二、始まりの日①


 サルが村に来たのは五年前だ。

 その日、村では特別なことが三つあった。


「……ダメだ、さっぱり採れねえや」

 樹液が一滴も落ちてこない筒先を覗き込んで、おじさんはため息をついた。


「どうするの、おじさん」

「アメノ様のお言葉にしたがうまでさ。村を一段高い場所に引き上げるしかあるまい」


 わたしたちの村は、とてつもなく巨大な木のにある。

 村人たちは、この木のことを「世界樹」と呼んでいる。


 世界樹の根もとは、いつも乳白色の霧に隠されている。

 見上げれば、雲よりも高い場所に青々とした葉がしげっている。

 太さは想像を絶するほどで、幹の外周を一周するには大人の足で七日七晩かかる。

 わたしのいる場所からは、世界樹の幹は平らな壁のようにしか見えなかった。

 首が痛くなるほど視線をあげて、ようやく円筒形だと分かる。


 この村は、世界樹のてっぺんと根もとのちょうど中間あたりにある。

 幹に杭を打ち込んで、柱を渡して足場を組み、箱家を吊りさげて……。

 樹皮に貼り付くようにして、わたしたちは暮らしてきた。


 下界を覆い隠す霧は、地平線まで広がっていて、太陽と月が交互に現れるほかに目立つものはない。


 この巨木が、わたしたちの世界のすべてだ。


 おじさんは木桶を差し出した。

「二人はこれをアメノ様に届けてくれるかな」

「わかりました」

 わたしの隣で、ウヅメが「ん」と声を漏らす。

 わたしはつい、目くじらを立ててしまう。

「ダメでしょう、ウヅメ。返事をするときは、ちゃんと『はい』って言わなくちゃ」

 ウヅメはまんまるな瞳を潤ませて、「ん」と答える。

 まったくもう……、わたしは肩を落とす。


 そんなわたしたちを見て、おじさんは鷹揚に笑った。

「仲良しだねえ、きみたちは」

「仲良しじゃありません。ただ、ウヅメはわたしがいないとダメだから……」

「ははは、こりゃ参った。カガミちゃんはいい子だねえ」


 あの頃のウヅメは、言いたいことを言葉にできず、いつもわたしの背後に隠れているような子だった。

 何を訊いても「ん」と声を漏らし、あとは黒々とした目で見つめるだけ。

 それだけで気持ちが伝わると信じているみたいだった。


 桶の中身はほとんど空っぽで、わたし一人でも運ぶことができた。

 縄と板で組まれた階段を、わたしはすたすたと登っていく。

 はるか眼下では、白い霧がゆったりと流れている。

 ウヅメはおっかなびっくり、わたしの後をついてくる。


「か、カガミちゃん。待ってよお……」


 わたしは大げさにため息をついて、足を止めた。

 ウヅメは嬉しそうに、パアッと表情をほころばせる。


「ありがとう、カガミちゃん」

「……べ、別に?」


 なんだかきまりが悪くて、わたしは木桶に目を落とす。


 ウヅメが言った。

「樹液、あんまり採れなかったね」

「そうだね」

「また、お引っ越しだね」

「そうだね。今日中に『物出しの儀』をするんじゃないかな」


「そっか」とウヅメは微笑む。「それなら、わたしの『紅入れの儀』は、もう少し先になるのかなあ?」

「そう、だね……」


 世界樹の樹液は、わたしたちの暮らしを支えている。


 樹皮に筒を打ち込めば、青みを帯びた透明な液がほとばしる。

 そのまま舐めると、舌をしびれさせるような芳香が口に広がる。

 冷暗所で一晩寝かせれば薄緑色の沈殿物が析出して、上澄み液からは酒と燃料を作ることができる。

 そして、沈殿物を練って焼けば香り豊かなモチに──つまり、わたしたちの主食になる。

 さらに世界樹の木酢は蛍のような光を発するので、照明として利用されている。


 樹液は食料であり、生活必需品であり、樹液の枯渇は村の滅亡を意味していた。


 だから樹液が採れなくなるたびに、わたしたちは村を移動させるのだ。

 ある採液場が枯れてしまっても、大人の背丈で二十人分ぐらい登った場所からは新鮮な樹液が採れる。

 だから、少し高い場所に再び杭を打ち込み、柱を渡して足場を組み、箱家を吊り下げる。

 村はもう何百年も、そうやって世界樹を登り続けてきた。


 わたしたちが社殿に着くと、すでに大人たちが集まっていた。

 社殿の南側は「甲板」と呼ばれる板張りの広場だ。お互いの肩が触れ合うほど混雑していた。


 採液場が枯れたことを誰かが伝えたのだろう。

 アメノ様は声を張り上げて「棟梁はどこだい!」と訊いている。

 大人たちに阻まれて、わたしたちの場所から声の主は見えなかった。


「棟梁が着きしだい、物出しの儀を始めるよ。まったく忙しいったらないよ」


 村の移動が決まると、アメノ様は大工道具の一式を棟梁様に渡す。

 そういうなのだ。

 のこぎり、とんかち、のみ、きり──。

 カナモノという鈍く光る素材で作られた道具たち。


 大工道具は社殿の奥に保管されていて、代々の語り女が大切に管理してきた。

 この道具がなければ村を移動できず、わたしたちは樹液の枯渇とともに滅びるしかない。

 命よりも大事な道具を男たちに貸し出すのが『物出しの儀』だ。


「男衆はさっさと集まりな! もたもたするんじゃないよ!」


 ウヅメの手を引いて、わたしは声のする方向を目指した。

 大人の体をかきわけながら、社殿に近づいていく。


「……棟梁はまだ来ないのかい。酒でも飲んで寝ているのかね。道具はもう準備してあるんだ。物出しの儀なんて、さっさと終わらせてしまうよ。……おや、ウヅメ。ちょうどいいところに来たね。カガミと二人で棟梁の家までお使いに行ってくれるかい?」


 これが、その日あった「特別なこと」の一つ目だ。

 樹液が枯れて、村の移動が決まった。物出しの儀が行われた。

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