会話

 准は自分のすぐ背後に女が立っていることに気づいて、恐怖で固まった。

 女は四十代ぐらいだろうか。あまり整えられた様子のない髪が頬に張りついている。准は女と目が合ったと思ったが、女は准に焦点が合っておらず、どこか遠くを見ているような視線だった。

 准は自分が女に絞め殺されるのかと思った。女が手にロープを握っていたからだ。しかし女は准のことをあまり気にしている様子がない。女はふらふらとした足取りで洋館のほうへ歩いていった。門の近くには塀を爪でひっかいている男がいる。

 一体何なんだこいつらは? こんなところで何をしている?

 もちろん当人たちに尋ねる勇気はない。明らかに普通の人間ではない。

 女は洋館の門の前で立ち止まった。直立不動のまま動かなくなる。近くでは男が指先から血を流して呻いていた。

 准はそれ以上見ていたくなかったが、このままでは自分がここへ来た目的を果たせない。周囲をよく見回して他に人間が隠れていないことを確認した後、陰に隠れて成り行きを見守った。

 しばらくすると、遠くからエンジン音が響いてきた。徐々に大きくなる。

 車がやってきて、屋敷の前で止まった。見覚えのある型。

 車から二人の人間が降りた。一人は狐のお面をつけている。おそらく松丸だろう。もう一人は夜陰のスタッフらしき男性だ。

 門の前にいる二人の男女に、松丸は距離を保ちつつ声をかけていた。准の位置では何を言っているのか聞き取れないが、批判的な響きのある声だ。

 女が門の柵の部分を握ってガタガタガタと揺らした。松丸は怯えて一歩後退する。男はしゃがんで近くの草をむしっていた。

 よくわからないがなにか押し問答をしているようだ。松丸に見つかると面倒なことになるので、准は茂みのもっと奥に入って隠れることにした。屋敷の側面のほうに回る。

 屋敷の敷地に沿って塀が立てられている。高さは二メートルぐらいだろうか。准はその場から正面側を確認するが、見られる心配はなさそうだった。侵入を試みることにする。

 塀の上部を掴み、勢いよく飛び上がる。運動神経はかなり良いほうだ。しかし十代のころのような体の軽さはない。思いの外苦戦したものの、准はどうにか塀を乗り越え敷地の中に着地した。少し音を立ててしまったが、松丸たちはあの異様な男女に気を取られている。きっと大丈夫だ。

 すぐ目の前に洋館T邸がそびえ立っている。准は正面から見て左側にいる。そこから見える一階部分はビリヤード台のある遊戯部屋だ。そして二階は亡くなった女の子の部屋。

 敷地には入ったものの、屋敷に入るには正面に回るしかない。連中がいなくなるのを待つか。運よく玄関の鍵が開いていればいいのだが。そういえば玄関にも監視カメラがついていた。松丸に狐のお面を借りて顔を隠すことにでもするか。准は自分で思いついたそのアイディアを鼻で笑った。

 准がこれからの行動について思案を巡らせていると、急に近くから視線を感じた。見つかったか? いや、見える範囲には誰もいない。

 気のせいかと思い直そうとしたところで、准は地面の草の中に隠れているそれを見つけた。

 草をかき分けて拾い上げる。

 ビスクドールだ。綺麗な金髪に、蒼い瞳。深紅のドレス。

 どこかで見た人形だった。そうだ、屋敷の女の子の部屋にあったものだ。

 准は指先で人形についてしまった泥を払い、しげしげと見つめた。

 人形は准のことを見ていた。比喩ではなく、本当に准のことを観察しているように見える。

 どうしてこの人形がここにあるのだろう? 誰かが悪戯で外に捨てたのか? 可哀想なことをする。

「そこに誰かいますか?」

 屋敷の正面のほうから松丸の声が響いた。

 まずい。

 准は人形を持ったままできるだけ音を立てずに移動する。屋敷の裏のほうへ回った。

 周りに隠れられる場所はない。松丸がこっちへ来たら見つかってしまう。

「ちょっとごめんよ」

 准はビスクドールを塀の上にのせた。体が折れ曲がって、人形は少し不快そうな顔をした。

 准は塀を掴み、もう一度乗り越える。向こうへ下りるところで人形を掴んで一緒に下りた。木々の生い茂った森の中に出る。

 准は塀に背中を預けてしゃがんで、呼吸を整えた。まさか松丸は塀を上って確認してきたりはしないだろう。耳を澄ましたが、足音が聴こえてくることもなかった。

 松丸は道の途中に停めてある准の車に気づいただろうか? 向こうで待ち伏せされると厄介だ。ちょっと近くを散歩してましたなんて言い訳が通じるはずない。准は一度車に戻ることにした。

 茂みをかき分け、近くに人がいないことを確認してから道路に出る。車まで急いだ。

 車は無事だった。あの奇妙な男の爪でひっかかれたりしてもいない。准は運転席に乗り、持っていた人形を助手席に置いた。成り行きで持ってきてしまった。

 准は車を出した。一度街のほうに戻ろう。松丸と出くわすとは思わなかった。

『まったく来るのが遅いわ澤屋さわや

 突然スマートフォンから合成音声が鳴って、准はビクリとした。

 急になんだ? AIが起動したのか?

『私退屈だったのよ。寂しいなんてこれっぽっちも思ってないんだから』

 スマートフォンから続けて合成音声が流れた。

 准は戸惑った。一度路肩に車を停める。スマートフォンを取り出して運転席にあるホルダーにつけた。

 画面に丸いマークが表示されている。勝手にAIアシスタントが起動していた。会話できるAI。

『外は明るいわね。あんな陰鬱な屋敷なんてもううんざりよ』

 AIが勝手に喋り続ける。これは本当にAIなのか?

『ハンバーガーが食べたいわ。家では出ないけれど、私好きなのよ。あなたがこっそり買ってきてくれたこともあったわね、澤屋』

 AIがハンバーガーを食べたいと言い出した。一体どうなっている? どうやって食べる気だ? 画面から口が出現するのだろうか?

「澤屋って誰?」

 准はAIに向かって問いかけてみた。

『そこでアホ面をして呆けているあなたのことに決まっているでしょ?』

「もしかして俺?」

『あなた以外にどこにアホ面が』

「俺はアホ面じゃない」

『アホ面よ』

「俺は澤屋じゃない」

『澤屋よ』

「俺は准だ。雨宮准」

『知らないわ』

「お前は誰だ?」

『お前? 私のことをお前って言ったの?』

「そうだ。アホ面のお前は誰だ?」

『キイイー!』

 スマホからAIらしからぬ怒声が上がった。

 なんなんだこれは。自分は今誰と何をしている?

『許さないわ澤屋。お父様に言いつけてやるんだから』

「お父様? どうぞご自由に」

『とにかく早くあの屋敷から離れなさい。あそこは危険よ』

「屋敷? 洋館T邸のこと?」

『私の家よ』

「お前の家?」

『お前って言うな!』


バン


「えっ?」

 准は自分の目を疑った。

 助手席に置いてあるビスクドール。その人形が動いて前のダッシュボードをはたいたのだ。

 その人形の動きは、AIとの会話と連動しているように思えた。

 まさか。そんなことあるのか?

 

「あなたのお名前は?」

 准は今度はスマホではなく人形に向かって、丁寧に問いかけてみた。

 そして答えは返ってきた。

東城花音とうじょうかのん。あの屋敷の主の娘よ』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る