第7話 【閑話】天使のサインボール(前編)



 side サンダー



 サンダーは頭からタオルを被り、そしてロッカールームのベンチに座っていた。


 試合終了からすでに2時間が経過した。


 チームメイトは、打たれたサンダーをおもんぱかり肩をポンポンと叩いてロッカールームを後にしていた。そして、サンダーが一人になってからもう一時間以上は経っただろう。


 アンジェにホームランを打たれたことに、不思議と後悔はない。


 彼女に投げたボールは、自分のベストピッチング、いや極致のピッチングと言ってよかった。あとで聞くと球速は111マイル。時速178キロは自己ベストであり、そしてMLBの最高記録ともなった。スピードだけではない。伸びも100点満点、いや120点だった。アンジェ以外であれば、誰も掠ることすらなかったはずだ。


 おそらくこの後、サンダーが同じボールを投げられる機会は二度とないだろう。それぐらい自画自賛ができるボールを投げることができた。


 そのサンダーにとって最高に極めた球を、あれだけ見事に打ち返されたのだ。



 だから…………



 後悔はない。ただ、残念な思いだけは残っている。その残念な思いが、いまだサンダーをこの場所から離れさせないでいる。


 それは――――エマにウイニングボールを届けることができなかったことだ。


 その残念に思う心が、サンダーの身をロッカールームのベンチに縛り付けていた。


 サンダーは明日の朝、エマの病室に向かうつもりだ。そのときは、きっと『パパ、昨夜の試合、すごかったね!あのボール、今まで見た中で№1だったと思うよ。そのパパに勝ったエンジェル様もすごかった! ありがとう!』と、明るい笑顔で迎えてくれるはずだ。セリフは予想だが、似た言葉をかけてくれるはずだ。



 だから…………



 謝ってはいけない。謝る言葉を口にしてはいけない。それは分かっている。

 少なくともアンジェとの対決そのものに謝る要因は皆無だ。



 だが…………



「…………すまない、エマ」


 俯いたまま、サンダーは口にしてはいけないと思っていた言葉を呟いていた。



 ■□■□



 時刻は間もなく日付が変わる頃だ。

 球場に残るスタッフも僅かだろう。

 そろそろここを離れなければ、多くの人に迷惑をかけることになる。



 だが…………



 独りぼっちのロッカールームは、なぜか煌々と照らされている。静謐さを漂わせた雰囲気とは真逆の明るさが満ちている。

 その明るさが、サンダーをこの場所にとどまらせているのかもしれない。



 やがて――――



 コツコツコツ…………



 足音が聞こえてきたことに気が付き、チラリと振り向いててロッカールームの入り口を見ると扉が開けてあるのが目に入った。どうやらチームメートが「早く帰れよ」というメッセージを残してくれていたようだ。まったく気が付いていなかった。

 そしてこの足音は、球場スタッフが帰宅を促しに来たのだろう。



 ――――ちゃんと詫びよう



 もう一度俯いて少し心に気合を入れ、タオルを頭から落としたサンダーは、ゆっくりと立ち上がった。



 コツコツコツ



 足音が止まり、ロッカールームの入り口にきたのが分かる。

 振り返り、迎えに来たスタッフに「申し訳ない、もう帰る――――」と話しかけたところでサンダーは身を強張らせた。



 ――――え!!!



 茫然と口が開く。


 ロッカールームの入り口で立っていたのはスタッフではなく――――アンジェ・ミラーだった。


「お、お前は…………いや、あなたは」


 戸惑うあまり、言葉が上手く出てこないサンダー。


「ん。Hello(初めまして)」



 ――――そうか……



 スタスタとロッカールームに入ってきて手を差し出したアンジェの挨拶の言葉に、何度か対戦はしたが今まで話したことが一度もないことを、サンダーは気がついた。今日の対戦でも、何度も何度も言葉を交わした気になっていたが、確かに何も会話はしていない。


「お、おう…………Pleased to meet you?」


 カジュアルなアンジェの挨拶に対して、何故かフォーマルな挨拶を返すサンダー。しかも差し出された手はしっかりと握っているし、挨拶は疑問形だ。



 ――――何をしているんだ、俺は!



 頬が火照るのを感じる。



 だが――――手を離したアンジェは、サンダーを見つめながらクスッと微笑んだ。その微笑みを見たサンダーは、アンジェに対するこれまでの評価が一変した。



 ――――なんだ、この可愛い生き物は!!



 思わず絶句し、そしてエマが心酔している理由が少しわかった気がした。


「今夜は私の記憶に残る。良いボールだった。そして……良い対戦だった」


 少しぶっきらぼうな感じの喋り方だが、ネイティブな英語をアンジェは話している。日本人は片言の英語しか喋れない奴が多いと思っていたサンダーは、さらにアンジェの評価を上げていた。


「ああ……残念だがその良いと言ってくれた俺のボールは打たれたがな。だが…………ベストピッチだった。感謝している」


 何故かふと知らず知らずのうちに、サンダーは感謝の言葉を述べていた。勝負に敗れたのは自分だったのだから、ある意味、「初対面」ともいえる相手にそんな言葉を口にするつもりはなかったのに…………


「ん。それで――――これ」


 しかし、そんなサンダーの言葉を気にせず頷いたアンジェが、何かを差し出した。



 ――――ボール?



 ボールには緑系の色で何かの文字が書かれている。

 そのボールを見た時、サンダーの心臓が大きく「ドキリ」と跳ねた。



 ――――ま、ま、まさか…………これは……



 そう。アンジェのサインボールだ。しかも緑色のサインが書かれたサインボール。そのボールの噂を、いやの「都市伝説」をサンダーは知っている。



 ■□■□



 彼女が人々から注目されたのはベースボールの成績だけではない。


 もう一つの「アレ」もアメリカ中、いや世界中から注目を集めた。それが、アンジェを神格化する人々が多い理由だった。



 それは…………



「癌が治った」


「歩けるようになった」


「目が見えるようになった」


「彼女ができた」


「宝くじに当たった」


「姉と仲直りした」


「試験で100点が取れた」


「故障した車が直っていた」



 彼女の「活躍したプレー」を直に見た人たちに起きたとされる現象が、彼女の注目度を、その現象の内容が新たに伝わるたびに上昇させていた。

 その世間で呟かれている内容は、どうでもいいようなものや、眉唾ものもあったが、とにかく、彼女が活躍した姿を見た人が「元気なエネルギー」を受け取ることができると信じられていたのだ。


 それも大勢の人々に。


 実際、5月に彼女の試合を見に来た某国の王子は、数週間前に遭った事故により立つことができずにいた。試合前に受けたインタビューで彼は、車いすに座ったまま、「今日のゲームが本当に楽しみなんだ。もし『アレ』が本当なら、僕は歩けるようになるかもしれないからね」とジョークを言っていた。


 しかし、彼女が連続ホームランを放ったその試合後、彼は自分で歩いて球場を後にしていた。いや、映像ではスキップする姿が映っていたので、少数の人は車いすがフェイクだったのだと言い、多数の人は奇跡が起きたのだ、と言った。


 他にも、同様の「不思議」なことは多数起きている。本当かどうかは分からないが、新たな「噂」が現れるたび、彼女への注目は高まっていった。


 やがて人々は、アンジェによって引き起こされたその不思議な現象が起きる原因を「アレ」と表現するようになる。

 この「アレ」が、彼女の試合が全て超満員の入場となることにつながっている。試合のチケットは、無論、プレミアム化していた。


 トロリースタジアムのレギュラーシーズンの試合の観戦チケットは、最低はトップデッキの60ドルだ。そして、最も高いのがフィールドボックスMVPで3,700ドルとなる。もちろん、公式HPでは発売開始と同時に瞬時に売り切れるのでチケット再販サイトなどで求めることになるが、その価格は高騰した。通常販売価格の最低100倍から最高は1万倍をつけたこともある。


 過去最高の販売金額は1,000万ドルだ。


 あり得ない。ワールドシリーズ、いやスポーツ以外を含めた全てでチケットのこんな金額は聞いたことがない。



 さらに…………



 本当かどうかは分からない。だが、人々にゆっくり浸透していった都市伝説がある。


 それが「天使アンジェのサインボール」だ。


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