第8話 ベンチで眠る女子生徒

 翌日。


「流石はフェンリルの体液。身体の疲れは完璧に取れてるな」


 自宅を出て、学院へ出勤している途中。

 僕は舗装された歩道を進みながら、自分の腕を回して呟いた。


 昨日の調べものによる疲労はすっかり取れている。

 肩の凝りや眼球の疲れも全く感じず、不調な箇所は何処にもない。

 おまけに、朝食にエイザの卵を食べたこともあり、僕の身体は活力に満ち溢れていた。それこそ、今すぐにでも長距離のランニングをしても構わないと思ってしまうほどに。


 エイザの体液ということもあり、口に入れて喉を通すには多少の抵抗がある。

 けれど、その効能は本物だ。


 大昔、フェンリルの亜人が他種族に乱獲された理由がわかる。

 これだけ凄い効能を秘めているのだから、誰だって欲しがるだろう。

 まぁ、その欲のせいで、今ではフェンリルの亜人は絶滅寸前なのだが。


 広げた掌を握り固め、僕は自分に言い聞かせる。


「本当に、生徒たちにはバレないようにしないと。変なボロ出すなよ、僕」


「何がバレないようにしないといけないのですか?」


 何の前触れもなく、真横で聞こえた声に僕は足を止めた。

 この声は……。

 頭の中で声の持ち主の姿を思い浮かべつつ、ギギギ、と僕は声のしたほうへと顔を向けた。


「……え、エフェナ」


「おはようございます、ゼファル先生。今日は快晴で気持ちの良い朝ですね……隠し事をするのは勿体ないくらいに」


 エフェナは微笑みと共に、そう言った。

 声音は普段と変わらない。柔らかく、優しく、こちらを落ち着かせてくれるもの。しかし、間近で聞いた僕にはわかる。この声には『絶対に逃がしませんからね?』という強い意思が宿っていた。


 マズイ。

 僕は咄嗟に走り出そうと足に力を籠めた。だが、いつの間にか、僕の右腕がエフェナに抱え込まれており、逃走は不可能に。

 振り払おうとするが、腕はビクともしなかった。

 完璧に、抑え込まれている。


「く……ッ」


「無駄ですよ、先生」


 涼し気な顔で僕を封じ込めながら、エフェナは僕の耳元で囁いた。


「知ってますよ? 先生は翼を顕現させないと、片手の私たちにも勝てないくらい非力な存在なんだって」


「そ、そんなことは──」


「そんなことはないですか? でしたら、私を振り払ってみてください。ちなみに今も、本当に軽く抱きかかえているだけですよ?」


「……参ったよ」


 振り払える気は全くしない。抵抗は意味を為さない。ここは潔く諦めよう。

 僕が降参を示すと、エフェナはすぐに僕の腕を解放した。


「懸命な判断ですね、先生」


「勝てない勝負に挑むほど、僕は愚かじゃないからね。でも──振り払うのは諦めたけど、秘密は話さないよ」


「……どうしても、ですか?」


「どうしても。僕にも秘密を持つ権利はあるだろう?」


「私の知る権利は?」


「この場合、秘密を持つ権利が優先されます」


「ふむ、そうですか……わかりました。諦めます」


「ん? 随分とあっさりと。もっとごねると思ったんだけど」


「私は聞き分けの悪い子供でも、我儘な貴族でもありませんからね。それなりに年は重ねていますし、何より、先生の権利は尊重したい。……でも、その代わり」


 持っていた手提げ鞄の中から円柱状に折り畳まれた白いタオルを取り出したエフェナは、少しだけ頬を赤らめて視線を逸らし……それを、僕に差し出した。


「私の卵……受け取ってください」


「お断りします。王女様」


 端からそれが目的か。

 僕が受け取りを拒否すると、エフェナは不満そうに頬を膨らませた。


「む。乙女が恥じらいながらも勇気を出して渡したプレゼントを拒否するのですか?」


「他のものだったら受け取ったかもね。でも、君から卵を貰ったら、その時点で色々と終わりなんだよ」


「強情ですね。まあ、最初から受け取って貰えるとは思っていませんでしたから……」


 取り出したばかりの卵入りタオルを手提げ鞄に戻したエフェナは、再び、僕の腕を抱きしめた。


「これで許してあげます。これは、拒否したりしませんよね?」


「拒否したら、どうする?」


「真正面から無理矢理抱き着きます」


「それは歩きにくくて嫌だな。それなら、腕のほうがいい……だけど、学院までだからね」


「はい♪」


 上機嫌そうに頷いたエフェナに腕を抱きかかえられたまま、僕は学院への道を進んだ。

 普段よりも歩く速度を遅め、彼女に歩幅を合わせて進む。

 他愛ない会話が自然と生まれる。鳴り響く靴音が合わさる。布越しではあるが、互いの体温を間近で感じる。いつもよりも、移動が楽しく感じる。


 誰かと一緒に道を歩くのも悪くない。

 機会があれば、またこうして、生徒と並んで道を進むのも良いかもな。


 なんて思いながら、いつもより楽しく学院までの道を歩くこと、十数分。

 体感では数分ほどに感じられた移動は終わり、学院に到着。正門から敷地内に入ったところでエフェナは名残惜しそうに僕の腕を解放した。


「もう終わりだなんて……本当に、楽しい時間はあっという間ですね」


「そういうものさ。さぁ、君は教室に向かいなさい」


「研究室に行ってはいけませんか? 授業が始まるまで、まだ一時間以上ありますし」


「駄目だよ。ただでさえ二人で学院に来て、周囲から凄い目で見られていたんだから。研究室にまで一緒に行ったら、どんな噂を立てられるかわからない」


「私は別に構わないのですが……」


「僕が構うんだよ。ほら、早く教室へ──ん?」


 エフェナに教室へ向かうよう促した時。

 僕は研究室のある方角、色彩豊かな花々が植えられた日当たりの良い花壇の傍に設置されたベンチに目を留めた。


 そこに、一人の生徒が座っていた。

 片側を三つ編みにした薄緑の長髪と、エフェナと同程度の背丈。制服の下から存在を主張する豊かな双丘、黒いタイツを着用した健康的な脚。あどけなさの残る、端正な可愛らしい顔立ち。


 乙女の魅力を多く備えた生徒だが、僕が何よりも注目した彼女の特徴は、こめかみから生えた角のような枝と、背中に携えた木の翼だ。

 特に翼が興味を掻き立てる。

 骨組みは一部が白く変色した枝で、羽は青々とした葉。

 こんな研究しがいのある特徴を持つ彼女は、確か……。


「パシェル! こんなところで眠っていたら、寝過ごしてしまいますよ!」


「ん……うぅ」


 ベンチで眠る彼女──パシェルに近寄ったエフェナが名を呼び、彼女の肩を叩いて起こす。

 と、パシェルは小さな呻き声を上げ、微かに顔を顰め……ゆっくりと瞼を持ち上げた。


「あれ……No.0? どうしてここに──」


「ちょ──な、何を寝ぼけているんですかパシェルッ! 私はエフェナです。エフェナ! しっかりしてください」


「んぅ……まだ、ファンクラブの会議は終わってなかったん、ですか? 早く先生の写真を回収し──」


「ちょっと一旦口を閉じてください」


 眠そうに目を擦るパシェルの口を強引に塞ぎ、エフェナはフゥ、と安堵の息を吐いた。


 No.0 ファンクラブ 写真

 聞き取れた単語はこの辺りなのだが……これらは一体、何を意味しているのか。

 気にはなるのだが……何故だろう。深く追求してはならない気がする。これらのことを彼女たちに尋ねると、何故か、この記憶を葬り去ろうと彼女たちが襲い掛かってくるような気がする。

 僕の直感が、そう言っている……。


 聞かなかったことにしよう。

 きっと、それが最善だ。


「ご、ごごごごごごごめんなさい、エフェナちゃんッ!! わ、私、とんでもないことを口にして──」


「大丈夫です。まだ、まだ、ギリギリ何とかなる範囲でした。私が貴女の口を塞いだので、まだ何とか……先生」


 こちらに顔を向けたエフェナはジトっとした目で僕を見つめ、問うた。


「今、何か聞こえましたか?」


「いや、距離が離れていたし、パシェルの声が小さかったから聞こえなかったよ」


「……わかりました。よかったですね、パシェル」


「は、はいぃ」


 僕の回答に、ベンチに座るパシェルはホッと胸を撫でおろした様子で、肩に入っていた力を抜いた。

 本当はバッチリ聞こえていたけれど、それを明かすと何をされるのかわかったものではないので、口を閉ざしておこう。


 聞こえた単語を全て胸の奥底に沈め、知りたい気持ちを全て押し殺し、僕は二人に歩み寄った。

 もう少しだけ、朝の雑談を延長しよう、と。

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