第5話 「ヒーロー」はどこまで行っても「ヒーロー」



 まず、気をつけなければならないこと。


 それはついさっき脳裏に浮かんだファーボールだ。絶対ダメだ。ホームランを打たれるよりも結果は悪い。

 もしも、この場面でアンジェにファーボールを与えるようなことになれば、サンダーに大きな大きな非難が押し寄せる。監督が受けたくないと「申告敬遠」を選らばなかった非難を上回るattack(強い非難)が。


 その理由の一つは…………今シーズン、サンダーは前回のアンジェとの対戦だった申告敬遠以外で、一度もファーボールを出していないことがあげられる。昨年も、手元が滑った一度だけ死球を与えたことがあるだけだ。四球は一度もない。もちろん、一昨年もだ。

 抜群のコントロールを持つ「抑えの神様ゴッド・リリーフ」。それがサンダーに与えられた称号だ。


 ファーボールでアンジェを出塁させれば、誰がどう見ても故意だと思うだろう。もし、その後の打者を打ち取ったとしても、サンダーに向けられるのは間違いなくブーイングであり、そしてクレームだ。それも自軍ファンを加えた全米各地からの。


「フーッ…………」


 サンダーはチラリと電光掲示板で表示されているピッチロックの時間を確認すると、大きく息を吸って、そして吐いた。

 もちろん、この状況を招いたのはサンダーのせいだ。監督が申告敬遠の指示を出さないのもそれに尽きる。


 この最終回、サンダーの出番はワンアウト1、2塁のピンチの際に訪れた。

 二人の打者を続けて打ち取れば、アンジェに回らないことは分かっていたし、それを期待されてマウンドを任された。



 しかし…………



 なんと、最初の打者をエラーで出塁させ、満塁にしてしまった。そのエラーもピッチャ前に転がってきたゴロを取り損ねたのが原因だ。サンダーが悪い。

 いや、言い訳をさせてもらえるなら、あれはイレギュラーバウンドだった。まあ、そんな言い訳が通用するはずがないことは分かっている。イレギュラーバウンドであろうとなかろうと、それをアウトにできるのがサンダーであり、そしてそれを期待されていたのだから。


 もしも、あの球を上手く処理できれば併殺でゲームセットだった。併殺は無理だっとしても、アウトを一つだけ取れば、次のバッターを打ち取り、それで終わらせることもできただろう。

 その展開ならば観客もブーイングはしない。逆に、アンジェを迎える直前に試合を終わらせたサンダーに賞賛の声が送られただろう。スタンディングオベーションはサンダーのものだった。そしてエマへのウイニングボールをゲットできていた。


 しかし…………次の打者が三振したことで、サンダーの計画はジ・エンドを迎えてしまった。


 サンダーも努力はした。その次の打者を併殺で処理しようと考え、ゴロで打ち取ることができるコースに丁寧なピッチングをした。



 しかし――――



 なんと彼は三振しやがった。あれはワザとだ。どう考えても。

 なぜなら、天と地ほどボールがバットから離れていた。難しいコースではない。スピードも100マイル程度だった。もちろん僅かな変化をさせて打ち取るボールだから難しいボールだったとは思う。

 だが、大リーガーならあんな三振はしない。無様な空振りは。

 それに…………彼は大スイングで三振した後、こちらを見てニヤリと笑いやがった。


 そりゃ、気持ちは分かる。


 仮に自分が頑張って長打、いやホームランを打ったとしよう。そして、もしそれでこの試合を勝利で終わらせたらどうなるのか?


 間違いなくブーイングが起きる。


『なぜ、アンジェに回さなかった!』


 そんな批判はこれまですでに幾度もあった。彼女が登場して、まだ90試合しか過ぎていないにも関わらずだ。なんせ、「」がある。今日のアンジェは4打数4四球。まだ打撃ではを見せていない。

 ましてや、もしも万一併殺打を打ってしまい、アンジェに打席を回すことなく試合を負けで終わらせたら…………


 ブルブルブル……


 サンダーは小さく身を振るわせた。


 サンダーが彼の立場で考えてみると、そんな結果は絶対に想像したくない。下手をすれば、いや下手をしなくても選手生命に関りかねない。それぐらいの危機感を覚える。


 逆に…………


 ツーアウト満塁で一発出れば逆転サヨナラ満塁ホームランだ。彼が三振するだけでそのシーンがお膳立てされる。そして、そのシーンは皆が望んでいる。

 なにせサンダーの味方であるモンクースのファンですら大声を上げている。上げているのはブーイングではない。大歓声だ。

 おそらく、このシチュエーションを作り出した、というそれだけで三振した彼は今夜のスポーツ番組で名前を読み上げられるだろう。もちろんそれは、ヒーロー側のポジションでだ。



 ――――馬鹿げている!



 サンダーは嘆きたかった。


 サンダーが知る野球では、三振してヒーローになることなどなかった。ツーアウト満塁のピンチで、自軍のファンが自軍ピッチャーではなく相手バッターに声援を送るなんてことは想像もできなかった。


 しかし…………


 今、観客は敵も味方も全員、アンジェが放つ「逆転サヨナラ満塁ホームラン」を期待している。もう一つ言うならば、そのホームランはMLB史上初の100号ホームランだ。敵も味方もそうでない者も望んでいるのは、「アンジェのホームラン」であることは確かだった。

 それこそちょっと穿った見方をすれば、自軍であるはずのモンクースのベンチすらそれを期待しているのではないだろうか? 監督の視線もにやけているように感じる。何が「グッド・ラック!」だ!


『くそっ! もうどうにでもなれ!』


 いろいろ考えていたせいか、集中が途切れ、グルグルといろいろな想いが渦巻き始める。



 ――――ダメだ、これじゃ!



 ピッチロックのタイムアウトも間近だ。これ以上、時間の猶予はない。

 今、自分に必要なことをもう一度思い浮かべる。


 それは何か?


 手術を間近に控えた今のエマに――――おそらくこの場面を病室で注視しているであろうエマに、何を伝えなきゃいけないか、だ。


 それは「諦めないこと」。もう一つある。「立ち向かう勇気」だ。


 その二つをエマに示せるのはサンダー自身の行動しかない。さっきふと頭に浮かんだ「ファーボール」という選択肢は、その二つをサンダーが放り出したに等しい。

 では……アンジェに正面から立向かい、そしてホームランを打たれたらどうなるのか?

「諦めないこと」「立ち向かう勇気」その二つが粉々に打ち砕かれたに等しくなるのではないだろうか?


 いや――――そんなことはない。絶対に。


 何故なら、サンダーのことを応援してくれている姿は見せてくれてはいるが、エマの脳裏に浮かんでいるのは、アンジェによって描かれた「9回ツーアウト満塁、逆転サヨナラ満塁ホームラン」の光景だろう。


「エンジェル様」とアンジェを呼ぶエマは、アンジェへの心酔は半端ない。そしてそれは決して間違いではない。

「ヒーロー」はどこまで行っても「ヒーロー」なのだから。それにアンジェがベースボールに取り組む姿は真摯だ。真剣にバッターボックスに立ち、ピッチャーに向かい、そして結果を確実に出す。


 だからこそ…………エマを勇気づけたい今だからこそ、サンダーが選べる選択肢は一つしかなかった。


 集中を高めるために、サンダーはもう一度深呼吸をした。


「フーッ…………集中!」


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