第2話
「後を付けていったらトイレに向かっているのが見えたのに女子トイレには一人も利用客がいなかった。いや、流石にあり得ないでしょ、って思ったけど確かにトイレに入っていく後ろ姿は見えた、だから念のために男子トイレに入ってみたら……まさか本当にここにいるなんて」
西渡翼は疑問を浮かべた表情をしている。一切の息切れもないその様子は流石は陸上部のリーダーだと言わざるを得ない。それなりに足の速さに自信があるとはいえ日々鍛錬しているような人と比べれば明らかにボクの方が足が遅いに決まっている。そう簡単に逃げ切れるわけがなかった。
さてと、どうしたものか。何とかして言い訳を作らなくてはいけない。ボクが男子トイレに入ってもおかしくない自然な理由。今思いつくものは、実はボクは女子のコスプレをした男子だったのさ、と真実を言う。それは言い訳じゃなくて白状しただけじゃないか……
だったら天然キャラを演じるというのはどうだ? 女子トイレに行ったつもりだったんだけど間違えて男子トイレに入っちゃったーということにする。無理がある話だけれど絶対にない話じゃない。トイレに行きたくて仕方がなかったと加えれば信憑性も上がるだろうし。うん、それにかけてみよう。
「あ、本当だ。ここ男子トイレじゃん。あーまっちがえたー。でも急いでいたから仕方がないよね~」
「…………」
西渡翼は黙った。それでもジトっとこちらを疑問視する目線は依然と変わらない。いやそれどころか増々強くなっているような気がする。馬鹿にし過ぎって思われたかもしれない。ボクは彼女の目から逃れるように視線を外す。穴があったら入りたい。
西渡翼が再び口を開くのを待っていた。しかし、彼女は何も言わない。ただでさえ居心地の悪いこの空間がどんどんと魔境のように思えてくる。いるだけで生気を吸収されていくかのような感覚。次第にボクは居ても立っても居られなくなって、このまま逃げ出そうと考えた。西渡翼はボクの正体にまだ気づいていないのだから、ここで逃げてしまえば永遠に疑われることはない。いや、でも西渡は陸上部のリーダーなんだった。この状況下で逃げたとしてすぐに追いつかれるに決まっている。
八方塞がり。
いや。
完全に詰んだってわけじゃない、はず。だってまだボクの正体は西渡にはバレていないんだから。疑いを向けられているだけ。そもそも西渡が疑っているのはボクが男子トイレにいたってことだからまだ挽回のチャンスは残されている。ボクは必死に頭を回して打開策を模索する。
コツコツコツ……。
入口の方から物音が聞こえてくる。ボクだけじゃなく西渡も後ろに視線を送った。人影が薄っすらと現れる。物音の正体は足音のようだった。
まずい! 誰かが入ってくる。この状況下を誰かが見れば絶対なんか変な想像をされるに決まっている。
いや、逆に使えるんじゃないか? 西渡の表情を見るに多分焦ってはいるはず。今、ボクが逃げ出せば少なからず驚くだろうから時間も稼げる。これはチャンスだ。神様が逃げろって言っているんだ! ボクは人影を見つめて逃げ出す瞬間を伺う。
ガシッ、と。西渡に腕を掴まれると共に引っ張られる。そして個室の中に入ると勢いよく施錠をする。
「え、えぇ、え!」
「しぃー」
「ん……!」
口を塞がれるように西渡の手に覆われる。西渡の手がボクの口の前に。少しでも動けば触れてしまいそうなほどの距離。思わずボクは息を止める。なんだか息を吸うことが悪いことのように思えた。
物音が静まるまで西渡は気配を殺したスパイのように黙っていた。その横顔はおそらく部活をやっている時のかっこいいときの一面と同じなんだと思う。とは言え、唐突の出来事で素直にかっこいいなんて思っていられない。
な、なんでこんなことを……?
「行った、ね」
「ふぅ……」
ようやく西渡の手が口元から離れてくれたからボクは大きく息を吸うことが出来た。でもここはトイレの中だ……。トイレで深呼吸なんて最悪だよ。
すると西渡がボクの方へ振り向く。両手を組んで首を傾げ、いかにも何か文句を言いたげな表情をしていた。ボクの作戦なんて既にバレていたってことか。こうなれば完全に八方塞がり。逃げ出すことが出来ない。こうなれば仕方がない。黙秘権を行使する。ボクは西渡から何を言われようとも黙秘し続ける覚悟を持った。
「あなたね。さっき誰かが来ていたでしょ? なのに駆け出していきそうでびっくりしたわ。こんなところで見つかったらなんて思われるか分からないのよ? ひとけもない場所だからもしかしたら危険に遭っていたかもしれないのに。ちょっとぐらいは気を付けなさい?」
あれ。注意してくれている?
思わぬ気遣いにちょっと呆気に取られた。絶対によくも逃げようとしたわねとか言われると思っていたのに。意外と優しい。ボクはまじまじと西渡の顔を見る。よくよく思い返してみれば西渡はただボクと会話がしたいだけだったんだ。男子トイレに行ったせいで怪しまれたとボクは思ったけれどもしかしたらただのボクの思い込みによる勘違いだったのかもしれない。それに女の子が男子トイレに入ったからと言っていきなり男子なのでは、と疑う人はあまりいないんじゃない?
「…………」
「? どうかしたの?」
「えっと助けてくれてありがとう」
ただのボクの考えすぎだっただけなのかもしれない。純粋に西渡は心配になって追いかけてくれた。きっとそういうことなんだろう。多分もう二度とこの姿で会うことはないだろうけれど、この恩はいつか返そうと思う。
西渡の口元が薄っすらと綻びふっと笑った。それを見てついボクも笑う。
「それじゃ——今から本題ね。あなた、阿木りのでしょう?」
「え」
その言葉を聞いた瞬間、ボクの顔から笑みが消えていく。
「その反応は、やっぱりそうみたいね。ふふ。まさかあなたにそういう趣味があったなんてね」
「あの、なんのことだかさっぱり——」
「ちゃんと喋る時は声を工夫しなくちゃいけないじゃない、声が阿木りのそのもの過ぎるわ。もともと高い声だからあんまり緊張感がなかったみたいだけれど、あなたのことを知っている人だったら簡単に分かってしまうわ」
「えっと誰のことを言っているの?」
「あくまで誤魔化すのね。——じゃあいいわ。言い訳が出来なくしてあげる」
「な、なにを!」
西渡は声を低くして脅迫するかのように言った。ボクは壁に押さえつけられている。いくら西渡が女子だからと言っても警戒している彼女を押し倒して逃げ出せるとは思えない。
西渡はゆっくりと手を下にしてボクの太ももを掴んだ。
「ちょっ!」
「あなたは誰なのかしら?」
撫でるかのように手はゆっくりと上がっていく。
まさか、あそこを触る気なんじゃ……? いやいや、いくら何でもそれは。しかし彼女の手はどんどんと股の間へと伸びていく。もしもそこを触られてしまえば言い訳のしようがないけれど。そんなことが出来るわけが……!
ジッとボクは西渡の手の動きを見つめていた。見つめているだけでは手が止まるわけがない。そんなことは分かっている。でも抵抗しようにも西渡の力が強すぎる。
ふと西渡の顔を見た時だった。
真っ赤に頬の染めた表情がそこにはあった。なんだか西渡の目がグルグル回っているかのような風にも見える。
すると手の動きもだんだんなくなってきた。そして、完全に手が止まる。
「出来るわけないじゃん!! そんなこと!」
西渡は僕からバッと離れると怒りをぶつけるようにそう叫んだ。赤面した顔で若干息を乱している。こんな西渡を見たのは初めてだった。想像以上に取り乱している。
そりゃ、そうだよ、はぁあ。よかったぁ! 確かにその方法なら確かめることは出来るけども実際に出来るわけじゃない。紙を何回か折れば月に届くとかそういう話と一緒。
ボクはホッと胸を撫でおろす。それと同時に今が絶好の逃げるチャンスなんだと気づく。
「えっと、なんかよくわからないけど、いくね」
「ま、待ちなさいよ!」
「ごめん忙しいから」
「待って。分かったわ。でも一つだけ聞いて」
「嫌だ」
「もしも聞いてくれたらもう追いかけない。どうせ今逃げてもこの私から逃げられるわけないのは分かるでしょ?」
「…………」
そう言われれば振り返らずにはいられない。ボクは眉を潜めたまま西渡を視界に入れる。
「明日、文化祭二日目があるわよね」
「ある、けど」
「明日の文化祭、絶対に女装して来てね。じゃないとみんなにバラすから。——嘘でも本当でも阿木くんに女装趣味があるって」
「え、いやそれって。ボクが行っても行かなくても阿木って人は女装をしていることを認めることになるんだけど」
「そうかしら、別に阿木くんじゃないなら、それでもいいんじゃない? ——と言うわけで校門の前で待っているからね」
そう言って西渡は笑みを浮かべた。まるで勝利を確信しているかのように。
こうしてボクは二日目の文化祭も女装して遊びに行くことになってしまったのだ。
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