第11話

 夕方近くの黄昏時。

 アイネたちは狭苦しい裏通りの隅で日中手に入れた小銭を数えていた。

 どっぷりとした赤い西日が路地に濃く長い影を作り、なんだかちょっと不気味な感じがしなくもない。

 しかしながら今日はここで寝ちゃおうかーみたいな流れにもなっていたので、お尻の下には厚めに新聞紙が敷かれていた。


「いっ……、ひゃああッ!」


 すると、唐突にエリが悲鳴をあげた。


「ど、どうしたんですか!?」


 アイネはむしろエリの声のほうに驚いて言った。

 ゴミゴミした裏通りにはアイネたち3人以外には誰もおらず、叫びだすような要素は皆無のはずだ。

 まだ夕方だけど、幽霊でも出たのだろうか。


「あ、あそこ……」


 ガタガタと震える指先で、エリは路地の一角を示した。

 そこには幽霊こそいなかったが、汚い水たまりのようなものがべっちゃり地面に付着していた。


「うわ、ゲロですかあれ? 嫌ですねー」

「違うよ! その上っ!」


 言いながら、エリは少しずつ後ずさりしてアイネの後ろに隠れるような格好になる。

 こんな弱々しいエリは初めてだ。


「ほら、あの排水口のパイプのところに……」


 目を凝らして見てみると、アイネはようやく視認した。

 そこにいたのは、夕闇に照らされ黒光りする害虫の王……ゴキブリだった。それも結構な大物。


 隣にいた沙知乃も気がついたらしく「ッ……」と息を呑む気配を感じる。

 平和だった裏通りが謎の緊張感に包まれた。


 しかしアイネは思いの外に冷静で、軽い調子で言葉を放つ。


「もー、驚かさないでくださいよぉ。Gが一匹いるだけじゃないですか。なにをそんなにビビってるんです? 虫、苦手だったんですか?」

「虫は平気だけどヤツだけは別格なのッ。あの黒羽は人類共通の敵じゃん!」

「エリさんにも怖いものがあったんですねぇ……。見慣れてそうですから、耐性ついてるのかと思ってました」

「確かによく見るけどその度にドキドキしてるよっ! むしろなんでアイネちゃんは平気なの?」


 エリは心底不思議そうに問いかけてきたが、アイネもまた同じような疑問を感じた。

 ゴミ箱に捨てられた残飯を平気で食べたり、汚い道路にダンボールを敷いただけの寝床でぐっすり眠ったりできるようなタマの人間が、どうしてG程度で騒ぐのだろう?

 不快害虫ナンバーワンと言っても所詮は叩けば死ぬ程度の存在なのに。

 最悪と称される見てくれだって、コオロギやカブトムシのメスなんかと比べてそこまでの大差があるかといえばそうでもない。


「ただの虫けらに臆するような私じゃありませんから」


 アイネは宣言するように言い、近くに転がっていたビール瓶の破片を手にとった。


「お望みとあらば殺(や)りますが、どうします?」


 振り返り、エリと沙知乃に向けて言う。

 なぜかわからないが妙に低い声が出てしまって、自分でも少しびっくりした。

 久しぶりの殺生の機会に興奮しているのかもしれない。


 ……って、あれ、なんか私、危険人物みたいな思考になってる?


 そんなオーラが後ろの2人にも伝わったのか、エリと沙知乃はますます緊張した様子で固まっていた。


「お、お願いするよ……」


 口火を切ったのは沙知乃だった。

 色々と言い訳もしたいところだが、今はゴキブリの殺傷が先だ。

 許可が出たなら無問題……、全力で、殺すッ!


「ていッ」


 アイネはビール瓶の破片を手裏剣のように投げつけた。

 それはゴキブリのいた位置に見事命中はしたのだが、相手もさすがに強敵らしい。僅かな風圧を感じ取りでもしたのだろうか……ギリギリの所で回避されてしまう。


 カァァンッ!

 

 と、排水口にガラス片がぶつかった音がこだました。

 飛び上がったゴキブリは地面に着地し、お馴染みのカサカサ歩きでこちらへまっすぐに向かってくる。


「わ、ひゃあああんっ!」


 エリと沙知乃は再び大袈裟な悲鳴をあげて、路地の奥へとバタバタ逃げた。


「情けないですよエリさん。こんな虫けら、潰せば一瞬で死ぬんですからっ!」


 アイネはといえばむしろ逆で、果敢にも自らGの元へ踏み込んでいく。

 そしてそのまま標的を圧殺しようと足を上げるも、


「やめてッ! そのサンダルあたしのっ」


 後方からエリの声が飛んできた。

 一瞬戸惑ってしまったが、アイネはエリの言わんとしていることを理解した。

 今アイネが履いているサンダルはエリに借りているものなのだが、要するに、人の履き物でGなんか潰すなということなのだろう。

 もっともな言い分だった。

 

 ……でも、じゃ、どうする?


 思案する間もなくゴキブリは、中途半端な姿勢のままに静止しているアイネの下を通り過ぎ、エリ達ふたりの元に迫っていく。

 黒羽を展開しての大ジャンプだ。


「わあぁ、なんでこっちくるんだよ~! さ、さっちゃん身代わりになって!」

「イヤに決まってるでしょ!」


 Gの羽ばたきを視認したふたりは、身をかがめてやりすごそうとでも思ったのだろう。尻もちをつくような感じで暗い路地にしゃがみこむ。

 その地点には丁度、さっきまでお尻に敷いていた新聞紙の束がおかれていた。


 新聞……。

 これだ!


「エリさん、その新聞を私に!」

「……え? う、うん!」


 瞬時にひらめいたアイネは空を飛び回るゴキブリに注意を向けつつ、エリから紙束を受け取ると速攻で対ゴキブリ用の武器を完成させる。


 “まるめた新聞紙”


 殺虫剤と並ぶG退治の王道だ。

 この間、約3秒の出来事だった。


「今度こそ、覚悟してもらいましょう」


 居合のポーズで宣言し、横薙ぎに一振りして黒き害虫を牽制する。

 エリ達の真上を飛び回っていた標的は、またも一歩の差で攻撃を交わし、そのまま表通りの方へ飛んでいった。


 追っ払ったのだからこれで一応の目的は達したのだが、殺生したくてたまらないアイネはエリ達を飛び越え深追いを続けた。

 新聞紙の剣を振り回し、空を舞い壁を這う害虫を表通りへと追い詰めていく。

 バシンバシンッ、と紙が壁を叩く音が狭い路地に響き渡る。

 

「なかなかに手強いですね……。でも、これで終わりです!」


 武器を握る手に汗が滲むも、素材が紙なので吸い取ってくれる。

 ゴキブリは再び黒羽を展開し、表の歩道へ飛び立とうとしていた。

 ここを逃せばこれ以上の追跡は不可能だろう。つまりラストチャンスだ。


 縦長の長方形に切り取られた視界の中で、その中心にヤツはいた。

 裏通りと表通りの狭間。

 赤い西日が差し込む最中、ひたすらに黒いその一点。

 手にした武器はボロボロだったが、しかしアイネは剣を振るう。


 一刀両断。


 薪を割る斧を連想させる上から下への斬撃は、今度こそ確実にGをとらえて――


「……あがッ!」


 バスンッ!

 剣の軌跡は確かにゴキブリに命中した。

 が、同時。

 死角の位置から現れた表通りの通行人……その罪なき人の頭までをも思いきりぶったたいてしまったのだ。


 剣はぐしゃりと折れ曲がり「あ、まずい」という思いがこみ上げてくる。

 もはやGなんかどうでもよかった。


「ご、ごめんなさいっ」


 相手の顔も見ないまま、アイネはとりあえず頭を下げる。

 なんか最近謝ってばかりな気がするのは気のせいだろうか。

 

「はぁ? ド底辺の分際で、これは一体どういうつもりなわけ……?」


 声と共に、乱暴に胸ぐらを捕まれぐぐっとねじりあげられる。

 どうやらそうとうお怒りのようだ。

 「困ったなぁ」とか思いながら相手を見やると、なんと、見知った美人さんがそこにいた。


「夕緋さんじゃないですか、よかった~」

「な・に・が・よかったのよっ! なんなの? アタシを叩くために延々待ち伏せでもしてたわけ? どんだけ暇人且つ娯楽に飢えてるのよアンタ。あ、お金なくてオモチャのひとつも買えないからしかたないかしらぁ。それともアタシに嫉妬でもして――」

「夕緋さん、夕緋さん、」


 恒例の悪態がはじまったので、アイネは黙って下方向を指差した。


「なによッ?」


 乱暴にアイネを突き放し、夕緋はチラと指先に目をやる。

 そこにいるのは、彼女と共に叩き切られた黒光りするGの姿だ。

 死に体ではあるも仰向けに倒れ、たくさんある足をひくひくさせているその姿は、元気な時と同じ程度にキモチワルイ。


「きゃあんッ!」


 それを見た夕緋は予想通りの悲鳴を上げて高速後ずさりでエスケープした。額には丸い冷や汗が浮かんでいる。


 やっぱりみんなゴキブリって苦手なんだなー。

 夕暮れ時の格闘を経て、アイネはそんな当たり前の結論にたどり着いた。




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