第5話 香川県名物の骨付き鶏を食べて故郷を思い出す
ホテルの食事で若鶏と親鳥が選べたので、親鳥を食べたが、その味から故郷中国の田舎で子供の頃に食べた「長命鶏」を思い出した、という話です。
この方も、他の夜間中学中国人生徒さんたちと同じく、日本に来られて20年くらいなのでしょうが、日本で生まれて日本で育った在日韓国人(わたしの高校時代の同級生)より、よほど文章がお上手です。
簡潔な文章でありながら、様々な深い思いが込められている。やはり、書き手の中にしっかりとした民族性・人間性・文化が存在していると、文章に幅と深みが出るし、彼女たちの文化を味わうことができる。在日韓国人(私の高校時代の同級生)の文章と比較してみると、その差が歴然としていることに気づくのです。
彼女の作文を、できれば全文掲載したいのですが、時間が無いので要点のみを。
① 中国人には「思い出す故郷」がある。
日本人には「ウサギ追いしかの山、小鮒釣りしかの川」という歌があるように、中国人には「国破れて山河あり、城春にして草木深し 杜甫、春望」という詩がある。日本人にも中国人にも、目に見える実物・物理的に存在する景色よりも貴重な「心の故郷」があるのです。
単に「自分」が育った土地・都市ということではなく、何千年もの間、他民族や他国と戦って守り抜いた「自分たち」の故郷。太平洋戦争で、数千名のカミカゼ特攻隊員は(決して天皇なんかのためでなく)自分の両親や兄弟、そして「自分たちの故郷」を守るために「自分独りで」死んでいったのです。(アメリカのプロボクサーでイスラム教徒であった、モハメド・アリは、同じ心情を「Me, We」という《世界一短い》詩にしました。)
② 中国人には「思い出す味」がある。
「10年生きたニワトリは、肉は固いがスープにすると味わい深い」という話は勉強になりました。
人間についても同じことが言えるのかもしれませんが、最近の日本の年寄りは、朝から晩まで韓国脳テレビやYouTubeばかり観ているので「味わい深い話ができる年寄り」なんて、いるのかどうか。
私も鎌倉で、数年間ニワトリを飼っていたことがあります。
ワーレンという、卵を沢山産むために品種改良された種で、かわいそうなのですが、寿命が2~3年なのです(やがて、卵管が詰まって死ぬ。横浜の動物病院へ連れて行ったのですが、仕方がないと言われました)。はじめは4羽、彼女たちが死んでから3羽、海老名の農業試験場で買い、飼いました。
しかし、ここが中国人と日本人の(精神構造の)違いなのか。
私は自分で飼っていたニワトリを、例え自然死であっても食べる気にはなりませんでした。畑の脇に(大好きだったミミズと共に)埋めて供養しました。
「この老人は人生を全うした
善人か悪人であったかは問題ではない
生きとし生けるもの皆神聖なり、という詩もある
私は死せる者のために祈りはしない
生きて迷える者のために祈りたい
爺さまにはもう迷いも苦しみもない
行く道も定まっている
土を掛けてあげよう」
という、スタインベック「怒りの葡萄」にあった祈りの言葉をかけて。
③ やはり、中国人にはキッチリとした(食)文化がある
「子供を産んだ時、おばあちゃんからお祝いでもらう鶏は食べないで長生きさせるので、10年くらいは生きています。長命鳥です。」
わざと絞めないで10年間も待つ。ここに中国人の食に対するこだわりというか執念のようなものを感じさせられます。
日本では、猛毒であるフグの肝を、3年間塩と糠漬けにして毒を消すという食べ物がありますが、これは毒が消えないうちは絶対に食えないのですから、待つしかない。しかし中国人とは、目の前においしそうな若鶏がいて、いつでも食べられるのに、毎日、それをじっと我慢して10年間も待つ。
そして、それだけ長く一緒に暮らし、さぞ愛着を抱いているであろう、いわば「ペット」が自然死すると食べてしまう。ここに中国人の食文化というか人生観というものを感じます。
日本人である私は、2年間毎日のようにして卵を産んでくれた彼女たちを、たとえ死んだからといって食べる気にはなれませんでした。キャベツと糠、それに時折ミミズだけ食べさせていた平飼い(鶏などを、地面上で飼育すること。地上飼育)なので、その肉はさぞかし健康的でおいしかったろうと思いますが。
これは「肉食を忌諱」なんていう、いい加減な半島経由の仏教思想に由るものではなく、在来種純粋日本人としての(生き)物に対する愛着や同慶(自分にとっても同じようにめでたく喜ばしいこと)という感情に由るものだと思います。
縄文人の遺跡(三内丸山古墳)には、人間の墓と同じように犬のお墓もあったそうです。犬を食べる韓国人とちがい、在来種純粋日本人は、狩猟の供・ペットである犬も人間と同じように丁寧に埋葬していたのです。
また、日本人は「針供養」「茶筅供養」なんていう、物に対する感謝の気持ちを抱くという性質を持っています。物や人に「お」という丁寧語をつけるというのも、その表れでしょう。「御神輿、おにぎり、お金、おあし、お父さん・お母さん・お兄さん・お姉ちゃん」等々。
元々日本人は縄文人の時代は狩猟民族であったのに、朝鮮から来た外来種偽日本人によって、いい加減な仏教思想で洗脳されてきたので、生かしもしないし殺しもしないという、彼らの中途半端な仏教思想・生き方の影響を受けている。
ウナギやスッポンをさばく職人芸に見る如く、本来の在来種純粋日本人とは、生き物を(食のために)殺すにも、(苦しまずに死ねるような)芸術的スタイルで調理することができるのです。
そんな私たち在来種純粋日本人(縄文人)は、中国人の感性(思い切りの良さ・生き物を食べて自分たちも生きている、という割り切った論理)というものを、再度見習うべきではないでしょうか。
どうも、韓国脳というのは偽善的で、ほんらいの日本人が持つ狩猟民族としての思い切りの良さ(気っぷの良さ)というものを、彼らのウジウジネチネチした感性によって鈍(なま)らされているようです。
「本(もと)を務む。本(もと)立ちて道生ず」論語
「人はすべて、なにごとについても、末梢のことや形だけにとらわれないで、根本を把握するように努力すべきであり、根本のことをやっていれば、あとは自然に方法は立つものだ。」(この場合の「道」は方法のこと)中国古典名言辞典 講談社学術文庫
大谷探検隊といって、日本の浄土真宗大谷派がインド生まれの仏教を直接知ろうということで、韓国・朝鮮をすっ飛ばして、直接インドへ仏教を学びに行ったそうです(戦争等の事情で、東西トルキスタン止まり)が、これも聖徳太子が遣隋使の派遣を決めたのと同じ「源流に学びたい」という日本人の精神文化なのでしょう。
その意味では、玄奘三蔵が直接インドへ向かった故事と揆を一にするといえるでしょう。中国人も日本人も、「その本を尽さん」という精神があるのです。日本人は、もう一度、大谷探検隊のような仏教の源流を探索するためにインドへ向かうべきではないのでしょうか。「朝鮮経由の仏教」というのは、どうも本物ではない気がします。
2024年12月4日
V.4.1
平栗雅人
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