の扱いには慣れている。上流に向かうのであっても漕ぐのに支障は感じない。ただ、ファルークの心は少し焦っていた。もし急にアンジェの気が変われば、受け取った大事な食糧を返せと言われるかも、という不安がよぎったからだ。



 だが――――



 十分に離れたところで、ちらりと後ろを振り向いたファルークは、穏やかな表情でこちらを見ているアンジェの姿に、自分が間違っていたことを悟っていた。弟は、受け取った袋を胸にしっかりと抱きしめてファルークを見ている。

 自分の邪な考えに少し恥ずかしくなりながら、これから頑張って乾いた木を探しに行こう、とファルークは考えていた。幸い、ここ数日は晴れの日が続いていたから、見つけるのは難しくないはずだ。



 ▼▽▼▽



 side アンジェ



 アンジェは、少年たちの舟が視線から見えなくなるまで見送っていた。一度、振り返った兄の視線が、少し驚きそして同時に詫びの色が見えたことは分かっている。

 その視線から少年たちは、欲しかった食糧を貰えて嬉しかったが、なぜ自分たちがそれを貰えるのかを考えてしまい、アンジェが返せと言い出しかねないかと心配したこと、そしてそうじゃないことを悟ったことが分かった。

 アンジェが言った「乾いた木」は、少年たちは気がついていないだろうが意図的なものだ。暖を取るのに「乾いた木」をアンジェは必要としていない。単に対価があった方が受け取りやすいだろう、と考えたからだ。


 それにしても…………


 少年たちが、どういった境遇にあるのかは分からない。だが、二人とも栄養状態が悪い。さらに弟のデンという少年は、青ざめた顔色が気になったので「鑑定」よりも上位スキル、「森羅万象」のスキルを使って調べたところ、肺に重篤な病を抱えていた。アンジェのスキルは、その病が、積極的な治療を受けなければ余命が半年もないことを示していた。いや、祖母の記憶を辿れば、このデンが抱える病いは、先進諸国での高度な集中治療を施されない限り、わずかな延命は出来ても治療すら難しいことが分かる。


 アンジェは、自分が関わるのはあくまで家族、あるいはそれに等しい者だけと決めていた。もちろん、アンジェが正しいと思ったこと、あるいは異世界で共に過ごし、そして共に戦ったミナトなら望んだだろうと思われることは別だ。しかし、力を持つ者はその力を誰のために使うのかを考えないと、その力に呑まれることになる。

 それは、アンジェの経験ではなく、祖母の神龍が過去に経験したこととして分かっていた。


 イレギュラーな出来事も、繰り返しそれを受けていると、いつしかそれが当たり前のレギュラーの出来事と考えてしまう人は少なくない。そしてそういった人は、それが受けられなくなった時、それまで受けられていたことに感謝するのではなく、なぜ受けられないのかと不満に思う。それを神龍は、嫌というほど経験していた。

 だから、アンジェは弟の病を癒すことはしない。それは弟が自分で歩むべき運命だから。ただし、少なくとも明日、再びここに来れるぐらいの体力を二人につけれるように「治癒」のスキルは食事に含ませておいた。それこそスキルレベル10ぐらいの簡単なものだが、ステータスの「飢餓」の状況は改善されるはずだ。

 とはいえ、自分の運命は、自分で選択するべきだ。そうアンジェは考えている。その結果が望む形で得られるのか、あるいは望まない結果が出てしまうのか、それこそ「運命」だろう。


 だが…………


 あの二人の在り方は、決して不快な思いを抱くものではなかった。異世界で、愛するミナトとと共に訪れた孤児院の子どもたちの姿がなぜか浮かんでくる。


 二人の少年が消えた後、アンジェは、明日、再び出会えたら少しだけ「治癒」の効果を高めてみようかな、と考えていた。



 ▼▽▼▽



 side 少年たち



 ファルークたちがアンジェの元を訪れるようになって十日が過ぎようとしていた。


「アンジェ、昨日はたくさんの木を見つけられたよ」


「ん。ありがと」


 束ねた木を受け取るアンジェの、短く少しつっつけどんな言葉も、今ではすっかり慣れた。

 最初は少し戸惑いもあったが、その言葉とは裏腹に、アンジェが決して無愛想なのではないことも、今ではよく分かっている。いや、彼女はとても優しい。少なくとも、二人がこれまで出会った人たちよりも、そして今は亡き二人の両親よりも。


 十日間、少年たちは毎日、乾いた木を届けにやってきていた。その報酬は、満足いく美味しい食事と、そして心温まるアンジェたちと過ごす時間だ。


 アンジェと共にいるアンジェの大叔母と言う女性とも仲良くなった。ミツキという名前を教えて貰った。アンジェとは違い、アラビア語のスーダン方言など話すことができないミツキだったが、優しい笑みとその仕草が意味することは十分に理解できる。

 ファルークとデンは、ここでの毎日がとても楽しく、そんな日々を過ごすことができることを深く神に感謝していた。


 だが、この日々も救助隊が来るまでであって、そのタイムリミットは間もなくだ。



 ■□■□



「救助隊、そろそろくるといいね」


 川岸でアンジェと並んで座ったファルークが呟く。こうして二人でぼんやりとすごす時間も、毎日の午後の日課だった。

 アンジェは口数が多くないから、並んで座っているだけのことも多いが全く苦にならない。いや、この時間はファルークにとって貴重だった。


 なぜなら、隣に座るアンジェから漂ってくるのは、「優しさ」だったから。その優しさは、これまで誰からも受け取ったことがないものだった。それこそ、亡くなった両親からも。


 飛行機のそばの浅瀬では、小舟に乗ったミツキとデンが何かで遊んでいる様子が見えた。

 それは、ミツキが色がついた紙を、動物や花の形に折ってくれている遊びだ。アンジェとミツキの母国、日本で「折り紙」と呼ばれている遊びだと教えて貰った。

 最初、ミツキが作った犬やウサギを見てファルークは心底驚いた。まるで動いている本物と見間違うような見事な造形だったから。鶴という鳥の折り紙も、とても綺麗だった。手で紙を折るだけで、こんなものが作れることにファルークは素直に感動していた。もちろん、デンも同じだった。

 そして今、そのデンは小舟の上で、ミツキの手から視線を離せなくなっている。


 何かにせっつかれることもないこの穏やかな午後を過ごせることを、ファルークは幸せに感じ、そして神に感謝していた。だが、その時間は間もなく終わる。最初に教えられていた一週間はすでに過ぎている。


「ん」


 そんなファルークの想いを分かっているのか分かっていないのか、短く答えるアンジェ。

 いや、ファルークの言葉に残念な思いが乗っかっていることをアンジェは分かっているはずだ。だが、その想いを口にすることはない。そしてファルークは、それを嬉しく思っていた。


 アンジェは、自分たちを対等な「人」として見てくれている。



 ■□■□



 昼を少し過ぎたあたりの時間になって、ファルークは帰りの準備を始めるため立ち上がった。

 お尻をポンポンとはたく。


 するとアンジェが、声をかけてきた。


「帰る?」


「うん。今日も食べ物をくれてありがとう」


「礼はいい。木との交換」


 これもいつもの会話だ。アンジェが「礼はいい」と言うのは分かっている。それも本心で言ってくれている。でもだからこそ、ファルークはきちんと礼を言いたかった。

 自分が受けているこの境遇は、決して当たり前なことではない。大いなる偶然と奇跡が重なり合ってできた結果だ。それを当たり前と思ったら、きっとこの幸せは逃げていく。


 そして微笑むアンジェを見たファルークは、少し顔が赤くなるのを感じた。

 エメラルドグリーンの明るい髪が、太陽の光を浴びてキラキラと輝き、それに負けない微笑みはファルークの胸をドキドキさせる。


 その想いを振り切るかのようにファルークはデンに向けて声をかけた。


「おーい、帰るよ!」


「うん!」


 顔をこちらに向けたデンが、明るい声で返事を返してくれた。



 ――――その時



「待って」


 遠くの空を見上げたアンジェが、突然立ち上がった。


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