三、始まりの日②


 木酢灯の蒼い光のなかで、ウヅメの顔はあくまでも白かった。


 儀式用のあでやかな装束に身を包み、社殿の奥にじっと座っている。

 昔話の月から来たお姫様のような姿。


「悪かったねえ、ウヅメ。まさか今日、物出しの儀をすることになるとは思わなかったんだ。村長様のお話では、来月まで大丈夫だろうって聞いていたからねえ……」


 アメノ様もウヅメと同じように、きらびやかな衣装を着ていた。

 昼間、男たちをあごで使っていた姿は想像できない。


 村を移動させるのは、住民総出の大工事だ。

 日が沈む直前まで、とんとん、カンカンという工具の音が聞こえていた。

 測量組の男たちの「おーい、おーい」と呼びあう声が村中に響いていた。


 しかし今は、凛とした静寂が社殿を満たしている。

 集まっているのはアメノ様とウヅメ、ウヅメの肉親と親しい友人だけだ。

 昼間の大騒ぎがウソのように静まり返っていた。


「慌ただしくて、こんな時間になってしまったけれど……。そろそろ始めようかね、紅入れの儀を」


 ウヅメは背筋を伸ばして、「はい」と答えた。

 なんてことない返事だけど、きっと何度も練習したはずだ。

 だって、いつものウヅメなら「ん」としか答えられないはずだもの。


 語り女の知恵は、一子相伝だ。


 社殿の奥には、特別な文字で書かれた書巻があるらしい。

「らしい」というのは、わたしはその書巻を見たことも触ったこともないからだ。

 そこには、わたしたちの遠い祖先の知識が書かれているという。

 村にたった一人の「語り女」と、同じくたった一人の弟子だけが、書巻をひも解いて中身を読むことが許されている。


 数日前、先代の「語り女」が亡くなった。

 十年近く床に伏せった末の大往生だった。


 そして弟子のアメノ様が、繰り上がりで「語り女」になった。

 職務そのものは先代様の代理として十年来続けていた。

 アメノ様が語り女になることに、誰からも文句は出なかった。


 語り女になって最初の仕事は、新しい弟子を選ぶことだ。


 アメノ様は、ほとんど迷うことなくウヅメを指名した。

 あたしの跡を継げるのはあの子だけだよ、と──。


「さあ、ウヅメ。動いたらいけないよ」

 アメノ様は膝立ちになって、ウヅメににじり寄る。

 そして彼女のあごに指を触れて、顔をあげさせた。

 ウヅメはまんまるな瞳で、師範となる人を見つめ返していた。


「きれいなかんばせだねえ」と、アメノ様はつぶやく。「昔は、しきたりがたくさんあって、紅入れの儀はもっと手の込んだ儀式だったらしいね。……だけど、あたしは堅苦しいのも古くさいのも嫌いなのさ」

 それでも、とアメノ様は言葉をつなぐ。

「これだけは、どうしても必要だと思うのさ。あたしたち語り女のだからねえ……」


 アメノ様は紅筆を取ると、四角い化粧壷に筆先をつけた。

 じっくりと紅をふくませた筆を、ウヅメのくちびるに走らせる。


 なぜアメノ様がウヅメを選んだのか、わたしには分からない。


 ウヅメはぼんやりしている。

 足を踏み外して下界に落ちそうになったことも、一度や二度ではない。


 手のかかるウヅメ。一人では何もできないウヅメ。


 そんなウヅメが語り女に選ばれた。

 ……弟子だけど。


 あの子はわたしがいないとダメなのに、わたしの手の届かない場所に行こうとしている。

 当時のわたしにとって、それはとても怖いことだった。


 だから、あの頃のわたしはウヅメにいじわるをしてしまった。

「仲良しじゃありません!」と言ってしまった。

 歩くのが遅いウヅメを置いて、すたすたと歩き去ろうとした。


 紅をさしたウヅメの顔は、まるで大人になったみたいだった。

「さあ、できた」

「はい」

「ウヅメ、あんたとあたしは違う人間だ。考えが合わないこともあるだろう。あたしのやり方がイヤになることもあるだろうね。古くて堅苦しい因習は捨ててしまってかまわないさ。……だけど、どうしても必要なこともある。捨てることのできないものがある。忘れないでおくれ」

「……はい」

 ウヅメはかしこまった顔で返事をしていた。


 これが「特別なこと」の二つ目だ。

 紅入れの儀でウヅメは語り女になった。


 ……弟子だけど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る