第4話

 翌日、スマートフォンの過剰なアラームで目が覚めてからはいつもの習慣通りに過ごし、予定通り七時に家を出た。ふと昨日の夜のことを思い出した。当然ながら男は見上げていない。達也は青い空を見上げると、白くなった月が透けながら浮かんでいるのが見えた。雲がかかっており、顔になっているかどうかは確認できない。

 通勤の電車の中でネットニュースを見ていると、月の記事は後方に追いやられていた。トップの項目は有名俳優が覚せい剤で捕まったことでひしめき合っていた。それはテレビだけでなく、映画や動画配信サービスでも引っ張りだこの俳優であったから、影響力が大きかった。

 職場に入ると、ブロック長の飯田が一人だけだった。いつも飯田は誰よりも早く出社している。ただ、それを社員に強制するようなことは言わない。そういう態度も見せたことが無かった。定期的に世間を怒らせるパワハラは達也の職場には皆無であった。

「昨日の月、見た?」

 席に着いたとき、飯田は立ち上がってコーヒーの袋をコップにかけ、ウォーターサーバーでお湯を注いでいた。

「見ました。偉そうな顔してましたよね」

 達也の言い方に、飯田は短く笑った。

「なんで急に顔に見えるんやろな。平井さんやったらわかるかな」

 平井真由は達也より一期後輩で、大学時代に天文サークルに所属していたと、よく自己紹介で言っていたのを思い出した。

「いや、平井さん、天文サークルですけど、星の知識は『水金地火木土天海冥だけしかわからない』って言ってました」

「そうなんや」飯田はカップに口をつけて少し啜った。「まあ俺も似たようなもんだわ」

「僕もです」

 飯田がパソコンに目を戻すと、会話が止まった。ブロック長の仕事は平社員の何倍も多いとリーダーの里井から聞いたことがある。飯田は優しいので会話を投げかけるとまた続けてくれるはずだったが、邪魔するわけにはいかなかった。


 先ほど乗った電車とは逆方向の電車が線路との摩擦音を立てながら達也を追い抜いていった。達也はぼんやりと奥へと消えていく電車を見つめていた。それなのにブロック長に言われた言葉が思い出されてしまった。

「岩崎くんは勘の悪いところがあるから、仕方ないと思ってるし別にいいよ」

 舌打ちはそのままアスファルトの地面に落ちた。個別指導塾を運営する会社に入社して三年目を迎えた。違う地域に配属となった同期はすでに肩書を得ている人も珍しくはない。むしろ、三年目になっても肩書を得ていない達也の方が珍しい存在になってしまった。同じブロックであるリーダーの里井やブロック長の飯田は温厚な人物でパワハラとは縁遠い職場だった。働くには最高の環境だと達也自身も思っている。ただ、真面目に働いているのにどうして役職が上がらないのかと疑問にも思っていた。

 ブロック長の本音がこぼれたのは飲み会での席だった。リーダーの里井から「ブロック長と飲み会に行くけど岩崎くんも来る?」と誘われたことがきっかけだった。優秀な人たちだけに誘われた優越感があった。それに普段の仕事術を聞いて少しでもスキルアップの機会になればと思い喜んで参加した。

 会話は早くも月の話題になった。

「生徒に何で顔に見えるのかめっちゃ聞かれました」

 里井が言った。

「どう答えたの?」

 飯田は言った。

「俺の顔が反射してるって。見事にすべりました」

「まあ、たぶん受け答えとして正解ではないやろうからな」

「いや、難しいですって。飯田さんやったどう答えます?」

「誰かに突っ込まれるまで月と話し続けるな」

「それ、受け答えと微妙にずれてますし、怖いですよ」

 関西出身の里井はツッコミが面白い。飯田も満足げに笑みを浮かべ、ジョッキを口につけた。

 結局飲み会は二時間ほどで終わった。里井は去年結婚してから飲み会に参加しても二時間ほどで帰るのだった。

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