第1話 個性的な先輩先生

 一限目の授業を終えて、研究室に戻った後。


「はてさて、これは一体誰の卵なのか」


 授業で使用した教材を置き、執務机の端に腰を預けた僕は透明なガラスのビーカーを視線の高さに持ち上げ、水と共に中に入っていた青い卵を観察した。


 大きさは一般的に流通している鶏卵と同程度。

 形状は真球に近く、色はラピスラズリに酷似している。傷や汚れなどは一切なく、滑らかな表面は室内の明かりを反射して輝いていた。

 まるで、宝石のように。


 丸く、硬く、青く美しい亜人の卵。

 一通り観察した僕はビーカーを机上に置いた。


「種族の特定自体は容易い。だけど、個人を特定するのは難しそうだな……該当する種族の生徒は沢山いるわけだし」


 現状では、卵の産み主を探すことは難しいだろう。

 かといって、いつまでも僕が手元に保管しておくわけにもいかない。仮にもし、僕が誰かの卵を受け取ったと多くの者に知られてしまったら……面倒なことになるのは目に見えている。研究室を卵で埋め尽くすことは避けたい。


 本当にどうしよう。

 悩みつつ、僕は皿の上に乗せたクッキーを一つ摘まみ、それを口元に運んだ──と。


「失礼するね、ゼファル君!」


 焦りを多分に孕んだ声が聞こえたと同時に部屋の扉が開け放たれ、一人の女性が慌ただしく入室してきた。


 可憐な女性だ。

 肩口で先端が揺れる水色の髪と、鮮やかな同色の瞳。

 やや小柄な体躯をしており、美しさよりも可愛らしいさが際立っている。


 容姿だけを見れば守ってあげたくなる可愛らしい女性。だが、彼女が背中に携えた一対の竜の翼を見れば、寧ろ守られたくなる頼もしさを感じる。


 シェルファ=ウレバランズ。

 僕の教師としての先輩であり、頼れる友人であり、お世話になった教育係。一人立ちした今でも気にかけてくれる、素晴らしい仲間だ。


 何やら焦った様子の彼女は入室した直後、僕を見つけると同時にこちらへ駆け寄り……正面から僕の身体を抱きしめた。


「あぁ、良かった……元気そうで」


「あの、シェルファ先生?」


「ん? ……あ」


 僕の胸に耳を押し当て、安堵した表情を浮かべるシェルファ先生。

 焦っていた理由とこの行為の意味。それらを問おうと僕が名前を呼ぶと、彼女は我に返った様子で、顔を赤くしながら抱擁を解いた。


「ご、ごめんね! いきなり抱きしめたりして……嫌、だった?」


「いえ、別に嫌ではありませんでしたけど……どうしてここに? 授業は?」


「この時間は空きなの」


「そうでしたか。じゃあ、慌てて僕のところに来た理由は?」


 尋ねると、シェルファ先生は力が抜けたように近くのソファに腰掛け、質問に答えた。


「職員室に戻る途中で、君が一限目の授業をした教室の子から頼まれたんだよ」


「頼まれたって、何を?」


「ゼファル君が体調悪そうにしていたから、様子を見にいってくださいって」


「体調? 全然悪くないですけど、生徒たちには僕が体調不良に見えたってことですか」


「そうみたい。何でも、普段よりも瞬きの回数が多くて、呼吸のリズムが少し早くて、重心が0.2度ずれていたって」


「ちょっと待って、怖い」


 背筋がゾワッとした。

 僕は一体どれだけ観察されているんだ。瞬きの平均回数まで知られているってこと? 何それ、怖すぎる。どれだけ親密な間柄であろうと、普通はそんなこと調べない……何だか、実験動物にでもなった気分だった。

 怖い生徒もいるものだなぁ……いつ見られているかもわからないし、行動には気を付けよう。


 僕の全身に視線を滑らせたシェルファ先生は、幾度か頷いた。


「その様子だと、本当に体調は問題なさそうだね」


「はい。不調なところは何処もないので、安心してください」


「良かった。でも、だとしたらどうして生徒たちは君が調子悪そうに見えたのかな?」


「それは……きっと、これのせいでしょうね」


 あまり知られてはならないことだけど、同じ教員であり、また信頼できるシェルファ先生にならいいだろう。

 そう考え、僕は青い卵が入ったビーカーを彼女に見せた。


「実は、この卵が知らない内に研究室に置かれていまして。これのことで悩んでいることが、行動に出ていたのだと思います。……まぁ、普通は気が付くはずのない小さな行動ですけど」


「こ、この卵は……」


「恐らく、生徒が産み落としたものでしょう」


 この際だ。相談に乗ってもらおう。

 僕はティーポットの中に入っていた熱い紅茶をカップに注ぎ、それをシェルファ先生に手渡した。


「あ。ありがとう」


「いえ。それでシェルファ先生……これ、どうすればいいと思いますか?」


 尋ねると、シェルファ先生は紅茶を一口啜った後、案を口にした。


「……邪魔にならないのなら、手元に置いておく、とか?」


「それは無理ですよ。亜人にとって卵を相手に渡し、また受け取るのは特別な意味を持つことですし……何より、僕が他者から卵を受け取ったことを知られると面倒なことになる生徒が若干一名おりますので」


「あぁ、エフェナ=マイルラーラさん。確かに彼女は、ゼファル君にお熱だもんね」


 アハハ、と苦笑いをしたシェルファ先生は次いで、二つ目の案を提示した。


「なら、卵の回収場に持って行ったら? ほとんどの生徒は無精卵を産卵した場合、そこに持って行って処分しているよ?」


「回収は産んだ当人でないと、受け取ってもらえないんですよ」


「あ、そっか」


 若い亜人女性の大半は性交渉をしていなくても産卵する。

 それは命の宿っていない無精卵なのだが……これが中々に扱いに困る代物なのだ。鶏卵のように割れやすいのであれば一般ゴミとして廃棄できるが、亜人の卵は多くの場合、殻は硬質な上に耐火性を持ち、処分が大変。


 そこで、国営の専門業者が無精卵を無償で引き取り、処分を担っているのだが……産んだ本人が直接持ち込まないと、受け取って貰えないのだ。

 なので、僕が回収場に持ち込んだところで、処分してもらうことはできない。


「これを手放すためには、どの道産み主を見つけないといけないんです」


「見つけられる?」


「種族までは何とか、現時点でも特定できます」


 僕はビーカー内の卵を見た。


「真球の卵は主に、海洋生物にルーツを持つ亜人の卵ですから」


「海洋生物の亜人って……学院内には、沢山いるよね」


「はい。なので、個人の特定は困難なんですよ……」


 前途多難。果たして、この卵の産み主を見つけることはできるのか。

 気苦労に僕は溜め息を吐いて天井を見上げ……思わず、呟いた。


「こんな時『鑑定』の魔法があれば……」


「鑑定? そんな魔法があるの?」


「今は現存していませんよ。数千年前の人間が使っていたとされる、失われた魔法です。何でも、発動するだけで対象の細かな詳細を知ることができたとか」


「へぇ……そんな便利な魔法があっただなんて、知らなかったよ」


「シェルファ先生は美術史が専門ですからね。知らないのも、無理ないことです。あ、興味があるようでしたら、ここに本が──」


 と、僕は執務机に置いてあった本を取ろうと、それに向かって手を伸ばし──。


「痛──ッ」


 不注意で、伸ばした右手の指先を紙で切ってしまった。

 鋭い痛みが走り、一拍遅れて、鮮血がじわりと滲み出る。


 やってしまった。

 このあとも授業は続くというのに……早く止血しないと。確か机の引き出しに、消毒液とガーゼがあったはずだ。


 本を取るのを諦めた僕は朧気な記憶を頼りに、目的のものを取ろうと、その場から一歩踏み出し──。


「ゼファル君」


「? はい、なんで──」


 名前を呼ばれて振り返った瞬間──シェルファ先生が僕の指を口に含んだ。

 その指は、今しがた負傷し血が滲む指。

 彼女は口に含んだそれを丹念に舐め回し、舌を這わせ、唾液を絡ませる。


 彼女の突然の行為に僕は身体を硬直させ、同時に、たった今行われていることに顔に熱を宿した。


 様々な情報が指先に伝わってくる。

 シェルファ先生の舌の柔らかさ、口内の温かさ、唾液のぬめり気。

 そして何より──一生懸命、夢中になって僕の指を舐める彼女の仕草と表情が、僕の情欲を掻き立てる。


 こ、これ以上はマズイ。

 お世話になっている先輩に対して、男としての本能が牙を剥いてしまいそうだ……。


 しかし、そんな僕の心情は露知らず。

 シェルファ先生はその後も暫く僕の指を舐め続け……やがて、プハ、と口から離し『どうだ見たか』と言わんばかりのドヤ顔で言った。


「はい、傷は治ったよ」


「え……あ、本当だ」


 唾液が多く付着した指先を見ると、確かに、先ほどまで血を滲ませていた傷は綺麗になくなっていた。


 数十秒で完治した傷。

 それを見て、僕は称賛の声を贈った。


「流石は竜種の亜人。治癒力はズバ抜けていますね」


「フフ、そうでしょ! 軽い傷程度なら、私が舌で舐めればすぐに……すぐ、に……ッ」


 やっと自分の行いに気がついたらしい。

 見る見る顔を紅潮させていったシェルファ先生は、わなわなと口を震わせ、僕の顔と指を交互に見やり……そして。


「わ、私はいきなりなんてことをおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」


「あ」


 顔を真っ赤に染め、ぐるぐるお目目のまま、勢いよく研究室を出ていった。やや乱暴に扉を開け放ち、大きな足音は時間の経過に比例して小さくなる。

 あまりの速さに、僕は引き止めることもできずにその場に立ち尽くした。


 ……次に会ったら、ちゃんとお礼言わないと。

 僕は舌の感触が残る指先を見つめながら、胸中でそう呟いた。

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