四、始まりの日③
三つ目の「特別なこと」は、その直後に起こった。
ウヅメは頭を下げて、両親に感謝の言葉を述べていた。
今まで育ててくれてありがとうございます、みたいなやつ。
もちろんウヅメが自分の言葉で挨拶できるはずがなく、あらかじめ丸暗記したセリフを暗唱していた。
彼女の棒読みの声を、わたしはぼんやりと聞いていた。
かすかな物音に、わたしは顔をあげた。
きーん、と耳鳴りのような音だった。
大人たちはまだ気がつかない。
音はだんだんと大きくなる。
アメノ様が顔をあげた。
ウヅメは呪文のような挨拶を続けている。
音は徐々に近づいてくる。
ウヅメの両親が顔を見合わせた。
わたしのお母さんは、社殿に集まった人々をきょろきょろと見回した。
音はもはや誰の耳にも届く大きさになって、紙と木でできた建物をふるわせた。
ようやくウヅメが言葉を切り、何か訊きたそうな表情を見せた。
直後、耳をつんざくような轟音と衝撃が襲った。
わたしたちは社殿の床に投げ出されて、「わっ」「きゃあ」と悲鳴をあげた。
世界樹そのものがぽっきり折れてしまったのではないか?
そう思わずにはいられないほど、激しい揺れと音だった。
わたしは床に這いつくばったまま周囲を見た。
社殿の内装がひっくり返って、ひどい有様だ。
「みんな、ケガはないかい!」
アメノ様が立ち上がって叫んだときにも、まだ衝撃の余波で村全体が──つまり世界樹が、ゆっくりと揺れていた。
「カガミ、カガミ!」
「わたしは平気だよ、お母さん!」
短く答えて、さっと首を巡らせた。
「ウヅメ、大丈夫?」
彼女は床にしがみついてガタガタと震えていた。
まんまるな瞳に涙をたっぷりと溜めて、「ん」と返事をした。
大丈夫、いつものウヅメだ。
呼び止める声を無視して、わたしは社殿から飛び出した。
いったい何が起きたのか、早く知りたかった。
社殿の前の「甲板」は、ところどころ床板が割れていた。
見上げれば、縄ばしごや吊り橋がそこらじゅうで千切れている。
わたしはまず、夜でよかったと思った。
昼間だったら、たくさんの人が下界に投げ出されていたはずだ。
ここから落ちた人がどうなるのか見たことはない。
そもそも世界樹の根もとがどうなっているのか分からない。
それでもこの高さから墜落すれば、まず命はないだろう。
「カガミちゃーん! 君はカガミちゃんかーい?」
すぐ頭上の箱家で、男が窓から身を乗り出して叫んでいた。
今朝、採液場でわたしに木桶を渡したおじさんだ。
「おじさーん! いったい何があったのー!」
「わからーん!」
おじさんは箱家の室内をふり返った。
「ただ、西の採液場で何かが燃えているらしいぞおー!」
ありがとうと叫んで、わたしは駆け出した。
足もとに注意しながら、縄ばしごや柱を飛び移っていく。
大人では渡れないほど痛んだ吊り橋でも、わたしの体重なら壊れないはず。
立ちすくみそうになる心を励ましながら西へ向かう。
世界樹の幹の向こうが、にわかに明るくなった。
近づくにつれて、ぶすぶすと燃えくすぶっている柱や足場が目につくようになった。
通路や回廊の壊れている箇所が増えて、まっすぐに進めなくなった。
縄にぶら下がって、体で反動をつけないと飛び移れない場所もある。
こんな危ない道を進むなんて、もしもお母さんが見たら卒倒してしまうかも。
そして、わたしはそれを見つけた。
それは、社殿で保管している大工道具のきりに似ていた。
だけど本物のきりよりもずんぐりとした形で、おじさんたちの巻きたばこにも似ている。
鈍く光る表面は、大工道具のカナモノのような素材で作られているのだろう。
しかし、似ているのはそこまでで、大きさは全然違う。
太さは普通の箱家よりも太く、長さは社殿と同じぐらいある。
それは採液場のあらゆる設備を吹き飛ばして、世界樹の幹に深々と突き刺さっていた。
もしも、あの時わたしが恐怖に負けていたら。
それに近寄らずに逃げ帰っていたら。
今となっては考えるだけ無駄だけど、結末はまったく違っていたはずだ。
シュッと空気の抜ける音がして、それの表面に切れ込みが入った。
どういう仕組みになっているのか、切れ込みはやがて重たそうな扉に姿を変えた。
息を飲むわたしの前で、それは開いた。
人が乗っていた。
若い男が一人、椅子に腰掛けたまま気を失っていた。
背もたれは背中全体を覆うほど大きくて、どんな素材で作られているのか見当もつかない。
男はぐったりと手足を投げ出していた。
金色の髪が、おでこから流れた血で固まっていた。
──助けなくちゃ!
恐怖は一瞬で消えた。
わたしは周囲に目を走らせて、手ごろな縄を一束拾った。
パンッと両手で引っ張ってみる。
よし、この縄は燃えていないし、痛んでもいない。
村の子供たちは読み書きよりも先に縄の結び方を教わる。
縄を使いこなせなければ、この村では生きていけないからだ。
縄の一端を足場の柱にくくりつけ、もう一端を自分の体に結ぶ。
ふう、と息を吐いた。
足場からそれまで、手かがりになる柱や杭はない。
命綱である一本の縄にぶら下がって降りていくしかない。
椅子のうえの男は苦痛に眉を歪ませる。
彼はまだ生きている。
しかし、目を開ける気配はない。
早く助けなくちゃ……!
縄の束を抱きしめると、わたしはそろりと足場から降りた。
背中を下にしてぶら下がる。
月光に照らされた世界樹の樹冠が見えた。
縄を少しずつ繰り出しながら、背中からそれに近づいていく。
束が半分ほどになったところで、彼が奇妙な衣服を着ていることに気づいた。
最初は、裸だと思ったのだ。
が、よく見れば肌にぴったりと貼り付く何かを身にまとっていた。
椅子の男まで、あと少し。
わたしは手を滑らせた。
「──きゃあ!?」
一瞬、体の重さが消える。
全身に悪寒が走り、胃袋がせり上がる。
ぴん、と縄が張って、わたしは一命を取りとめた。
縄の結び方をまじめにお稽古しておいてよかった……。
それが、さっきよりも遠ざかったように感じる。
わたしは体を揺らして、反動をつけた。
振り子の要領で、椅子の男に近づこうとした。
それの突き刺さっている箇所は、世界樹の幹が黒く焦げ付いている。
かなり深い場所まで刺さっているのだろう。
この採液場は枯れたはずなのに、それの周囲からは青みを帯びた樹液がじくじくと流れ出していた。
突き刺さっている角度が、最初に見たときよりも浅くなっているような気がする。
──ううん、気のせいじゃない。
背筋が凍りついた。
世界樹に深々と突き刺さったそれは、今度はゆっくりと抜け落ちようとしていた。
にもかかわらず、彼は目を覚まそうとしない。
わたしは大きく反動をつけると、ついにそれの上に着地した。
がくん、と足もとが揺れる。
時間はあまり残されていない。
わたしは椅子の男に駆け寄った。
重たそうな扉に首をつっこんで、中に向かって声を張り上げる。
「起きてください! 早く!」
彼は眉をひくつかせるだけだ。
もうすぐ他の村人も集まってくるだろう。
みんなに助けを求めれば、きっと──。
がくん。
体が浮かび上がるような感覚と共に、足もとが大きく傾いた。
ダメだ、もう時間がない。
わたしは覚悟を決めると、体から命綱を外した。
腕を伸ばして、彼の体に縄をかける。
柔らかいものを包むときの結び方で、彼を命綱につないだ。
よかった、彼を結んだあとも縄には余りがある。
この余りの部分をわたしの体につなげば──。
がっくん。
縄に引っ張られて、彼の体が椅子から浮く。
わたしは夢中で縄にすがりついた。
命綱をつなぎ直すことなんて一瞬で忘れた。
頭の中が真っ白になる。
めきめきと繊維の千切れる音とともに、それは傾きを増していき、そして一気に抜け落ちた。
たくさんの破片と一緒に、眼下の白い霧に吸い込まれていった。
残されたわたしは、宙ぶらりんになって夜風にゆられた。
男の体にしがみついたまま。
「おーい、誰か落ちたぞおー!」
「いいや、まだぶら下がっているぞお! 引き上げてやれ!」
頭上の足場には、村人が集まりはじめていた。
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