第7話 狼メイドのホットミルク
日付が変わった深夜零時。
学院からほど近い場所にある自宅二階の書斎にて。
「流石に、産んだ個人を特定できるような手掛かりは見つからなかったか」
三日月の形をした火が灯る蝋燭に照らされた室内で、僕は机上に開いていた本をパタンと閉じ、疲労の蓄積した上半身を伸ばした。
学院から帰宅した後も、僕は調査を続けた。
あの硬質で美しい青い卵の産み主について、何か有力な手掛かりはないかと。
本を開き、文献を漁り、卵を観察して。
だがやはりというべきか、有力な手掛かりは見つからず。
数多の亜人の卵を目にしてきた僕が見たことのない種なのだから、そう簡単には見つからないとは思っていないけど……少しだけ落胆してしまう。
特定には、まだまだ時間がかかりそうだ。
「海洋生物にルーツを持つ亜人の卵を調べたけど、図鑑や文献に同種の卵は存在しなかった。まさか、新種の卵……いや、学院に在籍している生徒たちの種族が産む卵は全て図鑑と文献に記載されているはず」
呟き、僕はビーカーを満たす水の中で揺れる青い卵を眺めた。
「とても綺麗だけど……君は何の亜人の卵なんだい?」
命の宿らない、返事をすることのない卵に呼び掛ける。
と、その直後。
「失礼いたします、ご主人様」
ノック音を鳴らした扉が開かれ、一人の少女が入室してきた。
とても綺麗で、人形のような少女だ。
肩口で毛先が揺れる灰銀色の綺麗な髪と、光を内で乱反射させて輝く緑玉の瞳。
感情の窺えない端正な顔立ちと、スラリと細く、しなやかな体躯。
そして──頭部で際立つ存在感を発揮する三角の耳と、腰の下から生える柔らかな毛に覆われた大きな尻尾。
エイザ=フラハイル。
黒を基調としたメイド服に身を包む彼女は、かつて絶滅の危機に瀕した狼の王──フェンリルの血が流れる亜人であり、僕の専属侍従である。
湯気の立つマグカップを片手にこちらへ近寄ってきた彼女は、手に持つそれを、机に置いた。
「ホットミルクをお持ちしました」
「ありがとう、エイザ」
「いえ。もう夜も遅いですが、まだ調べものを?」
「うん。もう少しだけね」
「夜更かしは身体に悪いです」
「大丈夫。もう少ししたら、眠るから」
心配するエイザに言い、僕はホットミルクを口に含んだ。
美味しい。少しだけ砂糖も入っているらしく、甘みを感じる。温かさも丁度良く、飲むだけで、身体に蓄積した疲労が取れていくような気がした。
「美味しいよ」
「恐れ入ります」
「うん……飲んでいると、本当に安らぐ。疲れが取れて──ん?」
飲むだけで疲労が取れる。
その部分に違和感を覚えた僕はジッと手元のマグカップを見つめ──まさか。
嫌な予感に、僕はエイザに問い尋ねた。
「ねぇ、エイザ。一つ聞いていいかな」
「何なりと」
「このミルクには、何が入っている?」
「? 温めたミルクと、少量の砂糖。それから──」
指を三本を折り畳み、エイザは告げた。
三つ目の材料を。
「私の──唾液です」
「なんってもんを入れてるんだよ君は──ッ!!」
僕は叫んだ。
「主人に唾液入りのホットミルクを飲ませる従者があるか! 普通のホットミルクを入れてよッ!」
「嫌です」
「何で!?」
「ただのホットミルクではご主人様の疲れが取れないではありませんか」
表情一つ変えることなく、淡々と、エイザは告げた。
「日付を跨いだ今も机に向かい、必死に作業をされているご主人様は、確実に疲労を蓄積している。貴方は明日も仕事です。私は愛する主人に疲れが残ったまま、朝を迎えてほしくないのです」
「いや、だとしても──」
「私はフェンリルの亜人です」
言って、エイザは唇に人差し指を当てた。
「生命の象徴である世界樹の根から生まれた狼の王の血が流れる私の血や唾液は、摂取した者に活力を与える。疲れた主人を癒すにはぴったりの代物です」
「効果だけを考えたらそうなんだろうけど……倫理的にさ」
「何をいまさら言っているのですか」
エイザは自分の腹部に手を当て、尻尾を左右に振りながら言った。
「ご主人様は毎日──私の卵を食べているではありませんか」
「問答無用で出して来るし、食べなかったら大泣きするのは誰ですか」
「私ですが?」
「開き直るな」
唾液入りホットミルクの入ったマグカップを机に置き、溜め息を吐いて、僕は頬杖をついた。
「僕が君の卵やら唾液を身体に取り入れていると生徒に知られたら……どうなることやら。考えただけでも怖い」
「ご主人様は学院でも大層人気ようですから、確実に多くの生徒が卵を食べさせに来るでしょうね」
「今でも困っているのに、それは本当に困る」
「今でも、ですか」
僕の言葉を復唱したエイザは、視線を机上のビーカー内にある卵に向けた。
「熱心に調べておられるそちらの卵も、生徒からの貰い物ですか?」
「貰ったわけじゃない。研究室に置かれていたんだ」
ビーカーを手に取り、僕はそれをエイザに手渡した。
「ねぇ、エイザ。この卵と同種のものを見たことある?」
「いえ、残念ながら」
「そうだよね」
「ただ」
卵をジッと見つめ、エイザは言った。
「この卵からは……特別なものを感じます」
「特別なもの?」
「はい。言葉にするのはとても難しいのですが、なんというか、他の卵にはないオーラが感じられるのです。見ているだけで──闘争の本能が刺激される」
「闘争の本能、か」
信頼できる根拠はない。
だが、エイザの直感はとてもよく当たるのだ。無視することはできない。
僕は紙とペンを手に取った。
「狼の王が闘争本能を刺激されるとなると、この卵は同格のものってことになる。ロック鳥とか、フェニックス、ファフニールとか……世界樹が産んだ怪物たち。それらの中で、海に関係するとなると、クラーケンとか?」
「他にもレヴィアタンや……川になりますけど、ケルピーなんかもいますね」
「そうだね。でも、だとすると余計にややこしい。学院には生徒どころか、教員ですら、そんな獣の亜人はいないよ」
「だとすれば、この卵は部外者が置いたということになりますか」
「それはあり得ない。学院のセキュリティは凄いからね。部外者なんて絶対に入れない」
「……謎は深まるばかりですね」
卵の入ったビーカーを置いたエイザは僕が座る椅子の後ろに回り込み、次いで、僕の肩に手を置いた。
「これだけ難しい問題を疲れた頭と身体で解くのは難しい。ホットミルクを飲んで、今日はもう休みましょう。私も眠いので」
「……飲めと?」
「勿論です。折角入れたのですから、飲んでください」
「……」
聞いている限りでは、声音は全く変わっていない。
しかし、長い付き合いである僕にはわかる。今の言葉には、絶対に飲み干すまでここから離れないという決意と圧が感じられる
絶対に飲ませる、という強い意思も。
……致し方なし。
抵抗感はあるが、これを飲めば確実に疲れが取れるのは事実。
肯定的に考え、僕は一呼吸置き──マグカップの中身を一気に喉に通した。
「……プハ。これでいい?」
「はい。上手にごっくんできましたね」
「変な言い方するなよ……ちなみにさ」
「なんでしょうか」
空になったマグカップを受け取り、退室しようと扉のほうへと身体の正面を向けたエイザを呼び止め、こちらを振り返った彼女に僕は問うた。
「卵とか、唾液とか……自分の身体の一部を、意中の相手が身体に取り込むことに快感を覚えたり、する?」
「……」
その問いを受けたエイザは考えるように視線を上に向け、数秒の沈黙を挟んだ後──相変わらずの無表情のまま、しかし、ピコピコと上機嫌そうに頭部の耳を揺らして言った。
「それは──勿論」
「そっか」
亜人研究の第一人者であっても、乙女心まではわからないな。
僕は心の中で呟き、退室するエイザの背中を見送った。
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