第8話 【閑話】天使のサインボール(後編)
「天使のサインボール」。「エンジェルボール」と呼ぶ人も多い。
その噂が囁かれ始めたタイミングは分かっている。
それは、5月の下旬頃。カリフォルニア州のデスヴァレー国立公園の近隣に住むハムスター愛好家老夫婦の話だ。
ペットとして飼われるハムスターは数も多く、また飼育放棄も多い。野外に放されることもある。もちろん、野外に放り出されたハムスターの生存期間は短い。生き延びれることなどまずないと言ってよい。
その愛好家老夫婦は、長年、飼育放棄、野外放棄されるハムスターを保護してきた。全ての財産を使い、全ての愛情をこめて。そして、ただハムスターの保護に一生を捧げてきた。
だが、年をとり妻が「高齢者急性骨髄性白血病」で倒れた時、夫は、妻が最近ファンになったアンジェにレターを送ったそうだ。
高齢者急性骨髄性白血病は、妻の年齢で5年生存率は5%程度になる。実際、医者から今年の夏のバケーションは難しいと言われた。その余命間もない妻に、できればあなたの夜空に舞い上がるホームランを最後に見せて欲しい、と。
そして――――
5月の満月の夜に行われたトロリースタジアムでの試合で、アンジェは夜空に舞い上がるホームランを放った。そのバックスクリーンに放たれたホームランは、試合後、球場職員の手からアンジェに渡された。
アンジェはそのホームランボールを持ち、愛好家夫婦の家を訪ねた。そして、ファンレターを送ってくれたことに感謝の言葉を述べ、サインされたホームランボールを夫に渡したそうだ。
ここまでは実際に確認されていることになる。都市伝説ではない。いや?「予告ホームラン」ともいえるホームランを放ったと考えれば「伝説」という言葉が相応しいのかもしれないが…………
実際、ファンの願いを叶えたホームランボールを届けた、というだけで、アンジェは全米から賞賛を受けることになったのだが、「都市伝説」の部分はこの後になる。
その都市伝説とは…………
アンジェがハムスター愛好家老夫婦に渡したホームランボールに書かれていたサインは、当初、アンジェの髪色と同じエメラルドグリーンの色で書かれていたそうだ。そして、夫はそのボールを持ち、入院していた妻を訪ねる。
妻はもちろん大感激して涙を流し、夫から渡されたそのボールを手に取った。
すると、エメラルドグリーン色で書かれたサインが突然光を放ち、そして妻の体へと吸い込まれていった。
エメラルドグリーンの光に包まれた妻は、その後の検査で病が完治していることを知らされ、アンジェに治してもらったと祈りを捧げた、という話だ。
その愛好家老夫婦の元へは、今もさまざまなメディアや人々が話を聞くために訪れている。
だが、老夫婦は多くの言葉は語らず、決まって「I appreciate it. (来てくれてありがとう)」と笑いながら伝え、そしてそっとアンジェから渡されたホームランボールを見せてくれるそうだ。そこに書かれているアンジェのサインは黒色で、エメラルドグリーンの色ではない。
全米各地からそのサインボールを譲って欲しいと言う申し出は殺到していて、提示された金額は1億ドルを超えたこともあるそうだが、老夫婦が「Yes」と首を縦に振ることはなかった。
このことから、アンジェが渡すエメラルドグリーンのサインが入ったボールは、人を癒すという都市伝説が広がっている。
もちろん、アンジェはその都市伝説のことを尋ねられても「そう」とだけしか言わず、肯定はしていない。ただ、否定もしていないことで、それが噂に拍車をかけていた。
アンジェがサインしたボールを渡すことは珍しくない。ゲーム前に、集まったファンに渡すこともあるし、ゲーム後に渡すこともある。それは普通のマジックでアンジェの名前が書かれたサインボールだ。エメラルドグリーンの色ではない。そして、その黒色で書かれたサインボールに、「都市伝説」で噂されるのと同じような死病を治す効果は当然ながら認められていない。
その「力」は、エメラルドグリーンの色で書かれたサインボールにしかないと、まことしやかに言われている。
ちなみに、アンジェはハムスターが好きなのではないか、という話が出始めたのも、このハムスター愛好家老夫婦の話がきっかけだ。アンジェの元には、毎試合、多くのファンからハムスターのぬいぐるみが届けられている。
■□■□
「な、なぜこれを俺に?」
「少し前にレターを貰った。先週? エマちゃんから」
「エマが?」
「ん」
どうやらエマが、サンダーが知らない間にファンレターをアンジェに送っていたようだ。
「だからお礼」
サンダーは、震える手でそのボールを受け取った。
――――間違いない!
そのボールには、確かに緑色のサインが書かれている。アンジェの髪色と同じ、これはエメラルドグリーンの色だ。
だが…………書かれている文字が読めない。
『エマちゃんゑ』
もしかすると日本語なのか?
都市伝説では、エメラルドグリーンの色で書かれていたのは、アンジェの名前だったはずだが、この文字がそうなのだろうか?
「エマちゃんに渡して」
サンダーが顔を上げると、アンジェが柔らかな微笑みを浮かべている。
「詳しくは話さない。でもレターには、あなたにも頑張って欲しい、そして私にも頑張ってとエールが書かれていた」
どうやら、いつものエマの「応援」が書かれていたようだ。
「真っ直ぐなエマちゃんの心が伝わってきた。その心からは、私の仲間と同じ色を感じた。だから、これを渡す」
サンダーを見つめるアンジェの瞳には、「透明」な感情が浮かんでいた。今の言葉にあった「真っ直ぐ」で「真摯」で、そして「思いやり」も感じる温かさが溢れている。
おそらくアンジェは、エマに、自分に共通する何かをエマのレターに感じてくれたのかもしれない。アンジェが口にした「仲間と同じ色」というのは今一分からないが。
「…………ああ、ありがとう」
何とかサンダーが礼を言うと、「ん」と小さく頷いて、アンジェは部屋を出ていった。
サインボールを手にしたまま、サンダーは立ち尽くしたまま、アンジェの姿が消えたロッカールームの入り口を見ていた。
■□■□
翌日。
サンダーは、朝早く妻とともにエマが入院している病院を訪れた。この病院にエマが入院してから間もなく一年となる。幸い、この病院はサンダーが所属するチームのオーナーが出資している病院だったから、プライバシーは万全に守られている。朝の病室訪問も特別に許されていたので、サンダーは遠征時以外は毎朝必ず病室を訪れていた。
病棟ナースステーションで看護士に挨拶をした二人は、そのままエマの病室に向かった。
サンダーの足は震えていた。おそらく妻の足も震えているだろう。
昨夜、妻にはアンジェから貰ったサインボールの意味を伝えている。妻もサンダーが知る都市伝説は聞いたことがあったそうだ。
病室は、思ったより遠く、そして思ったよりも早く着いた。
開放されているドアから覗くと、エマがすぐに気が付いた。ベッドの上で起き上がり、二人に元気な声をかけてくれる。
「パパ!ママ! おはよう!!」
「ああ、おはようエマ」
「おはよう、エマちゃん。ちゃんと眠れた?」
「うん」
サンダーはベッドに腰を掛けて、起き上がったエマの頭をゆっくりと撫でる。ベッドの反対側に回った妻は、エマの手を優しく握り、そしてさすった。
抗がん剤の治療は、残念ながらエマの輝くようなブロンズ色の髪を全て奪っていたが、満面の笑みを見れば、彼女の魅力が微塵も失われていないことが分かる。
「パパ! 昨夜の試合、残念だったけれど………すごいボール投げてたね! 今まで見た中であのボールは№1だったよ」
エマは、昨夜サンダーが思っていた通りの言葉を、元気な声で伝えてくれた。その言葉を聞いたサンダーの目に涙が浮かんでくる。
エマは、やっぱりエマだった。愛しい我が娘。
「あのボールを打ったエンジェル様、すごかったね!!」
笑顔を浮かべたままのエマに、サンダーはしっかりと頷いた。向こう側では妻が涙を流している。
「ありがとう、パパ! 素晴らしい試合だったよ!!」
「そうか…………そう言ってくれるのか……」
そして、サンダーはポケットからボールを取り出した。エマの手にそっと乗せる。
「これは…………?」
「昨夜の試合後にアンジェから、エマに渡して欲しいと受け取ったボールだよ」
「え!? うそ!」
驚いた顔のエマは「これが………エンジェル様のサインボール?」と手にのせられたボールを、頬を少し火照らせながら見ている。
「しかも…………これって、まさかエンジェルボールなの!?」
そう、エマはもちろん「都市伝説」は知っている。
「でも……なんで?」
「アンジェにファンレターを送ったんだろう?」
「う、うん」
「そのお礼だって」
「本当に?」
「本当だ」
「本当に、本当に、本当に!?」
「ああ、本当だ」
すると…………エマが零れるような笑顔を見せた。
「ありがとうパパ!! ありがとう、エンジェル様!!」
「…………エマ、エンジェルボールの都市伝説は知ってるかい?」
「もちろん!」
静かにサンダーが尋ねると、エマの笑顔がはじける。
「でも、都市伝説なんて関係ない。エンジェル様が私のためにサインしたボールを届けてくれたことが嬉しいの! それだけで信じられないぐらいHAPPYよ!!!」
サンダーは頷く。もちろん妻も。昨夜の二人の会話の中で、エマがこう言うだろうということは分かっていたからだ。
それでも…………
「ぎゅっとしてみていい?」
「もちろん」
すると、エマはボールを頬に当て、目を閉じてうっとりした表情を浮かべた。
「ああ…………エンジェル様の声が聞こえる」
サンダーが尋ねる。
「なんて言っているんだい?」
エマに聞こえているのは幻聴だ。いくらアンジェのボールでも、それが奇跡を起こす「天使のサインボール」であったとしても話すことはない。でも、それがエマの心を動かしてくれるなら、手術前のエマの心を上向きにしてくれるなら…………
「…………頑張ったね、それと――――頑張ってね、かな?」
すると――――
突然、ボールからエメラルドグリーンの光が浮かび上がりエマの体を包み込んだ。
「え!? 嘘?」
その光を見た妻が、口に手を当てて目を大きく見開いた。サンダーは、動くこともできず言葉も出てこない。その淡い緑色の光は、エマに対するリスクを感じさせることはなぜかなかった。優しさが溢れている。サンダーの脳裏に浮かんだのは「天使の光」だった。
その「天使の光」に包まれるエマを、サンダーと妻はベッドに座ったまま、食い入るように見つめていた。
やがて――――
光が消え去ったベッドには、きょとんとした表情を浮かべるエマの姿があった。
「パパ? ママ?…………え?、どうしたの?」
サンダーと妻は、頬を伝う大粒の涙を拭うことなく、サンダーと同じブロンズ色の長い髪が輝いているエマを、二人でしっかりと抱きしめた。
サンダーが感謝の言葉を呟く。
そして、二人から強く抱きしめられたことに驚くエマが手にするボールには、黒色のアンジェのサインが残されていた――――
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