第10話 私はドラゴンになりたい
私は生まれてからこのかた、生きていて心から楽しいと思ったことがない。
楽しいともうれしいとも思ったことがない。
感情がないわけではないが、少ないと思うほうだ。
学生時代も部活などには熱中することなく、授業が終わるとまっすぐ自宅に帰った。自宅でゲームをしたり、アニメをみたりして過ごした。
オタクと言われるにほどこれらに集中することはなかった。
本気で楽しんでいるのではなく、単純の暇つぶしであった。
学校での成績はそこそこよかったので、私はとある私立大学に進学した。興味ない経済学を学んだ。そのほうが就職に有利だと高校の担任に勧められたからだ。
大学にいったはいいが、そこでも私は生きる目的も目標も見つけることはできなかった。ただ緩慢に四年間を過ごす。
私にとっての大学生活はとりあえずの時間稼ぎにしかすぎなかった。
大学で四年間も経営学や法律を学んだが、何になりたいかは見つけることができなかった。私は就職活動で受けた企業でたまたま内定をもらった企業にそのまま就職した。生きていくためにはお金がいるからだ。
生きる目的は見いだせないが、死ぬ勇気もない中途半端な人間が私であった。
社会人になった私は真面目に働いた。
何かしたいことはないが、生きるためには収入を得ないといけない。
私が仕事をするのはそれが子供のころから夢であったからでもなく、生きる糧をえるためであった。それ以上でもそれ以下でもない。
会社にはいる、ゴールデンウィークも終わった五月の中旬のある日のことである。
私はあるものに出会った。
それはあるイギリス人イラストレーターが描いた画集であった。
その画集には世界中の幻想動物が描かれていた。
特に気に入ったのはドラゴンの絵であった。
その画集には何体ものドラゴンが描かれていた。
中国の青龍、南米のケツアルコアトル、イギリスのペンドラゴン、北欧のヨルムンガンドなどが描かれている。
そのどれもが魅力的で私は魅力的であった。
私は夢中になってその画集を眺めた。
眺めていると時間はあっという間に過ぎていった。
その画集は一万円ちかくしたが、私にとっては安い買い物だった。これが夢中になるということかと感動を覚えた。
その画集を購入したとき本屋の店員が何かを言っていたが、高揚感につつまれていた私にはそれが聞こえなかった。
その日は画集との出会いの記念日となった。
それから私に生きる目的というか楽しみができた。
それは仕事が終わり、自宅に戻り、食事をとったあとから寝るまでの数時間その画集をじっと眺めるということであった。
その画集を見ている時間だけが生きるということを実感できた。
イラストのドラゴンの鱗をなでながら、一枚一枚ていねいに数えているとあっという間に時間が過ぎた。本当はもっと眺めていたいが翌日の仕事があるので寝なくてはいけない。働くともいいぐらいにお金があればずっとこの画集を眺めていられるのに。
だから私は休日を待ち望んだ。
適当に仕事こなしている私に上司は何か言っていたが、私の頭の中はドラゴンのことでいっぱいだったので何も聞こえなかった。
休日になるとあの画集を眺めることができるので、そればかり考えていた。
会社の同僚や先輩が飲み会や食事会に誘ってくれるが、そのすべてをことわった。
画集を眺めることにくらべたら、それらはひどくつまらないものに思えたからだ。
「かわいいのにもったいいないわね」
細目の先輩社員が私にそういった。ありがた迷惑な話だ。
私は自分のことをかわいいとか美しいとか思ったことは一度もない。
ドラゴンの美しさに比べたら、私の外見などは虫以下ですらない。
私は画集のドラゴンのイラストの鱗をなでながら、思うのであった。
ああ、ドラゴンになりたいと。
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