九、まれびと⑤
見上げると、遠くにサルがいた。
サルは棟梁様と会話している。
棟梁様は足もとの建材を指差し、隣の足場まで運ぶように指示しているらしい。
なんだか、よそよそしい態度──。
「手が止まっているわよ、カガミちゃん」
「す、すみません」
わたしは慌てて自分の手もとに目を戻した。
村の移設は、まだ半分しか終わっていない。
わたしはできたばかりの採液場で、樹液で満杯になった木桶を、空の木桶と交換する仕事をしていた。
男たちは頭上の工事現場で作業を続けている。
採液場に集まったおばさんたちが、わたしをからかう。
「カガミちゃんは、ほんとうにサルのことが好きだねえ」
「そ、そんなことありません」
「目と髪の色はヘンだけど、たしかに男前だものねえ」
「だから、そんなんじゃありません! サルは、サルは──」
「イヤだね、この子ったら。顔を耳まで真っ赤にしているよ」
集まった女衆は気持ちのいい声で笑った。
わたしはほっぺたが熱くなるのを感じながら、仕事に集中しようとする。
それでも頭の片隅ではサルのことを考えていた。
声がしたのは、そのときだ。
「
ハッとして、わたしは顔を上げた。
男衆のなかでも若くて元気のいい人たちが、ばたばたと渡し板を駆け抜けていく。
縄ばしごを滑り降りて、箱家から箱家へと飛び移っていく。
「トビウオだ! トビウオが来たぞ!」
男たちは新しい甲板を建設している途中だった。
仮止めされた骨組みに、床板が中途半端に張られている。
作りかけの社殿が、古い社殿のうえにぶら下がっている。
それらを放り出して、村人たちは箱家に飛び込んだ。
網や銛、釣り竿など、漁の道具を手に飛び出してくる。
「東だ! 東から来る!」
村人たちは世界樹の東側に集まった。
足場から身を乗り出して、地平線に目を凝らす。
乳白色の霧がゆったりと流れていた。
「本当にトビウオだったのか?」
「本当だとも! 見間違いであるものか」
口々に言いながら、滑らかな霧を固唾を飲んで見守る。
ふいに、霧の表面がゆらいだ。
地平線に近い一点が、ぐうっと下向きにヘコんだ。
直後、霧の表面が大きく盛り上がった。
乳白色の波をいくつも巻き起こしながら、黒々とした塊が宙に躍り出る。
流線型の塊はびくびくと身を震わせながら空にそびえ立ち、地平線から太陽までを覆い隠した。
表面がキラリ、キラリと陽光を反射する。
塊それ自体が一匹の巨大な生き物のように見える。
けれど本当は、たくさんの小さな魚が群れを作っているのだ。
黒い塊は天を突く高さに膨れ上がり、世界樹を目がけて崩れ落ちた。
「来たぞおー!」
「網を張れえー!」
群れが近づくにつれて、キラキラと光る鱗がはっきりと見えてきた。
大きさはまちまちで、小指ほどの稚魚もいれば、大人の背丈ほどの大物もいる。
しかし、ほとんどのトビウオはわたしの二の腕ぐらいの大きさだ。
四枚の羽を交互に羽ばたかせて、ぶぅーんと低い音を立てて飛ぶ。
トビウオの群れが、雨のように降り注いだ。
子供たちが歓声を上げる。
箱家の間に広げた網に、魚が次々と飛び込んでいく。
屋根や壁、渡し板にトビウオが絶え間なく衝突する。
羽の折れた魚が足もとでびたびたと跳ね回る。
「見て、カガミお姉ちゃん。こんなに取れた!」
魚で一杯になった木桶を抱えて、子供が駆け寄って来た。
以前、サルの背中によじのぼって金髪を引っ張っていた子だ。
「大漁だね!」
わたしはその子の頭を撫でてやる。
「干物と佃煮を作らなくちゃね。あと、お醤油も」
「うん! おばあちゃんに作ってもらうの!」
魚群は世界樹を通り過ぎると、乳白色の霧に姿を沈めた。
が、すぐに霧の上に舞い上がり、空中で大きく弧を描く。
再び太陽が隠されて、あたりが薄暗くなる。
棟梁様が声を張り上げる。
「どうだ、被害は!」
「東の渡し板が何枚かやられた。工事中の仮設だったやつだ」
誰かが答える。
魚の衝突に耐えられなかった設備が壊れたのだ。
そうしている間にも、ぶぅーんという羽音が近づいてくる。
黒々とした塊が、また崩れ落ちようとしている。
「甲板もやられた! 新しいほうの甲板だ。仮止めしてあった床板がいくつか割れている。骨組みを結んだ縄も緩んでやがる」
「よし、手の空いている者は修繕にかかれ! 魚を拾うのは女衆に任せておけ!」
視界が暗くなっていく。
男たちは工事現場へと走る。
女たちは、えんや、えんやとかけ声をかけて網を引く。
わたしもそれに加わった。
縄を握った手に、魚で満杯になった網の重みが伝わる。
肩や太ももにトビウオが次々にぶつかるけれど、気にかける余裕はない。
魚の群れが半分ほど通り過ぎたころだろうか。
頭上で悲鳴があがった。
断末魔の叫び声が近づいてきて、わたしの耳もとを通りすぎ、下界へと消えていった。
誰かが落ちたのだ。
わたしは網を引く腕に力を込めた。
トビウオの群れは、文字通り、天から降り注ぐ恵みだ。
しかし群れが来るたびに、必ず何人かが犠牲になる。
それでも家に閉じこもるわけにはいかない。
わたしたちは漁をやめられない。
鋭い叫び声。
「逃げろおっ!」
衝突音。板が引き裂かれる音。
小さな木片がパラパラとふりかかる。
顔を上げると、作りかけの社殿が大きく傾いていた。
甲板の骨組みがみしみしと音を立ててゆがむ。
男たちが逃げ惑う。
ふすまを突き破って、巨大なトビウオが身をひるがえした。
「早く! 崩れるぞ!」
大人の背丈ほどもあるトビウオだ。
羽に縄が絡まって、でたらめに暴れている。
──ああ、そんな。
お父さんの死んだときの情景が脳裏によみがえった。
ずいぶん昔のことだし、わたしは
それでも忘れられないくらい、あのときの光景はこの眼に焼き付いている。
お父さんも、トビウオ漁で死んだ。
巨大な魚を止めようとして、下界に落ちた。
縄の絡まったトビウオはでたらめに飛び回り、周囲の設備に繰り返し衝突する。
そのたびに柱が折れ、渡し板がはずれ、縄はさらに深くトビウオの肉に食い込んでいく。
男たちは手が出せない。
もう誰も、あのトビウオを止められない。
仮組みされた足場が、わたしの上にのしかかろうとしていた。
──逃げなきゃ!
網を手放そうとした瞬間、人影が躍り出た。
サルだ。
銛を構えて宙を舞い、暴れるトビウオに飛びかかる。
銛の先端がぎらりと光る。
つながれた綱が空中に優美な曲線を描く。
全身の筋肉が引き締まり、汗が飛び散る。
まるで時間が止まったみたい。
サルの命がけの跳躍は、息を飲むほど美しかった。
「うぉぉおおお!」
サルは雄叫びを上げて、切っ先を魚体に突き刺した。
トビウオはびくりと背中を反らすと、そのまま静かになった。
羽先を細かく痙攣させて、少しずつ絶命していく。
サルは返り血を頭から浴びながら、トビウオにしがみついていた。
銛をつなぐ綱がピンと張る。
「男ども、集まれ!」
叫んだのは棟梁様だった。
「サルを引き上げるぞ! あいつがやってくれた! あのトビウオを仕留めた。まったくイカレてやがる、銛一本で跳びかかるなんて!」
棟梁様の声は明るかった。
◇
魚の群れは世界樹を通りすぎ、霧の向こうに消えた。
村におだやかな陽光が戻ってきた。
魚を満載したかごを女たちが運んでいる。
子供たちが、通路や屋根で跳ねる小魚を拾い集めている。
被害は少なくないが、収穫も多かった。
男たちがサルのもとに集まっていく。
「綱を引くぞお! せーのっ!」
声を張り上げて、銛につながれた綱を引っ張る。
男衆だけではない。女も子供も老人も、手近な場所にいた村人が一丸になって綱を引いた。
金髪の来訪者を村に引き上げた。
サルの働きで、建設途中の甲板は崩落をまぬがれた。
「よくやった。よくやってくれた」
村人たちは口々に言って、サルの肩を叩いた。
サルの顔にも笑顔がほころんでいた。
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