魔力
昇は虚ろな表情でそう言った。「僕の左手知りませんか?」と。
明らかに様子がおかしい。今そこにいるのは本当に自分の知っている昇だろうか?
「昇」
「はい」
「左手ならちゃんとあるだろ。よく見てみろ」
昇は自分の左手を見下ろした。指を開いたり閉じたりして感覚を確かめている。
「本当だ。ありました」
「もう限界だ。昇、屋敷を出るぞ」
「どうしてですか?」
「危険だからだ」
「もう少しここにいたいです」
「その感覚が危険なんだ」
おかしくなり始めたのは昇だけではなかった。准も先ほど昇の両目が無くなっているという不気味な錯覚を起こした。これ以上この場所にいるべきではない。
「まだちゃんと検証してないですよ」
「いいから行くぞ」
准は昇の腕を掴んで半ば強引に立たせた。待機部屋を出て屋敷の入り口に向かう。
屋敷の外に出て、門を抜けた。停めてある自分の車に向かう。近くに松丸の車も停まっていて、運転席にいる松丸が不思議そうに狐面をこちらに向けていた。まだお面を被っている。
准は助手席のドアを開け、昇を乗せた。自分も運転席に回り中に入った。
無言のまま、しばらく気持ちを落ち着ける。
自宅のベッドが恋しかった。もう眠ってこの悪夢を終わらせてしまいたい。
フロントガラス越しに、闇夜に佇む洋館が見えた。
二階の窓でなにかが動いた気がした。
しばらく洋館を眺めていると、そちらに気持ちが引き寄せられていくようだった。抗えない魔力というか。正常な判断力が鈍っていく。だがそのことを自覚している間はまだ大丈夫。危ないのはその線を越えた時だ。
車のドアが開いて閉じる音がした。松丸がこちらの車に近づいてくる。松丸がなにか言っているようだがよく聞こえなかったので准は車のドアを小さく開けた。
「どうしました?」
松丸が訊いてくる。
「一時避難です」
「なにか起こりました?」
「まあ」
「危ないと感じたら、もうやめておいたほうがいいですよ」
「それはこちらで判断します」
「それはもちろん。ご自由に」
松丸は自分の車に戻っていった。准は開けていたドアを閉める。
准は助手席にいるアシスタントの状態を確認した。
「昇、どうだ?」
「はい。少し落ち着きました」
「お前はもう屋敷に入らないほうがいい」
「そうですね。わかりました。准さんはどうしますか?」
「一人で行ってくる」
「本気ですか?」
「本気。一階の遊戯部屋と、二階の女の子の部屋が気になった。そこで撮影してくる」
「無茶はしないでください」
「無茶は承知だ。俺たちは幽霊を撮影しようと思ってるんだからな」
「ここで待機しているので、なにかあったら連絡してください」
「あいよ」
准は決意が揺らがないうちに昇を残して車から出た。再度洋館に足を踏み入れる。中に入り、玄関の扉を閉めた。
真っ暗な吹き抜けのエントランス。驚くほどの静けさだ。准は自分の他に誰もいないとわかっているのに、辺りをライトで照らして確認していく。独りになるとまた一段と怖い。
待機部屋に入り、置きっぱなしになっているカメラを持った。部屋を出て、一階の反対側にある遊戯部屋に向かう。
カメラを回して撮影を始めたが、異変は起きなかった。ビリヤード台の上にある球も動かないままだ。
スピリットボックスを使って霊との会話を試みてもよかったが、今の准にはそこまでする余裕がなかった。いつ何が起こるかわからなくて怖いのだ。自分の状態も常に気にかけておく必要がある。
准は遊戯部屋を出て、二階に向かおうとした。階段の一段目に足をかけたところで、ふと思いつく。
この階段の裏。そこから下りることのできる地下室。棺桶だらけの部屋。
地下は撮影はおろか立ち入りも禁止されている。しかし准はもう一度その部屋を見たい衝動に駆られた。怖いもの見たさだ。禁止されているからこそ、入りたい。
理性と欲望が交錯する。准は思うままに身を任せた。階段にかけた足が下に下ろされる。そして裏に回った。欲望が勝ったのだ。
後先考えない自分の行動は棚に上げて、カーペットをめくりハッチを引き上げた。地下へと続く階段が見える。
闇が准を誘っていた。もはや抗うことのできない魔力があった。
准は地下への階段を下りていった。
もう後戻りはできない。
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