縛りシバラレ

秋犬

序章

十五年前

 街灯が照らす遊歩道の坂道を、友人と別れた少年は家に向かって歩いていた。日に日に早くなる日の入りが、刻々と近づく冬の厳しさを告げているようだ。この前の誕生日プレゼントに買ってもらった携帯電話を開いて時刻を確認すると、普段の帰宅時間より1時間半以上遅い時刻であることがわかった。


「すっかり遅くなっちゃったな」


 家々からは夕餉の香りが立ちこめ、少年の歩みを速めさせる。今日は部活でトラブルがあり、更に友達と話し込んでしまったことで帰宅する時間がいつもより大分遅くなっていた。少年は家族の心配する顔を思い浮かべるが、もう中学生なのだからあまり心配してほしくないとも考える。念のために「今帰っています」と母親にメールを送信して、少年は一番星の輝く下を歩いて行く。


 住宅地の真ん中を通る坂道を登りきり、路地を左に曲がってしばらく歩くと二階建ての自宅が見えてくる。住宅地の真ん中に位置する、平凡な一戸建てだった。しかし、今帰ってきた自宅はいつもと様子が違う。


「……誰もいない?」


 真っ暗な自宅に近づいて玄関のドアに手をかけると、鍵がかかっていなかった。普段なら誰かが家にいて、必ず家に明かりがついているはずだ。急に出かける用事があったとしても、鍵をかけていかないのはおかしい。


 何かあったのではないかという嫌な予感を振り切って、少年はおそるおそる玄関のドアを少しだけ開けた。そっと中を覗き込むと、家の中は真っ暗で異様な臭いが漂っている。


「……ただいま!」


 暗闇に呼びかけるが、返事はない。大きくドアを開けて玄関に足を踏み入れると、ぬるりとした感触が靴越しに伝わってきた。雨が降った後でもこんなに濡れた玄関を少年は知らなかった。高鳴る胸の鼓動を抑えて更に中に入ろうとしたとき、階上から不審な物音がした。


 ガタッ


 誰かいる!


 少年はそれが家族の立てた音ではないと確信した。そして玄関を濡らしているのは大量の血液であることにもようやく気がついた。


 逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ。


 気持ちは焦るが、足は一切動かなかった。恐怖で凍り付いた身体に不審な音がどんどん近づいてくる。


 ドタドタドタドタ


 階上を土足で駆けずり回る音、そしてその音は階段を降りて真っ直ぐ玄関にいる少年のところまでやってくる。それは配送業者の制服を着た男だった。しかし一般的な配送業者と違って、その男は全身を血で真っ赤に染め上げていた。


「だ、誰!?」


 少年は引きつった声をあげる。悲鳴と呼ぶにはほど遠い、か細い声だった。


「どけ」


 男は玄関に向かって真っ直ぐ歩いてきた。しかし、少年は一歩もその場を動けなかった。


「邪魔だ、殺すぞ」


 男は後ろに手を回して、大きなナイフを取り出した。そして躊躇わず、進行方向にいる少年に向かって突き立てる。


「え、あ、う、あ、ああああああああ!」


 いきなり腹部にナイフを突き立てられて、少年が目を白黒させているうちに男はナイフを横に動かし、無造作に引き抜いた。それから少年を玄関の外に蹴り倒し、そのまま家の敷地外へ出て行った。


「待て、あ、ううう!」


 意識を失いそうなほど強い痛みが少年の全身を駆け巡る。男を追いかけようと起き上がろうとするが、溢れてくる血のせいで力がどんどん抜けていく一方だった。


「痛い痛い痛い痛い痛い……」


 血でぐっしょり濡れた制服が肌に張り付く感覚が不快だった。地面の上にも自分の血が流れていると思うと、誰が掃除するんだろうと不思議に他人事のようなことを思い浮かべる。


 家の中が心配だった。家族は一体どうなったのだろう。何故、自分が殺されなければならないのだろう。犯人の目星は何となくついているが、どうしてここまでしなくてはいけないのか理解が追いつかない。


 様々な思いが去来するが、全てが苦痛の闇に飲み込まれていく。


「おい、何があったんだ!? 救急車を!」


 遠くで誰かが叫んだような気がした。もう自分は助からないと諦め、せめて家族が無事であればいいと少年は思い、そこで力尽きた。

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